残金 320円


 ——ガッ、ガラガッシャン。

 プシュ。


 自動販売機から赤いラベルのペットボトルを取り出して赤いキャップを捻る。よく冷えたコーラが喉に染みた。


「ゲプ」


 ポケットの百七十円がちゃりちゃりと寂しげに音をたてた。十日以内に十億円。他の消費者金融に頭をさげまわって用立てるのもいいとは思うが——


 『石油王になれ』


 そう言った借金取りさんのダンディな声がどうにも耳について離れない。

 あの借金取りさんは無理難題は言わない常識人だ。きっと何かしらの意図、正確には救済措置や抜け道があるはず。

 そもそも成人男性の各臓器を皮膚まで含めて売っても一千万円がせいぜいなのは知っている。きっと身体のバラ売りうんぬんは脅しで、僕を石油王にするのが本命に違いない。

 あの時の僕にはまだ守るべき諭吉がいた。でも、今はその諭吉がいない。

 よし、その思惑に乗ってやろうじゃないか。

 向かうは通いなれた消費者金融の事務所。住宅街に何気なく溶けこんだ雑居ビルの三階、イマイチ日当たりのわるい物件だ。

 合成皮のソファに借金取りさんと二人、向かい合って腰掛ける。実はお金を借りる以外の目的でこのソファに座ったのは初めてである。


「石油王の話を聞きたいんです。昨日、選択肢に挙げていたでしょう」

「その気になったか。ありがたいね。実はあんたに見合いの話が来ている」

「見合い?」


 石油王と見合いの話のつながりが見えなくて、僕はオウム返しに問いかけた。

 そりゃあ僕の顔は悪くないけど、かといって一目惚れされるほど諭吉だとまでは自惚れていない。


「ああ。アラブの石油王——うちのスポンサーの一人なんだが、その娘さんがね、逆ハーレムを作りたいと」

「逆ハーレム〜〜〜〜???」


 諭吉のハーレムならわかる。ものすごく気分が上がる。僕の諭吉ハーレムは今灰塵に帰しているけれど、いつか必ず再建したいパーリナイ。

 だが、諭吉に劣る男を集めて眺めて何が楽しいのやら。

 僕は自分が諭吉に劣っている自信があるぞ。なんでも用意してやれる甲斐性も諭吉の方が断然上。自信をもってオススメできる。


「彼女は父親経由とはいえ巨万の富を動かせる。普通なら彼女のもつ力に人は群がる」

「ならそいつらで作ればいいじゃないですか、逆ハーレム。なんなら石油にちやほやしてもらえばいい。くだんの彼女、なにが問題なんです?」

「わかるか。とんでもない不細工なんだ。これを見てくれ」


 無骨な手で滑らされた、箔押しの釣書を手に取る。

 金で縁取られたヴェールからのぞく、褐色とは言えぬ黒々とした肌、そしてアフリカの奥地を感じさせる彫りの深すぎる顔立ち。紅に染めぬかれた豪奢な袖をはちきらんと生える、毛深い剛腕。

 これは——


「……ゴリラじゃん。不細工じゃなくてゴリラじゃん。着飾ったゴリラじゃん。ゴリ子にも衣装ってか?」


 間違いない、ゴリラだ。

 褐色の肌とかそういうレベルじゃないし、馬子にも衣装の騒ぎでもない。

 どちらかというとネコに小判ブタに真珠系列だ。動物園に返してこい。


「え? イヤ、え? これ人間? いくら類人猿の遺伝子がホモ・サピエンスと九十八パーセント同じだからって人間からゴリラが生まれる? 石油にモノを言わせて戸籍を作ったゴリラの方が説得力がありますよ!」

「残念ながら、人間らしい。いくら男が穴さえあれば勃つような猿だとしてもこれに勃つのは同じゴリラ・ゴリラ・ゴリラだけだとは思う」


 ゴリラの隣でにこやかに立ってる園長——否、父親とおぼしき人は、石油王にはありふれた見た目をしているんだぞ。数百万年の隔世遺伝だとでも言い張るつもりか?

 二度見三度見、果ては五度見しても、ゴリラが褐色美女ではないという事実にぶちあたるだけ。

 借金取りさんもゴリラ相手だと知って石油王ルートを提案してくるなんて、なんて人でなしなんだ。常識人だと信じていたのに。ひどい裏切りを見た。


「しかし、ゴリラ相手に男を見せることができれば、あんたは石油王の娘婿。十億なんて端金。どうだ、婿になる気になったか」

「せめて顔が諭吉だったらイけたかもしれないんですけど、これは、あまりにも、あまりにも、厳しい……」

「まああと二日で十億用意できなければ、どのみちゴリラコースだ」


 借金取りさんはさも真面目そうにメガネをクイと押しあげる。

 ゴリラコース。

 その響きは僕の心胆を寒からしめた。これなら部位ごとにお安く売られた方がマシではないか。僕の取り柄といえば計算スピードが関数電卓より早いことくらい。もしかして前頭葉が高く売れる?

 不整脈を打つ心臓に合わせて、胸元で「プルルルル」と携帯端末が震えた。表示はホームレス、親友だ。

 借金取りさんに断って、緑の通話ボタンを押す。


「もしもし」

「あ、親友。今馬場にいるんだけど、一発当ててよ! ラスベガスへの片道切符を手に入れたんだ! 一緒にどうよ。お前さん英語話せたよな?」


 石油持ちのゴリラと、イカサマできるラスベガス。

 ゴキゲンな彼の誘いに僕は高速で首を縦に振る。あかべこと言われたっていい。天秤はあっさりとラスベガスに傾いた。


「行く」


 しかもだ。ラスベガス行きにはもう一つメリットがある。

 アメリカに行けば時差で半日とは言わないまでも、六時間は時間を稼げる。八方塞がりのこの状況ではまさに地獄に垂れた蜘蛛の糸。キンキラキンの輝きに縋りつけ。

 そうと決まれば僕のやることは一つ。

 借金取りさんに向き直り、流れるように土下座した。


「借金取りさん、後生だ。お金を貸してください!」

「バカにすんのも大概にしろ。どの口がそれを言うんだ」

「この口」

「あのね、漫才してる暇はないんだ。よく考えろ、返される見込みがない金を貸す金融なんているわけないだろ」


 その通りだ。だからこそ、新たな借金の糸口がある。


「さっきの石油王の娘婿の懸賞金——いや、この場合は報奨金ですか? 十億じゃあきかないんでしょう。だって僕があんたたちから借りた額は数百億はある。最初から僕を嵌めるつもりだった、そうでしょう? 騙すなんて身体のバラ売りよりヒドイじゃないですか」

「その通りだと言ったら? 幸か不幸か、あちらさんはあんたを気に入っている」

「不幸でしかない」


 僕は今まで一度も借金を返済したことはない。それでも融資を受けていられたのは、僕がお金を使わずにいて、いつでも取り立てられると慢心されていたからだ。

 だが、彼らからもらった諭吉たちが焼け死んでしまった。諭吉と一緒に彼らの余裕もなくなってしまったのだ。


「あーー、つまり僕が何を言いたいかって言うと、今更もう数百万借りても、端金だろってことです。でもあんたたちは僕に十億を三日以内に用意しろと言った。つまり、金が必要になったか、僕以外にゴリラ好みの顔が現れたか、急いで僕を輸出しなきゃいけない事態になった。違いますか」


 反応がない。けれど、悪い沈黙ではない。

 幾度となく彼からお金を引き出した僕の第六感がそう確信した。あともう一押し。


「三百万。三百万用意してください。そうしたら、残り三日で百億にかさまししてみせます」


 頭上に、はああと大きな溜息がかかる。

 僕は俯いたまま、「仕方ねえな」という声がかかるのを待った。


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