第33話


 夜風に当たりたいと思い、ベランダに出ようと掃き出し窓に手を掛けると、ガラスの隅にシールが貼られていることに気付く。

 いつかのゲームセンターで撮ったプリクラの写真だった。

 僕とユリナの頭には英国紳士の被りそうなハット、胸には蝶ネクタイ、手には黒いステッキが落書きで書かれており、当時の楽しい情景が蘇ってくるようだった。

 美化効果によってユリナは大人っぽい女の子に変貌していたが、僕の場合中途半端な女装をした不思議な少年になっていた。

 

 彼女に振り回されながらもあれはあれで楽しかったなと、思わず笑みがこぼれる。

 窓を開きサンダルをつっかけて外に出て、手摺に頬杖を突き夜空に広がる星空を眺める。

 本来ならここで煙草とお酒が欲しい所だが、最後の日にユリナを怒らせるような真似はしたくなかった。

 

 それにもう、やめるべきなんだろうな。

 これ以上自暴自棄に溺れ寿命を縮める行為を繰り返すべきではない。

 現状から逃げず、前をしっかりと向いて、大切な人を二度と見失わないように。

 彼女が僕と再会してがっかりさせないように、真面目に生きていこう。

 

 丸い月が空に浮かび、小さな光が輝く無数の点が空を覆っていた。

 心地いい風が肌を撫でる、どこからか運んでくる空気の匂いが気持ちを妙に落ち着かせる。

 このまま目を閉じて、開けた瞬間世界が切り替わってしまうのではないか思うほど、今夜の風は前兆を漂わせていた。

 

 これほど神秘的で哀愁がある夜はこれから先訪れることはないだろう。

 いや、もう一度僕がここに来るとするなら、その度にこの寂しい夜を何度も繰り返すことになるのかもしれない。

 元の世界のユリナと、夢の中にいるユリナ。

 二人で一つの存在が、まるで別々の人物のように思えた。


「なにしてるの?」


 後ろから聞こえた声に消えそうになった意識が呼び起こされる。

 振り向くとユリナが不安気にこちらを見つめていた。


「夜風に当たりたくて。涼しいよ」


 そう言うと彼女はサンダルを履き僕の隣にくる。

 同じように手摺に手を置いて空を仰いだ。


「ほんとだ、涼しい」


「だろ?」


 彼女の方を見るも、視線は違う場所に向けられたまま僕の方を見てくれなかった。

 僕達は無言のまま暗闇に放たれる星々を眺める。

 元の世界にいた時も、こうしてベランダに立ってお酒を飲みながら煙草を吸い、空をよく仰いでいた。


 あの時は満点の星を見ても特に感想を抱く事は無かった。

 自分はここまで落ちぶれているのに、変わらずそこで輝く星空を見て自身の醜さを再認識するくらいだっただろう。

 でも今は、純粋に綺麗だと思うことができた。

 誰かと見る景色は二人の心情を映し出し寄り添ってくれるようで、だからこそ今広がる星空は、僕の目に寂し気にも映ってしまった。


 どれくらい沈黙を守っていただろう。

 彼女に名前を呼ばれるまで、僕の意識は空に奪われたままだった。


「リョウ君が好き」


 意識が一瞬で引き戻される。

 その言葉の意味を理解するまで、相当の時間を有した。

 揺れる前髪、澄んだ瞳、結ばれた唇。

 彼女から与えられる情報の全てが、僕の心の奥に浸透していく感触があった。

 それは温かくて、優しくて、柔らかく包まれていくようだった。


「僕も、好きだよ」


 そう伝えると、彼女はクスリと笑う。

 出会った時から好きだった彼女の笑顔、最後に見ることができてよかった。

 永遠に続くと錯覚した夜にも、必ず終わりは来る。

 それは夢が覚めるのと似ていて、同じ場所に留まることはできないのだ。


 僕達は同じベッドに入り、互いの思いを寄せ合うように抱きしめ合う。

 そこに不純な思いは混在しない、ただ愛しさ故に生まれた行動だった。

 溶けてしまいそうな温もりを彼女は僕に送り続け、啜り泣くような声が胸元から聞こえてくる。

 僕は彼女の髪に顔を埋め、目を閉じる。


「おやすみ」


 回された手が強く引き寄せられる。

 世界から離れつつある、真っ暗闇な空間の中で彼女の声が聞こえる。


「おやすみなさい」


 掠れながらも明るい口調で返す彼女。

 感じていた彼女の体温が、徐々に薄くなっていく。


「また、いつか」


 ここで僕は意識を失う。

 世界と世界を移動する空白の時間。そこに僕の自我は存在しない。

 何かを叫びたがっているのに、それが何なのかも分からなければ口を開くことすらままならない。

 無重力の空間を抵抗の余地なく流されていき、これから向かう世界の感覚が少しずつ覚醒していく。


 僕の見た不思議な夢旅は、こうして終わりを告げた。

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