第30話


 アパートに着いた時にはもう辺りは真っ暗だった。

 街灯の光をあてに帰路を歩き、四戸一のアパートは僕の部屋だけ光が漏れていた。


「ただいま」と言いながら玄関ドアを開くと「遅い!」とまず罵声が飛んできた。

 玄関先でユリナが仁王立ちで塞がり、僕を責める様に見ていた。

 頬を膨らませ、鼻の穴を大きく膨らませていた。

 分かりやすい、想像通りの展開だった。


「もう真っ暗だよ!やっぱりリョウ君は不良さんだね!」


「ま、まあ落ち着けって。紹介したい人がいるんだ」


 両手で彼女を制しながら後ろにいる人物にアイコンタクトを取る。

 そんな僕達を見て彼は苦笑いしながらこちらへ近づいてくる。

 ドア枠からチラッと顔を覗かせるとユリナの口が小さく開かれる。

 えっ誰?と言わんばかりの表情だ。


「この人は、僕の父さん。さっきたまたま会って、話が盛り上がって遅くなっちゃったんだ。ほら、ここって僕達以外の人っていなかっただろ?だからビックリしちゃって」


 そう紹介すると彼は会釈をして小さく微笑みを浮かべる。


「こんばんは。突然ごめんね。リョウが迷惑かけてるね」


 彼女はさらに驚いているようだった。

 僕達しかいないと思っていた世界で他の人がいて、さらに僕の父と名乗る人物がいきなりやってきたのだ。

 さすがの彼女も言葉を失ったのだろう。

 未来の僕は自分の父親だという設定を、帰路で口裏を合わせておいたのだ。

 恐らく違和感はないだろう。

 彼が三十二歳で十歳くらいの子供がいるなら二十一、二の時期に子供を作ったということになるが、元の世界の僕を思うと正直想像できない状況だ。


「お、お父さん!?嘘!?」


 彼女は大袈裟に狼狽し、両手で髪を整える動作をしていた。

 まるで親に秘密にしていた同棲がばれてしまったような気まずい心境になってしまう。


「・・・初めまして。木村ユリナです」


 両手を後ろに組んでもじもじしながら彼女は言う。

 そんな彼女を見て彼は可笑しそうに笑う。

 嬉しそうで悲しそうな、懐かしさを含んだような笑い方だった。


「初めまして。ユリナちゃん、可愛い名前だね」


「あ、ありがとうございます」


 彼は目を細めて彼女を見つめる。彼にとっては約十年ぶりの再会になるのだ。きっと複雑な心境に違いない。

 彼は片手を彼女に向けて差し出し、握手を求める格好を取った。

 彼女はその手の平を見て、一瞬迷ったように僕の方を向く。

 僕が笑いかけると、彼女はフレアスカートに右手を擦りつけ汗を拭き取る動作をする。


 恐る恐る手を伸ばし、彼の手をキュッと握った。

 彼は満足したように首を何度も縦に振ると、「ありがとう」と言って笑った。

 それを合図に自然と繋がれた手は離れる。


「リョウは、一見不愛想で素直じゃないけど、いつだって君の事を大切に思い続けている。君は一人じゃない。どうかそれを、忘れないでほしい」


 彼らの視線が空中で交差する。

 きっと彼女は、その言葉の意味を後から知ることになるだろう。

 どうか覚えていてほしかった、間に合わなかった未来の僕を、届かなかった君への思いを。


「それじゃ、二人共。お幸せにな」


 彼は僕達に背を向け、再び歩き出そうとしていた。

 その時彼女は裸足のまま土間に飛び出し声を上げた。


「あ、あの!よかったら、中に入っていきませんか?夕飯作ったから、一緒に。散らかった部屋ですけど」


「いや、それ君が言うの」


「あっ!また君って!子ども扱いした!」


「今のは・・・ごめん」


「むむ、リョウ君・・・!」


 僕達がまた言い争っていると、彼の笑い声が後ろから聞こえた。

 振り向くと、彼は腹を抱えながら笑い姿勢を前のめりにしていた。

 目からは涙が一滴、二滴と零れ頬を伝っていた。

 それが笑いから生まれたものなのか、別の意味を含んだ涙なのか、分からなかった。


「せっかくだけど、大丈夫だよ。ありがとう」


 そう言って彼は僕に視線を移し、数秒間互いに黙り視線を交わした。


「・・・頼んだぞ」


 掠れた声で呟くように言い、彼は今度こそ歩き出した。

 暗闇の中に姿が隠れ、どこにいるのかもう分からなくなった。

 もう彼と会うことはない、出会うとすれば十年後に僕自身が彼の年齢に追いついた時身を持って再会できるだろう。


「お父さん、なんで泣いてたのかな?」


 横にいる彼女の言葉に、やっぱり泣いていたのだと気付く。

 どうしようもない方向に進もうとしていた僕の人生を、彼は後悔の念を晴らすために会いに来てくれた。


<君が何をするべきなのか。今の君なら、もう分かるだろう?〉

 

 彼の言葉が蘇る。

 感謝してもしきれない、胸の奥から温かいものが込み上げてくる。

 彼の人生を、後悔を、僕に託してくれた思いを、絶対無駄にはしない。


「・・・ありがとう」


 僕は彼の消えていった暗闇に向かって、そう呟いた。

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