第17話
九重と絹衣の調査、一日目はこんな感じだった。
絹衣の記憶について何かわかったことは一切なく、やたら距離が近かった絹衣に振りまわされただけのような気がした。
いくら童貞をやめられない理由があるにしても、それは女の子にドキッとしないことと同義ではない。恋愛感情とまではいかなくても、こんなにも可愛い女の子とふたりで遊んでいたという事実は、今までの九重の姿と重ねてしまえば、ほんの小さな優越感へと変わってしまうのも無理はない。
誰に自慢するでもないが、いや、過去の自分に自慢でもするかのように何度も頭の中で、絹衣との会話や行動を反芻した。
そしてそれは一日目に限ったことではない。
調査は日を開けて、何度か行われた。
映画館、水族館、遠出して知らない街を観光することもあった。
絹衣とふたりで色々なことをしてみたが、結局、記憶について進展することはなかった。
でも九重が「もういいんじゃねえか」と言い出すことは一度たりともなかった。
バイト仲間だから絹衣と仲良くしてくれという帝三からの願いもあるが、何より九重は人からの頼みを途中で投げ出さないことに決めているのだ。
人の頼みを投げ出してしまえば、自分には生きる資格がない、と得体の知れない何かに一生追い詰められてしまうのではないかという恐怖があるためである。
人によっては、というか大半の人は大げさだと嘲るかもしれないが、九重にとっては例外なのだ。罪悪感が九重の心の底に根をはりめぐらせ、いつまでもこびりついている。
ただ、その罪悪感の正体は本人以外、知る由もないのだが。
だから九重は今も絹衣の記憶探しに嫌な顔ひとつ見せずに、行動を共にしている。
絹衣が通う大学のキャンパス。
最寄りの駅から徒歩十分ほど。
長い階段に何度も足を踏みしめなければならず、キャンパスにたどり着いた頃には、軽く息切れしていた。
時刻はちょうど正午を回る。
ゆえに絹衣の要望で、彼らは大学内の食堂へ向かった。
バイキング方式の食堂で、多くの学生が列を成していた。講義や課題の相談とか部活や同好会に関する雑談など、それぞれが思い思いに話していて、食堂内が賑やかになっている。
九重と絹衣は窓際のカウンター席を陣取り、隣り合って座っている。
絹衣も九重もカツカレーを一品のみ。
カツカレーの香ばしい匂いに食欲をそそられ、スプーンで食そうとした時、絹衣が「待って」と止めた。
「なんだい、お嬢さん。俺ぁ犬じゃないですぜ」
「せっかくだし、あーん、しようよ」
「ぼく、犬だから人間の言葉わかんない。ワンワン」
「下手な演技でごまかさないで」
唐突な申し出に九重は焦った。あーん、なんて恋人っぽいこと、童貞には荷が重すぎる。記憶にまつわる情報を収集したいのか。恋人っぽいことをさせようとする、絹衣の魂胆は理解できる。
それでもやはり九重の全身を、熱を帯びた緊張が走る。
「ぼく、犬だから人間の言葉喋れナーイ」
「しゃべってるわよね、それ」
絹衣は額に手をやり、嘆息する。
「わたしたちが付き合っていたとしたら、ぜったい、あーんはしてるはずよ。だったら記憶を取り戻すトリガーになるかもしれないじゃない」
「いや、二島の言い分はわかるしできれば協力はしてえ。けどよぉ、さすがにか、か、間接キ、…………はちょっと……」
「ん、何? はっきり言わないとわからないわよ?」
「お前なぁ」
絹衣を家に招いた時の意趣返しと言わんばかりに、彼女はいたずらな笑みを浮かべる。
「……んんっ。あ、あれだよ。か、間接キスなんてしたら俺の童素が弱まっちまうだろうが。わりいが、それは困る」
童貞は女の子に触れると、体内に宿る童素が弱まってしまう。童素の量は、当人の『童貞らしさ』に関わってくるからだ。
単純に心臓がもたないと思ったからでもあるが。
絹衣は表情を崩さず、スプーンでカレーをすくう。
「はい、あーん」
「あのー話聞いてた?」
「聞いてたわよ」
「じゃあこれ何?」
「あーん特攻部隊」
「ワードチョイスバグってんぞ。無理やり食べさせる気満々じゃねえか」
「あなたの心配はわかった。要はあなたがわたしに触れなければいいのよね。ならまだわたしが口をつけていないスプーンでカレーを食べても問題ないわよね?」
「ぐっ……た、たしかに……」
つまり間接キスは間接キスでも、九重にとっては絹衣との直接的な接触がないのだ。
この行為で間接キスを味わうのは、九重が口をつけたスプーンで食事を再開する絹衣だけ。
この条件下なら九重の童素が弱まることはない。
とはいえ、自分の目の前で美人の女の子が何のためらいもなく間接キスをするのだ。もっといえば、おそらく絹衣はこれ見よがしに見せつけてくるかもしれない。九重をからかうために。
そうなれば童素が弱まらないとはいえ、九重にまったくの無害とも言い切れない。
もはや実行する前から、九重の心臓は早鐘を打っている。
「はい、あーん」
「あ、あーん」
最初はためらったが、九重はあーんを受け入れた。
受け入れれば記憶について何かわかるかもしれないと自分に言い聞かせ、勢いに任せてかぶりついた。
食堂らしいインスタントな美味さが口の中に広がる。いつもより噛む回数が多くなった九重は、咀嚼後に言う。
「なんか、この食堂のカレー、熱すぎないか?」
「そう? そんなことないと思うけど」
絹衣は九重が頬張ったスプーンを自分の皿にもっていき、予想通り躊躇なくカレーをすくって、食べる。
「うん、いつも通り」
固唾を呑み硬直する九重とは対照的に、絹衣はパクパクと食事を進めている。
自分が絹衣と間接キスをしているわけではないのに、いや、だからこそか妙な緊張感を覚えてしまい、絹衣が耳に髪をかける仕草にくぎ付けになる。
そんな九重の様子に気付いたのか、絹衣は横目で一瞥し、また視線をカレーに戻す。
戻したまま彼女は言った。
「んー、やっぱり何も思い出せないわね。あなたはどう?」
「……え? なんて?」
「何、ぼーっとしてるのよ。そんなにドキドキすることかしら」
「はぁ!? べ、べつにドキドキなんかしてねえし、してねえし!」
「はいはい、それで? 何かわかったことはある?」
「いいや、何もわからねえなぁ」
九重の努力もむなしく、成果はゼロだった。ただ身体に熱い血が流れる感覚だけが残った。
じっと絹衣を見ていると、当たり前だが、彼女は居心地悪そうに目をそらした。
すると、ふと彼女がこう言葉をこぼした。
「でも、たしかに今日のカレー、ちょっと熱いかも」
「お前も?」
「あ、その……あなたとは違うから……」
「違うって何が……」
「い、いいから……早く食べないと冷めてしまうわよ」
「お、おう……」
注意を受けた九重は切り替えてカツカレーを口に運ぶ。
「あっつ」
どういうわけか、九重たちが食べているカツカレーはしばらくの間は冷めないような気がした。
だが浮ついた気持ちはいつまでも続かなかった。
九重たちが昼食を食べ終わり、食堂を出た直後のことだった。
「やべぇ! 体育館付近で悪童が出たらしい! みんな逃げろ!!」
ひとりの学生の叫び声が聞こえた途端、大学内は騒然とした。
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