第37話
そう言った彼女の言葉は呟くように小さく、教室で聞く抑揚のある声は失われていた。
思わず僕は彼女の方を見ると、彼女は変わらず大きな窓の先にある景色に目を向けていた。
「・・・何かあったの?」
「うん・・・つい一週間前の話なんだけどね。お父さんが、帰って来なくなったんだ。前から遅い時間に帰ってきて、私と顔を合わせることもなかったんだけど、遂に帰って来なくなっちゃった」
「それは、つまり」
「浮気してるんだよ。お父さん」
流れるように言われた言葉に僕は唖然とする。
この頃の僕は浮気なんてメリットのない行為を本当にする人がいるなんて信じられなかったから、最初は何かの冗談かと思った。
でも彼女の怒りと悲しみが入り混じったような表情を見て、とても嘘をついているようには思えなかった。
僕の知らない大人の世界は、欲望に塗れたどうしようもなく愚かなものなのかもしれない。
「そんな帰らないお父さんの為に、お母さんは毎晩ご飯を作って、ギリギリまで自分はお風呂にも入らずダイニングのテーブルに座って帰りを待ち続けている。
心配になって声を掛けても、お母さんはただ笑っていつかきっと帰ってくるからって平気そうに私に言うんだ。
でも私は、机に突っ伏したまま声を押し殺して泣いているお母さんの姿をたまたま見てしまった時があって、それからお母さんの姿を見る度胸が苦しくなった。
きっともうお父さんは帰って来ない、いい関係に戻れる見込みはないことに本当は気づいているはずなのに、騙すように信じ込んで今も待ち続けている」
彼女は僕の方へゆっくりと顔を向ける。
目には今にも零れ落ちそうな涙が溜まり、スカートの裾を両手で握り締めていた。
「どうしてお父さんは、こんなに酷いことをするのかな?私達、何か悪い事でもしたのかな?私、もうどうすればいいか分かんないよ・・・」
そう言って僕を見つめる彼女に対して、僕は何と言葉を返していいか分からなかった。
そうなんだと言えば突き放すような意味合いになりかねないし、分かるよと軽はずみな同調をすれば怒りを煽るかもしれないし、僕から言う励ましの言葉は中身を伴わない。
目の前で今にも泣きそうな少女に対して、抱える悲しみを少しでも拭ってあげられる最適な言葉なんて、どれだけ考えても出てきそうになかった。
彼女はクスリと笑って、再び窓の先を見る。
「ごめんね。私、何言ってるんだろう。今の全部忘れて・・・」
「悪くないよ」
畳もうとした彼女の言葉を遮るように僕は言う。
窓から差し込む夕日の光が、太陽が沈んでいくにつれて強くなっているような気がした。
「・・・え?」
「浮気をした奴が一番悪いに決まってる。周囲の人間や環境のせいにして罪から逃げようとすることは、加害者側の勝手な言い分だ」
彼女は僕の言葉に何も言わない。ただ黙ったまま僕を見て、続きを待っていた。
「だから、君と君のお母さんは何も悪くない。浮気をしたそいつが身勝手なだけだよ」
言い切って僕は彼女の方をちらりとみる。
彼女は僕を見つめたまま、頬に涙が一滴伝っていた。
その様子を見て内心慌てる。まずい、踏み込み過ぎたか?
無遠慮に彼女を傷つけるような事を言ってしまったのかもしれない。
言葉というのは難しい。伝える側が発する意味とは裏腹に、受け止める側は自分の心境から近い意味合いから解釈しようとしてしまう。
今僕が言った彼女を肯定するかのような言葉は、彼女のプライベートで都合の悪い部分を踏み荒らすような行為だったのかもしれない。
彼女は袖で流れた涙と目元を拭い、笑い声を漏らす。
「そう言ってもらえると嬉しいな」
目を細めて小さく笑い、綺麗な横髪を耳の上に掛ける。
「この話は、誰にも相談できなくて、一人で抱え込むことしかできなかったから。
だって、もし友達に相談することができてその時私の心が軽くなっても、その後みんな私を腫物に触るみたいになってよそよそしい関係になるかもしれないでしょ?
だから、別に変な意味じゃないんだけど。今日話せた相手が香山君でよかった」
変な意味じゃないと彼女は言ったけれど、つまり僕がこの話を聞いた後に色眼鏡で見られても構わない相手だったのだと間接的に言われたような気がした。
しかし彼女の笑顔は先程よりも明らかに晴れやかになっていたから、嬉しいようで傷つくような、複雑な心境だった。
「香山君の声、初めて聞いた気がする。予想以上に低くてビックリしたけど、聞いていて気持ちが和むような優しい声。香山君の傍に居ると、なんだか落ち着くな」
うっとりとした様子で言う彼女に、僕は緊張感を覚える。
傍に居る、その一言を聞いただけで心の中が騒ぎ心臓が高鳴った。
そんな僕の心境を見透かしたように、彼女は上目遣いに言う。
「ねぇ、香山君?またこうやって二人で話せないかな?もっと香山君の事、知りたいから」
「・・・い、いいよ。もちろん」
そう言い返すのがやっとだった。きっと今僕の顔は真っ赤に染まっているに違いない。
夕日が照らしてくれて助かった、うぶな男子はこういう展開にめっぽう弱い。
「今日は夕日が綺麗だね」
屈託のない笑いを浮かべながら言う彼女。
その姿が今まで見てきたどんな物よりも綺麗に映って、僕は目に焼き付ける様に彼女を見ていた。
結局そのすぐ後に彼女の両親は離婚し、彼女は母親と二人で暮らし続けていた。
僕達は放課後になれば毎日の様にここに来て、夕日が照らし出す街の情景を眺めながら話し込んだ。
彼女に思いを伝えたのもこの場所だった、ちなみにファーストキスも。
僕が思いを振り絞って「木村さんの事が好きです」とストレートに告白すると、彼女は「ありがとう。ずっと待ってたんだよ」と涙目で笑いながら言い、つかさず僕に詰め寄って優しくキスをした。
その時の喜びようといったら今でも忘れられない。
人生の中でも数少ない、大切な願いが叶った瞬間でもあったから。
恋が成就した日を境に僕達は互いの名前で呼び合うようになった。
くすぐったくて気持ちの芯からじんわりと熱くなるような彼女との日々。
そんな毎日が一生続いていくんだって、あの時は疑いようもなく信じていた。
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