第32話


 震えた声を聞いて、僕は体の内に衝撃を感じる。

 何と返せばいいのだろう、きっと僕はいなくなる。

 もうこの世界で彼女の傍にはいられない。僕が隣に居るべき彼女は、別の世界にいるのだから。


 懇願するように彼女は唇を噛み、涙が一滴頬を伝った。

 ここで現実を伝えてしまえば間違いなく彼女を悲しませる、いや、きっと壊れてしまう。

 また一滴、一滴と涙がぽろぽろと零れていく。

 心中で激しく葛藤し、僕は覚悟を決める。仕方がない事なんだ・・・。


「・・・僕は、君の傍にはいられない。だからもう、お別れなんだ」


 視線を逸らさず、真っ直ぐに見て伝える。

 彼女の目からはダムに亀裂がはいったように次々と透明な涙が落ちていった。

 力の籠っていない手の平で僕の手を握り、ほのかな温もりは彼女の気持ちが流れ込んでくるようだった。

 どこにもいかないで・・・と。


「・・・いやだよ」


 掠れた声、鼻を啜る音、耐える様に結ばれた唇。

 彼女の一つ一つの動作が、僕の胸を強く締め付けてくる。

 傷つけたくない、でも真実から逃げたくない。

 このまま僕が彼女に何も告げず、忽然と姿を消してしまえば彼女はどう思うだろう?

 きっと見つかるはずのない僕の事を探し回って、体力を消耗しきると地面に倒れ泣き出してしまうだろう。

 自分を責め、僕を恨み、捨てられてしまったのだと思い脱力してしまう。

 そうなると、永遠に自分自身と周囲の世界を憎み続ける人生に陥ってしまう。


 それは元の世界で落ちぶれてしまった僕と同じ、抜け殻の様な人間になってしまうかもしれない。

 幸せを思ってつく嘘が本当に幸せに導いてくれるのか、隔たりが生まれようとも真実を告げることが正しいのか。

 自分の経験上、後者を選ばざるを得なかった。

 項垂れた彼女の頭を撫でながら、悲しみに塗れた部屋の沈黙を破るように声を掛ける。


「僕だって、本当は嫌だよ。ずっと君の傍に居たい。このまま一生、元の世界に帰らずこの世界で二人生きていくことはこの上ない幸せなんだと思う」


 彼女は肩を震わせながら俯き、聞いてくれているのかも分からなかった。


「でも、ダメなんだ。元の世界で、僕の事をただ一人で待ってくれている人がいる。これ以上待たせるわけにはいかないんだ。ここで会いに行かなかったら、僕は一生後悔してしまうことになる」


「・・・だから、もう会えなくなるの?リョウ君は私といられなくなって後悔しないの?」


 撫でる手を止め、彼女の後頭部に手の平を回す。

 そっと抱き寄せ、僕の胸に彼女の顔が埋もれた。


「その時はもちろん後悔すると思う。でもねユリナ、これが永遠の別れになるわけじゃない。必ず僕はまたここに戻ってきて、君の元へ帰ってくるよ。次がいつになるのか、どれくらいいられるのかは分からないけど、約束する」


 彼女は僕の背中に両手を回し、涙を拭うように僕の胸元でゴソゴソと頭を捩っていた。


「そんなことができるの?リョウ君は、この世界を自由に行ったり来たりできるの?」


 顔を上げ、吐息がかかるほど近い位置で彼女は言う。

 その問いかけに対する答えに、迷うことはなかった。


「ここは、元の世界の僕達が見ている夢の中なんだ。僕達は同じ夢を見て、夢の中で出会った。互いの会いたいという思いが通じ合えば、いつだって僕達はまた会うことができる。だからほんの少しの間だけ、お別れするだけだよ。またすぐに会えるから」


 僕はこの世界で、十年後の自分と会うことができたのだ。

 彼は言った。「案外、夢っていうのは時間の概念がないのかもしれないね。そこに行きたいと願えば、願いの強さだけその世界に導いてくれる。そんな気がするよ」

 要は気持ちの問題で僕達はこの世界で再会できる。

 また彼にも会うことができるのかもしれない。その時には、いい報告ができたらいいな。

 彼女は小指を突き出して手を僕の方へ掲げる。


「じゃあ、約束。またすぐに会いに来てね。私、いつでもここで待っているから」


「・・・うん。約束だ」


 彼女の小さな指に僕の指を絡め、ぎゅっと強く結ばれた。

 固く引き寄せられるような契りが交わされ、きっとまた会えると直感的に感じた。

 互いが満足し指が解かれると、彼女は屈託のない笑みを浮かべた。

 再び僕に抱き着き、可笑しそうに笑いだす。


「そういえば、元の世界で待っている人って誰なの?もしかして・・・リョウ君の恋人?」


 彼女の問いかけに、僕はクスリと笑う。


「すぐに分かるさ」

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