石油王への道

不屈の匙

残金 2,312,275,040,320円


「君に不自由はさせない。だから結婚してほしい」


 僕は跪いて、彼女に札束でできたバラの花束を差し出して愛を乞うた。

 白いかいながそれを受け取り、端正なお礼が述べられた。


「お花、ありがとう」


 僕は勝利を確信して、能面のようにあいまいに笑う彼女をじっと見あげた。


「でもごめんなさいね、あなたと結婚する気はないの」

「なんでだい!? 君はお金が好きだっていったじゃないか! 僕はお金ならたくさんある! うんとある! 君も知っているだろう!?」

「ええ、お金は大好きよ。愛してる。諭吉のお風呂で泳いで金の便座で用を足すのは幸せだったわ……」


 彼女は頬に長い指を添え、諭吉や金塊との生活に思いを馳せているらしかった。うっそりと染まる頬の赤みは嘘ではない。

 だからこそ僕は耳を疑った。僕はお金が好きだから、部屋は諭吉でできている。精緻な親父の視線に見守られて日々を送っている。

 彼女も同類だと思ったのだ。だからこそこれから先もずっと二人でうまくやっていけると思ったのだ。

 そりゃあ金箔のティッシュペーパーだとか、宝石をごてごてと貼りつけたスマホケースだとか、趣味が悪いなあなんて思ったけど、彼女のために用意したのだ。

 だのに彼女は僕と結婚しないと言う。僕は信じられない気持ちでいっぱいだった。


「だから一万円札でできたお花は受け取ってあげる。でも借金男なんて願い下げよ。石油王になって出直してらっしゃいな」


 彼女はふんと鼻息をひとつつくと、諭吉の花束を抱えて颯爽とその場を去っていった。

 一世一代のプロポーズは大失敗。僕は石油に負けたのだ。

 金より石油の方が価値があるって言うのか。その価値は結局お金に換えられるじゃないか。よく燃えるところだってそっくりだ。

 だいたい借金がなんだっていうんだ。たしかに僕が稼いだお金なんて百円どころか一円もないけど、誰が稼ぐかなんて関係ないだろう。金は金じゃないか。

 地面にくずおれて鼻をすする僕の肩に、ポンと分厚い手が置かれた。


「あーあ、かわいそうに。借金してまで作った大金は全部あの女のもの。だから印鑑と通帳を入れるのはやめておけって言ったのに」

「借金取りさん……、ズビッ」


 顔をあげると、馴染みの借金取りさんが四角いメガネ越しに彼女の去った方向を眺めていた。僕はごく自然に差し出されていたハンカチでありがたく鼻をかむ。

 今日のプロポーズについては彼にいろいろと相談に乗ってもらっていたというのにこのありさま。

 情けなさが穴という穴から涙と鼻水を呼んで、ハンカチはすぐにびちょびちょになった。畳んで返そうとしたら遠慮されてしまったので、そばにあったゴミ箱に捨てた。


「で? 返済の見込みは?」

「ないですが」


 僕は今回のプロポーズのために彼のところの消費者金融でさらに十億円を都合していた。

 返すあてなんて当然ないから、返せって言われても僕は潔く首を振るだけ。

 すると借金取りさんは僕の襟首をひっ掴んでズルズルと近くの公園のベンチへ引きずっていく。


「イヤだッ! コンクリートに埋められて東京湾にドボンはイヤだッ!」

「馬鹿じゃねえの。死んだらもう何も生まねえ。働かねえ作らねえ人間に価値はねえ。あんた経済を習ってないのか?」

「こちとら経済学の博士じゃい!」

「その研究室のお先は真っ暗だろうよ」

「バカヤロウ灯台元暗しって言うでしょう。遠い先々は光に満ちあふれてるわ。僕がいるんですよ?」

「天に召される天使の梯子の見間違いだろう、それは。悪ぃな、宗教家には胡散臭い坊主くらいしか知り合いがいねえが、良い闇医者なら知ってるぜ? 紹介しよう」

「アッ、癌なんで!!! 使える臓器ゼロなんで!!!」

「まあまあ落ち着けって。健康診断の結果、もらってっからお前さんの活きがイイのはよぉく知ってる」

「あれ実は嘘で本当は持病のHIVが」

「大丈夫、心臓の一つや二つ抜いても死なないさ」

「僕は人間ですが!? イカでもタコでもないのに心臓がいくつもあるわけないでしょっっ!」


 ゼイゼイと肩で息をする僕と違って、僕から手を離した借金取りさんの撫でつけられた髪はひと筋も乱れがない。


「お前に残された手段は三つ」


 ふーーーっと僕に向かって細く長く吐き出されたそれはガムのミントの匂いがした。

 目の前には古傷だらけのこぶしが突きつけられている。


「臓器を売る」

「却下」

「女から金を奪い返す」

「失恋したばかりの僕になんて鬼の所業」

「最後だ……。石油王になれ」

「僕、お金は好きなんですけど石油はちょっと……」


 無骨な指がひとつ、またひとつとそそり立ち、最後には三本になった。どれも簡単には頷けない選択肢だ。


「三日だ。三日で金を用意しろ。あの女に渡した十億円。できなきゃお前を切り刻んで売り飛ばす。お前が一生かけて稼ぐ金より、売った方がナンボかマシ、それが上の判断だ」

「ひょえ」


 僕が頷くかどうかに関係なく、借金取りさんは淡々と最後通牒というように薄っぺらい通知書を握らせた。そして彼は「次の取り立てがあるから」、とあいさつして僕を公園に置いていった。薄情者め。

 僕の横では五歳くらいの子どもたちがボールをポンと蹴って遊んでいる。


 僕には幾多の消費者金融から借りまくって築きあげた巨万の富がある。

 ぶっちゃけ十億程度ならベッドのマットレスにしている分でこと足りる。

 しかしこれはもう僕のお金だ。僕の財産だ。びた一文、誰にも渡す気も払う気もない。

 借りたら返せと言われるが、どうにか借用書を反故にできやしないか。それにかかるコストは安い方がいい。タダならなおいい。タダより安いものはない。むしろ踏み倒す過程でお金を膨らませられやしないだろうか。

 まあでも、最悪マットレスを借金取りさんに渡せばいい。腹がよじきれそうなほど業腹だけど、背に腹はかえられない。

 家に帰って諭吉の扇をあおぎながらいい策がないか考えよう。

 その前に夕飯の調達をしないとね。

 コンビニの裏手に赴くと、先客がいた。


「よう。金回りはどうだい、親友」

「最高だよ。そっちは?」

「トランスウォランスに単勝賭けてたんだがな、素寒貧よ!」


 カカと笑うと欠けた前歯がのぞくホームレスさんだ。競馬新聞を漁りに来る彼とは廃棄弁当を奪い合う仲である。

 今日は運よく、廃棄弁当が二つあった。ロコモコ丼と炙りサバ弁当。厳正なるじゃんけんの末、僕は炙りサバ弁当を勝ちとった。

 お目当ての新聞がなかったらしい彼はまだいくつかコンビニを巡るという。僕はそんな彼に別れを告げてようやく家路についた。


 赤く染まった帰り道の向こうから、ウゥウゥ、カンカンと消防車の音が聞こえてきた。

 僕の歩みとともに、それはどんどん大きくなる。ついでに嫌な予感も。

 遠くにあった騒めきも、黒い煙も、もうすぐそこだ。というか、僕の住んでいるマンションがゴウゴウと炎と煙を吐き出していた。僕の部屋の窓からも火の手が上がっている。


「家が……、燃えてる……! 僕のゆきち……! 僕のゆきちが……!」


 まっすぐ火の中に飛びこもうとした僕を、オレンジ色の消防士さんが羽交い締めにする。ぐしゃっと炙りサバ弁当が燃えるアスファルトに落ちた。


「危ないですよ! 下がって!! お子さんですか!? 親父さんですか!?」

「命より大事なんです! お願いだから行かせてください!」

「だからダメです! ペットですか!?」

「ゆきちはペットなんかじゃない! 僕の大事な、だいじな……」


 僕は泣きじゃくった。鼻水だって出た。本日二回目の大号泣。昼間は借金取りさんがハンカチを貸してくれたけど、今はそれもない。

 消防士さんさえいなければ、諭吉の一人や二人、いや数百人は救えたかもしれないのに。僕にはあまりにも筋肉がなかった。

 おまけに僕は銀行に口座を持っていなかった。お金はすべて現金で持っていた。持ち歩いていたのは必要最低限だけだ。


「ゆきち……、ゆきち……」


 すっかり火の消えた部屋で、僕は狂ったように諭吉の名前を呼んだ。

 本当はわかっているんだ。諭吉は紙でできていた。だから、今では炭クズになっているって。

 煤で汚れた壁からは、慈父のごとき厳かなまなざしはもう、微塵も感じられない。

 掻き抱けば指を汚すだけの焦げ臭い粉末。滝とこぼれる涙と鼻水をもってしても、それは札束に戻りはしなかった。




 借金の返済期限――僕が解剖されるまで、あと三日。

 現在の所持金、320円。

 「三百円あれば、馬券が三枚買えるぜ」、頭の中でばくち好きのホームレスが骨と皮の親指を立てた。彼の前歯は、やっぱりひとつ欠けていた。


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