第6章 君が待っている

第34話



 天井の黄ばんだクロス、数秒おきにチカチカと点いたり消えたりを繰り返すシーリングライト。

 吸い殻が山の様に積もった灰皿からは鼻を刺すような激臭が漂い、ローテーブルの上には中身のない缶ビールが規則正しく並べられ、その他の置き場を失った缶たちは床一面に散らばり倒れていた。

 

 見覚えがある、本当の自分の部屋に帰ってきたのだ。

 清掃して見違えるような変化を遂げた自室を見てきたから、尚更ここは醜い場所の様に思えた。

 息をした死体が住むには不自由のない環境だったが、夢から覚めた今の心境にこの部屋の空気感はそぐわなかった。

 

 立ち上がり、洗面所へ向かう。

 照明を点けて鏡を見ると、二十二歳の僕が映る。

 目にかかるほどの前髪、かさかさに乾燥した肌、生気を抜かれたような風貌。

 未来の僕が言ったように、昔の僕は可愛かったんだなとひしひしと感じる。まるで別人だ。

 

 以前の僕ならこんなひどい有様になった僕と再会しても彼女は喜ばないと思い、何も行動を移さず引き続き殻に籠っていただろう。

 でも今は、立ち止まっていられなかった。

 一刻も早く彼女の元に行かなくてはという使命感の方が気持ちを強く突き動かした。

 

 こうしている間にもタイムリミットは差し迫っている、時間は一秒たりとも待ってくれない。

 僕は簡単な身支度と最低限の荷物をポケットに詰め、部屋から飛び出した。




 外に出れば、当たり前のことだがそこには人がいた。

 バスに同乗したサラリーマンや子連れの主婦、学校帰りの学生達。

 それぞれの人生が干渉することなくそこにあり、自分の存在が薄く感じてしまうほど多くの人間が密集していた。

 

 僕は吊革を握りバスの振動に体制を崩さないようじっと耐えていた。

 窓を覗けば歩道を行き交う人々が映り、僕は目の行き場に困ってしまう。

 夢から覚めて、僕の心は希望を得て見違えるほど明るいものになったと思う。

 

 しかし根強く残った人間嫌いが易々となかったことになるわけではない。

 今後の人生で関わることのない人達を視界に入れなくてはいけない、その一面を目の当たりにしなくてはならないという状況にどうしても適応できそうになかった。

 引きこもり生活の弊害は短いスパンでも浸食が早く深い。

 克服するにはまだ相応の時間が必要になるだろう。

 バスが停車し、僕はそこで人の流れに押されながら外に出る。

 

 見上げるといつか見た景色と同じ、真っ白で無機質な建物が高くそびえ立っていた。

 アプローチタイルを早足で歩き、すれ違う人達に目もくれず自動ドアからロビーに入る。

 電球色のダウンライトが照らす空間は落ち着いた雰囲気を演出しようとしていたが、忙しなく行き交う人混みによってそれらは台無しになっていた。

 受付窓口までまっすぐに歩き、面会希望の旨を伝え簡単な手続きを済ませるとあっさりと通してくれた。

 

 上階へ向かうボタンを押し、数秒待つとエレベーターはすぐに降りてくる。

 三階の三〇一号室、場所ははっきりと覚えている。

 扉が開くとリノリウムの床が広がる廊下に出て、早足で部屋の前まで向かう。

 

 袖壁にかかったプレートには木村ユリナと記載されていた。

 彼女はまだここにいる、それを確認して僕はホッとする。

 よかった、夢の時と変わっていない。

 引戸をノックしてみようと手を伸ばすも、そこで動きが硬直してしまう。

 

 あと数メートルというところまで来て、緊張がピークに達し体が思うように反応してくれなくなった。

 息を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。大丈夫、きっと彼女はこの先で僕を待ってくれている。

 意を決し戸を優しい力で三回ノックする。それから少し待つが、返事は帰って来なかった。

 

 戸を数センチ開き、僕は顔を中に覗かせる。

 窓に掛けられたレースから白い光が漏れ、リノリウムの床に反射し光の筋が作られているのが見えた。

 ベッドは袖壁に隠れ確認することができなかった。


「・・・入るよ?」


 部屋に入り、ベッドに向かい歩き出す。

 意識してゆっくりと移動しているつもりはなかったが、目の前の景色がスローモーションのように映った。

 ベッドの端が見え、段々と視界が開けてくる。

 心臓が高鳴り、息が詰まってしまいそうな感覚を覚える。


 そして僕は、彼女の姿を捉える。

 彼女は目を見開き、口を小さく開けたままこちらを見ていた。

 互いに視線を交わしているはずなのに、言葉を発することなく呆然としていた。


 夢から覚めた時点で、僕は彼女に関する記憶をすべて取り戻していた。

 彼女との出会い、たどたどしくも互いを信じ歩んできた日々、唐突に彼女から別れを告げられた日、幸せと苦しさが入り混じったような思い出が僕の心の中に確かにあった。

 そして今目の前にいる彼女は、僕の愛した木村ユリナそのものだった。

 長く伸ばされたサラサラな黒髪、ぱっちりとした大きな瞳、薄ピンク色の小ぶりな唇。

 元々幼い顔立ちで、夢の中で見た少女の面影がしっかりと残っていた。

 彼女の瞳が小さく揺れる、僕の言葉を待っているように見えた。


「ユリナ・・・」

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