残金 0円


「なんであんたがアメリカにいるのよ——じゃない、いるんだ」


 カジノでは賭け用の英語しか使っていなかったせいか、そのたった一言の日本語がずいぶん懐かしく感じる。

 男性にしては甘やかな声に顔をあげると、鳥の糞を踏んでしまったような表情の垢抜けた青年がいた。


「は? イケメン? どちら様ですか?」


 似たような年格好の知り合いといえば研究室の学生たちだけど、彼らはもっとこう……、鳥の巣みたいな感じだ。

 目の前の彼をてっぺんから靴まで観察すると、その強気な眼差しとよそおいのセンスにはたしかに見覚えがあるような。

 見れば見るほどお金を貸してくれなさそうな男だ。ということは金融関係ではないだろう。僕、懐のヒモが固いひとの顔を覚えるのは苦手なんだよね。

 「んー?」、と頭を捻る僕に彼は小銭よりつめたい視線をよこしてくる。


「お札でできた花束でプロポーズした相手の顔を忘れるような男なのね——男だとは思わなかった」

「ええ!? え! お、お前、男だったの!?」

「日本にいたときは女だったわ。あぶく銭が手に入ったから、その足で渡米して性別を変えたの」


 後ろに払われた彼の長めの指さきが、すっかり短くなった髪を空振りする。

 彼は一つ舌打ちをして、今だけは見た目相応の振る舞いを諦めたらしかった。少し前まで諭吉の次にそばにあった、ざっくばらんな女言葉で話し出す。

 僕の諭吉が彼女を彼にしたかと思うと、正直なところ複雑だ。


「ええ、そりゃまたなんで」

「今までずっと男から金を巻き上げて生きてきたんだけど、流石にあんたから十億いただいたし、今度は女からも搾りとらないと不公平かと思って」


 まさかこっちで会うとはね、なんて嘯く声はすこし震えていた。

 さては僕が訴えるとでも思っていたのだ。実際は、失恋直後に人身売買の脅迫をされ、諭吉を焼失し、ゴリラとの縁談が来てラスベガスだったのでそれどころではなかった。

 けれど、たしかに「失恋のショック」が「知り合いが性転換したショック」に塗り変わった今なら十億円の返済を請求できる気がしてきた。

 僕は立ちあがってズボンについたホコリを叩く。手に匂いがついているような気がするが、そこには目を瞑って、身構えている元恋人に声をかけた。


「なあ、」

「イヤ」

「まだ何も言ってないじゃん! 相変わらずせっかちだなあ」

「言わなくてもわかるわよ。どうせお金返せっていうんでしょ」

「バカ、貸してほしいの!」

「さして変わんないじゃない!」

「大違いだよ!」


 違う、違わないの押し問答を数回くりかえして、相手は頭をおさえた。そしてその視線がスイスイと左右に走り、最後に僕に戻る。


「……ここ臭うし、場所移しましょ。あのカフェでいいわよね」


 近場のフランチャイズっぽいカフェに入る元恋人を僕は慌てて追った。こうやって足が速い相手を追いかけるのも久しぶりだ。


「サラダボウル、Sサイズで」

「僕はパニーニとアイスコーヒー」


 店に入ればその背中がちょうど注文していたので便乗させてもらう。もちろん奢ってもらうとも。


「あんた、相変わらずお金持ち歩いてないのね」

「まあね。それにしても性転換手術ってそんな金かかんの?」


 トレーを受け取ってテーブル席につき、想像の三倍くらい大きかったパニーニでコーヒー色のガムシロップを飲む。甘い。

 向かいでは元恋人がプラスチックのフォークで極彩色のサラダをつついている。食べる気はなさそうだ。


「一億。骨格、声、生殖機能、それから快感神経。ホルモンでどうにかなるものもあるけど、そうじゃないことも結構あるのよね。まだいくつか施術が残ってるわ」

「そうなんだ。結構かかるんだね。残りの九億は使い道決まってるのかい?」

「嫌」

「だからまだなにも言ってないじゃん。それによく考えてよ、裁判起こしたら僕が勝つよ。額が額だし」

「ハア? 闇金から借りたお金でしょ。私には関係ないわ」


 巨大なパニーニにも食べ飽きて、汚れた指をナプキンで拭う。

 余裕綽々の元恋人には悪いけど、説得材料がこれだけだとは思わないでほしいな。存外、君は僕のことを知らなかったんだなあと、少し悲しくなった。僕を理解しているのは諭吉だけだ。


「僕さ、遺言書に『君に財産相続する』って書いてたんだよね」

「まさか」

「借金も財産だからさ」

「消しなさい、今すぐ! というか借用書の相続権なんて放棄一択に決まってるでしょ!」

「でも闇金は君を知ってる」


 元恋人は借用書の保証人ではないし、結婚詐欺師として訴えるにしても根拠が弱い。けれど、それは法律の問題であって、消費者金融側の理論とは異なる。

 相手もそれに思い至り、一気に顔が険しくなった。僕をどうこうしたところで、業突く張りな消費者金融の手は伸びるときは伸びるものだ。

 まあ遺言書の内容は嘘八百だけど。本当は、僕を火葬するときはゆきちを棺にミチミチに詰めてくれって書いてある。


「……まったく仕方ないわね。返すわよ、返せばいいんでしょ、通帳」

「よっしゃ」


 元恋人は鞄から見覚えしかない通帳と判子を僕によこした。思わず頬ずりしてしまう。数字の文字列に変わっているとはいえ、諭吉は諭吉。愛してる。

 中身を確認すれば八億九千万ほどが残っていた。よし、あと一億ちょっと集めればなんとか首の皮一枚はつながるな。しめしめ。


「ところであんたはどうしてこっちにいるのよ」

「十億稼ぎにラスベガスに。ようやくこれで八億九千万」

「えっ。あんたに金を稼ぐって発想があったことに驚いたわ。一ドルも増やせていないことにも」

「そういうわけだからお金ちょうだい。アイタッ」


 できればあと九十一億、と続けようとしたところで、丸めたチラシでブッ叩かれた。トレーに敷かれていたものだ。

 ポテトぶちまけたあとのチラシだったら怒っていた。しかし上にあったのはサラダボウル。なので許す。


「あんた、面の皮何センチあるの? マントル並みよ。信じられない」


 元恋人はサラダを残して足音高く店から去っていく。


「なにもそこまで怒らなくてもいいじゃないか。……ん?」


 このサラダ食べてもいいよね、とテーブルの上を見ると、中途半端に丸まったチラシが目に入った。神秘的な青いチラシにはこう書いてあった。


『資源惑星移植者大募集! これであなたも石油王! ——アメリカ航空宇宙科学局』


 キタコレ。


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