第36話

 彼女は周囲のビルよりも一際高くそびえ立つ建物を見上げながら言う。

 外壁は植物のツタや花が上から下へと垂れ下がり、一定の間隔で設置されたルーバースクリーンはホテルの様な高級感を演出していた。

 フィックスサッシは晴れ渡る青い空を反射し、その透明さに吸い込まれていくようだった。


「懐かしいな。といっても僕達は夢の中で一度来たけど、あの時は何一つ覚えていなかったから」


 彼女は口を噤み、感慨深そうに建物を見続ける。

 僕達が再会して最初に訪れるべき場所は、ここ以外に思いつかなかった。


「入ろうか」


 僕は車椅子を押し人波に合わせて玄関庇の方へと向かっていく。

 スロープが設けられ、バリアフリーはしっかりと完備されていたので移動に不便を感じる事は無かった。

 エレベーターに乗り、展望台のある最上階のボタンを押す。

 ガラス張りで街の景色が一望できる仕様になっており、彼女と二人でそれを眺めていた。

 段々と街はオレンジ色に染っていき、太陽が沈みかけている事に気付いた。

 一日の終わりは早い、時間が流れている何よりの証拠だった。


 エレベーターが開くと、以前訪れた時と同様木の廻り階段が続いていた。

 どうしようかと辺りを見渡した時、車椅子のマークが貼られたエレベーターが別の場所にあることに気付いた。

 前回僕達は上にある展望台ばかりに気を取られ見落としていたようだった。

 そのエレベーターに乗り上階へ上がると、いとも簡単に展望台に辿り着くことができた。以前の労力は何だったのかと思わずにはいられなかったが、気づかなかった僕達が悪い。


 展望台には他の人はおらず、わざわざ殺風景な街並を眺めたいとここまで足を運ぶ人がいないのだろう。

 床に敷かれた芝生の上を進み、奥にある天井高のサッシの前で止まった。

 エレベーターの中で見た時よりも街全体が広く映し出され、夕日の照らす場所が街の明暗をくっきりと作り出していた。


「ここから見る景色、変わらないね」


 僕の言葉に、彼女は反応しない。

 ただ黙ってガラスが映す情景に目を向けていた。

 数秒の沈黙があり、彼女は僕の裾を小さく握る。肩を小さく震わせ、時々鼻を啜る音が聞こえてきた。


「・・・私達がここで出会ったこと、覚えてる?」


 僕は展望台の天井を見上げ、両目を静かに閉じる。


「あぁ・・・覚えてるよ」




 あれは高校二年生の夏休み明けの事だった。

 僕は放課後になると、週に二、三回この展望台を訪れていた。

 別にこの場所が特別好きだったからというわけじゃない、ただ単純に暇だったからだ。

 特定の友達はいたけど毎日遊ぶわけじゃないし、部活にも所属していないから家まですぐに帰ることになるのだが、帰ってもすることはないから時間を持て余す。

 時間潰しの為にこの展望台に通っていた、ここなら人は少ないから誰かに目撃される心配もあまりない。

 いても同じく暇そうなご老人方や仕事をサボっているサラリーマンくらいだ。


 ただ、ある日を境にこの展望台は僕にとって特別な意味を持つことになった。

 僕はいつもと同じように、芝生の上に置かれた木のベンチに座って街の景色をボーと眺めていた。

 目を閉じて眠ったり起きたりを繰り返していると、隣に誰かが座った音が聞こえて無意識にそちらに顔を向けた。

 そこで互いの目が合い、僕はその人物を見て心臓が跳ね上がる様な感覚を覚えた。


「・・・香山君?」


 そう呼ばれ、僕は何と言っていいのか分からず言葉に詰まる。

 表情を硬直させたまま小さく肯くことしかできなかった。


「やっぱり香山君だ!奇遇だね!どうしたの、こんなところで?」


 彼女は驚いた様子で声を上げ、何かおかしかったのか笑い出す。

 それは僕のセリフだよ、と心の中で呟く。


 木村ユリナ、二年生でクラスが一緒になり僕の席から斜め前に座っている。今まで話した事は一度もないし、こうして目が合っていることすら初めての事かもしれない。

 彼女は可愛くて、明るくて、当然クラスの人気者だ。

 それに対して僕は人との接触を極力避けており、二、三人の友達といるとき以外は口を開くことすらなかった。

 クラスの中で太陽の様に輝く彼女と、影の中にひっそりと潜んでいるような僕。立ち位置は正反対といってもいいだろう。


 そんな彼女が、僕の名前を知っているなんて、何かの間違いじゃないかと思わずにはいられなかった。

 何も言わず黙り込んでいる僕を見て不思議に思ったのか、彼女は僕の顔の前に手の平を向けて左右に振る。


「おーい?起きてるー?」


 近くで見るとやっぱり可愛いな、爽やかな少女を体現化したような容姿に僕は思わず見とれてしまう。


「・・・起きてるよ」


「ほんとかなー?香山君っていつも眠たそうな顔してるよね。ちゃんと寝ないとダメなんだよ」


「うん・・・」と返し僕は恥ずかしくなって視線を逸らす。


 心臓が急激に高鳴り、体中を巡る血液が熱くなるような感覚を覚えた。

 女子への免疫が皆無の僕にとって、この状況で緊張するなというのはかなり無理のある話だ。


「香山君、ここで何しているの?」


 彼女は質問を続ける。

 何をしているも何も、何もしていないのだから返しようがない。


「何もしていないよ。ただボーとしているだけ。家に帰っても暇だから、時々ここにきて時間を潰しているんだ」


「・・・帰りたくない理由でもあるの?」


「それも特にはないけど、部屋にずっといてもなんだか寂しくて。まだこうして景色を眺めていた方が少しはマシというか」


「そっか。確かに、部屋の中でなにもしないのは寂しいかもね」


「うん」


 そこで一旦会話は終わった。

 沈んでいく夕日を見ながら、互いに言葉を発する事もなく無音の時間がゆっくりと流れる。

 ここで彼女が何も話さなければ、僕達の関係はこの場限りで終わっていたのかもしれない。


「香山君、私ね。家に帰りたくないんだ」

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