第35話

 不思議なものだ。

 あれだけ会いたいと焦がれていたはずなのに、いざ彼女の目の前に立つと何も言えなくなってしまうのだから。

 僕はそっと目を閉じ、次に開いた時と同時に笑みを浮かべる。


「おはよう、よく眠れたかい?」


 何言ってんだよ、と僕は心の中で失笑する。

 夢から覚めてから初めての再会、だからこそ道中に決まったセリフを考えていたのだが、いざ口にしてみると恥ずかしくて仕方がなかった。


 彼女はしばらく呆気に取られていたが、僕の心中を察したのか可笑しそうに笑い始めた。

 大袈裟なくらい大きな声で、身を捩らせ顔をベッドに埋めていた。

 笑いの波が落ち着いてくると肩を震わせながら体を起こす。

 目に溜まった涙を指先で拭き取り微笑んでいた。


「もう、なにそれ。かっこ悪い。それに今お昼前だよ」


 ははっ、と余波にやられたのか口元を手の平で覆う。


「確かに、でも笑いすぎだろ」


 僕は頬をポリポリと掻きながら乾いた笑いを出す。

 感動的な再会を狙ったのだが、思った以上に上手くいかないものだな。

 ひとしきり互いの気持ちが落ち着くと、僕達はまた視線を交わし合う。

 そこにはもう緊張感は混在していなかった。


「ユリナ」


「うん」


「これから、時間あるかな?」


 彼女は目を細めてクスリと笑う。

 その仕草は夢で見た少女と重なり微笑ましかった。


「もちろん!」




 彼女の足はもう動かなかった。

 それは夢の中で病室に訪れた時点で薄々気づいてはいたが、実際に目の当たりにすると悲痛な光景だった。

 ベッドの隣に置かれた車椅子、それが彼女にとって唯一の移動手段だった。


 もう公園でブランコを漕ぐことも、街中のショッピングモールで遊び回ることも、ピアノを弾くことすら一人では困難なものとなっていた。

 彼女にとって外の世界は猛獣だらけのジャングルに身一つで飛び込むようなものだ。

 誰かが傍にいて助けてあげないと、あっという間に遭難してしまう。


 バリアフリーが施されたノンステップバスが停車し、僕は車椅子を押しながら乗り込む。

 車椅子の下部にキャスターがあるから平坦な道の移動はスムーズだったが、勾配があるとかなりの負荷がかかり押し負けそうになる。

 病院側に外出申請みたいな手続きをしなくてはいけなかったのかな?と乗った後になって思う。

 既にバスの扉が閉じられ動き始めたので手遅れだった。


「脱出成功だね」とユリナは悪戯っぽく笑う。

 これは戻ってきた時病院側に絞られるなと僕は苦笑いした。


 バス内は行きと比べて混雑してなかった。

 僕達の他にご年配の方々が数組と同じように車椅子を押す青年がいるだけで、スペースにはかなりの空きがあった。

 バスの振動で車椅子が動かないように、両手でハンドルをしっかりと握る。


「そういえばリョウ君、夢の中で私の日記見た?」


 ユリナがふと思い出したように言う。

 予想外の急な質問に、向けられた視線から思わず逃げてしまう。


「・・・まぁ、見たけど」


「やっぱり!じゃないと元の世界の記憶なんてあの時点で分かるはずないもん」


「ごめん」


「別に謝る必要はないよ。リョウ君に気付いてもらえたらいいなって、色々書いていたから」


 そう言って彼女は恥ずかしそうに俯く。

 プライバシーの侵害を訴えられればぐうの音も出ないが、あの時は必死だったのだから致し方ない。


「もしかして、部屋の本に挟まっていたり、ゴミ箱に捨てられていたノートの切れ端もそういう事だったの?」


「えっ?そっか、部屋まで見られたんだよね。もうリョウ君・・・」


「だからごめんって」と僕は苦笑いする。


「確かにゴミ箱に捨てていたのは、リョウへの手紙を書いていたつもりだった。でもやっぱり出せなくて、捨てちゃったんだ。本に挟まっていたのは、単純に栞の代わりで使っていただけだよ」


 そういうことだったのか。

 彼女は病気の事を隠し通すと決めていたから、手紙を書いても出すことはできない。

 でも、書かずにはいられなかったのだろう。


「でも・・・見つけてくれてありがと」


 彼女は微笑んでいたが、やっぱり恥ずかしそうに見えた。

 二つ目のバス停が過ぎ、彼女は病院が遠くへ離れていく度嬉しそうに肩を震わせていた。


「どこに連れて行ってくれるの?」と彼女は楽しげな様子で聞いてくる。


 特に警戒した様子もなく、澄んだ瞳で見つめられる。


「着いてからのお楽しみだよ」


「なにそれ?もったいぶるなー」


 くすくすと笑い、僕も自然に頬が緩んでしまう。

 彼女の子供っぽい一面を見る度、僕はホッとするような心境になった。

 それからバス停を通り過ぎていく度に乗車人数も増えていき、周りを気にして僕達はあまり言葉を交わすことはできなくなったがチラチラと彼女は僕の方を確認するように見てきた。

 視線が合う度彼女は微笑み、合わせて僕も笑い返していた。


 こうしていると、僕達が別れた日のことが嘘のように思えた。

 数十分後、バスは停車する。

 僕は車椅子を押しキャスターを転がし始めた。


「ねぇ、リョウ。ここって・・・」

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