第19話

 大学の校舎の屋上。


 そこからは大学全体を見下ろすことができる。体育館付近で暴れている悪童や一目散に脱走を図る学生たちなど。


 そんな下の様子とは打って変わって、屋上では静けさが保たれているので、どこか他人事のように感じてしまいそうになる。


 夏にしては冷たい風が屋上にいる九重と、もう三人に吹きつけている。


「これでチェックメイトです」


「参りました」


 白コートに身を包み、フードで顔が隠れている男が黒スーツの男とチェスに興じていた。


 もうひとりの黒スーツ男は、チェス盤の横で直立している。


 白コートは盤上にある黒のナイトを指で弄びながら、世界を嘲笑っているかのような声で九重に言った。


「君と久しぶりにチェスがしたいですね」


 事態が事態なので九重は断りたかったが、この男の前ではそれができず、複雑な表情を浮かべる。


「なんであんたがここにいるんだよ」


 白コートの要望を無視し、逆に質問を返す。


 すると、白コートは不敵に笑った。


「チェスをしてくださるならお答えしましょうか」


 できるかぎり時間はかけたくないのだが、白コートがチェスをしなければ話さないと言ったのでチェスをする以外の選択肢はない。この白コートがそのくらい頑固であることを九重は知っている。


「わかった」


 九重は仕方なさげにチェス盤の方へ足を進める。


 黒スーツの男と席を代わり、腰を下ろす。


 白コートは明らかに気分を良くしていた。


「いいですね。君も時間が惜しいでしょうし、一分戦でどうでしょうか」


 持ち時間が互いに一分しかない早指しを申し出てきた。九重としては都合がいいので難なく了承する。


 白コートは黒の駒、九重は白の駒を陣地に並べる。すなわち九重が先手である。


 互いの持ち時間を計る――チェスクロックを九重が叩いてゲームがスタートする。


 早指しは時間がないので、一手指すのに一秒かけるかかけないかぐらいのスピード感がある。双方がテンポよく駒を動かしている最中、九重は先ほどと同じ質問を投げかける。


「なんであんたがここにいるんだ?」


「そうですね。君を殺すため、といったところでしょうか」


 一瞬、身震いし手が止まる。だが白コートが笑うことで硬直した身体はほぐれた。


「今日は殺しませんよ。君、強いじゃないですか」


「昔からあんたが何考えてんのか、さっぱりわかんねえよ。ったく、何手先まで読んでんだか……」


 九重は少し悩み、白のポーンを一マス前進させる。


「僕には天賦の才があるからね」


 迷いのない手つきで白コートは黒のクイーンを戦線に参加させる。


「けれど才能があるのは君も同じですよ」


「いーや全然違うねえ。同じだったらこんなにも防戦一方にはなんねえよ」


 九重が言及したのはチェスの戦局についてである。ざっくり言うと、白コートが優勢を築いている。


 とはいえ九重が弱いというわけでは決してなく、むしろ白コートの言う通り、九重は才能を光らせていた。


 常人にはさばききれない白コートの攻撃を一分という切迫した時間の中で、一度のミスもなく受け流しているのだから。


 ゲーム自体は終盤に差し掛かる。


 白コートは片時たりとも悩む素振りを見せない。


「相変わらず君は自分が嫌いなんですね」


 またも九重の手が止まった。短く息を吸う。


「ああ、嫌いだなぁ。女の子と手すら満足に繋げない童貞の俺なんざ、一生好きになれねえよぉ」


 九重は余裕そうに振る舞うが、傍から見ればわざとらしいことこの上なかった。


 白コートは微笑した。


「その様子なら君はまだ僕の教えを覚えているようですね」


 白コートはルークを敵陣地の奥深くまで進めた。




「持つ者は持たざる者のために生きなければならない。能力があるのに、それをあますことなく行使せず、他者に任せるのは怠慢です」




「覚えてくれているようで何よりです」と白コートは笑顔で称えた。


 対して九重は苦虫をかみつぶしたような顔で、


「……クソみたいな教えをどうも」


 と嘆いた。


 九重は完全にチェスの駒を動かす手を止めた。動揺しているから、というわけではなく、戦局を鑑みて、もう打つ手がないと判断したのだ。つまり、詰んだということだ。


「投了」


「グッドゲーム」


 白コートは不気味なほど礼儀正しかった。


「君がクソと思おうが世の中は君のために動いてくれないですよ。僕らの知らない世界では才能があるがゆえに周りから『お前は才能があるからこれをするべきだ』と本人の意思も尊重せず考えを押し付けてくる人間が、しかも大勢いるんです。声優になりたいと思っていてもそれを言い出せず医者になった子どももいるでしょう。あるいは普通に女の子と交際して、結婚して父や母みたいに普通の家庭を築きたいと言い出せず、童貞を貫いているヤツもいるでしょう」


 白コートは急に九重の瞳を射抜く。


 脊髄反射でさっと目を逸らす。本能が怖がっているかのように。


 なおも白コートは続ける。


「いつだって持ってない人間は憐れまれ、持っている人間は嫉まれるのです。大富豪が寄付をしないと明言すれば非難の対象となる。彼らや彼らの先人の努力によって積み重ねてきた金だというのに、持ってない人間は口をそろえて言うのです。『金持ちのくせに』と」


 黒のナイトを執拗に弄る。


「持っている人間に選択の自由はないのです。ただ持っていない人間に奉仕し続ける。それが才能と引き換えに神から与えられた宿命みたいなものなのです。であればもうそういうものだと割り切ってしまった方が楽だと、今の君も思いますよね?」


 九重は何も言い返せなかった。


 言い返したいと頭では考えていても、口がついてこなかった。「違う」と言ってしまえば、今までの、そしてこれからの自分の生きざまを否定するような気がしたのだ。


 そのぐらい白コートの言い分は図星であった。


 そんな九重の様子に満足したのか、白コートは優雅に立ち上がり、九重を見下ろした。


「ま、思っているからこそ君はこうして僕の前に現れたのでしょうね」


 白コートが黒スーツのひとりに目配せすると、黒スーツは指をパチン、と鳴らした。


 突然、鈍色のワームホールが出現。彼らの移動手段と思われる。


 白コートがワームホールの目の前で立ち止まって、不意に振り返ってきた。


「せっかく君が正直になってくれたお礼に、もうひとつだけ教えてあげますよ」


「……何を」


 九重は可能な限り言葉を労さないよう、鋭く睨んだだけだった。


「僕がここに来た目的は君に会いにきたのもあるけど、メインディッシュは君の彼女です」


 彼女、という言葉の意味を理解するのに時間がかかったが、九重がかかわりを持つ女性なんてひとりしかいない。理解してすぐに訂正した。


「あいつは彼女なんかじゃねえ」


「あぁそうでしたか。最近よく一緒に行動しているみたいなのでつい。とはいえ彼女が大事なのは変わりないでしょう。早く行ってあげないと……危険ですよ?」


「てめぇ……」


 九重は右手に童素のエネルギー弾を創造する。


 白コートは九重の攻撃的な態度を見ても、余裕の笑みを崩さない。


「おっとその物騒な童素をどうするつもりです?」


「てめぇは今日、俺を殺すつもりはねえって言ったが、俺がてめぇを殺すつもりはないと言った覚えはないぞ」


 言うが早いか、九重はまばたきよりも速く、一気に距離を詰める。


 それすら予測していたのか、白コートは黒スーツのひとりを引っ張って盾にした。


 顔面に童素の塊が直撃した黒スーツはそのまま地面に倒れ込んでしまう。


「チッ」


 九重が舌打ちし、次の攻撃を用意する前に白コートはワームホールの中へ消えていった。


 悔しがっている暇はないと自分を鼓舞し、急いで絹衣の方へ向かおうとするが、さっき九重の童素弾を食らった黒スーツがしがみついてきた。


 なにやらカッチカッチ、という機械音が聞こえる。


 黒スーツはその音に異常なまでに怯え、顔が涙でまみれていた。クシャクシャになったアルミホイルのようだった。


「い、いやだ! し、し、死にたく、なぃ!!」


 よく見ると、黒スーツにはいつの間にか首輪が付けられていて、そこに取り付けられたミニサイズの電光掲示板では残り十秒を示すカウントダウンが始まっていた。


「あの野郎!」


 九重はどうにかその首輪を外そうと試みるが、びくともしない。鍵穴すら見つからない。


 無慈悲にもカウントダウンは進んでいく。


 ――――五、四――――


「待って! 待って! やだ! やだ!」


 ――――二、一――――


「やだ! やだ! ああああああああぁぁぁぁあぁぁああはぁぁあぁあああぁ!」


「クソがァああああああああぁ!」




 ――ドゴオォオオン




 屋上で人知れず、爆発音がとどろいた。

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