第26話
〈六月八日 晴 この部屋に入って二か月位経つかな?毎日退屈で、テレビを見ても本を読んでも、あらゆる媒体は私の心を満たしてくれない。
だからって何もしなかったら頭がボーとしておかしくなりそうになる。
だから頭の体操の一環で日記をつけることにした。
味気がないくらい簡単に書くし、今の病院生活を書き留めておきたい事なんて正直一つもないけど、なにもしないよりはマシだと思ったから。
でも今日はもう眠たいから、明日から真面目に書いていくね〉
日記はそんな始まり方だった。
マイペースで彼女らしい文章は日記を通して彼女が直接語り掛けてくるようだった。
それから九日、十日と短くも日記は毎日更新されていた。
〈今日はお母さんと一緒に叔父さんも来てくれた!叔父さん、なんだか会う度にお腹が大きくなってるね!
昼ドラを見ている最中に看護師さんが入って来て気まずい空気になった。違うんだよ!別にそういうのに興味があるわけじゃないからね!
梅雨明けが発表されたよ!いーなー。私も外に出たいー。海水浴とかキャンプとか花火大会とか、好きな人と行きたいよー〉
好きな人、というのはやっぱり僕の事だろうか?
僕の名前がどこかで出てくるのかなと思ったりはしたが、いざ好きという文字を見ると心臓が跳ねてしまう。
彼女の日記は長い時で五行に渡り綴られていたが、極端に短いときは暇だった、寝てた、とただの一言日記になっている時もあった。
気分次第な性格は少女のユリナとそっくりだ。
二か月ほどは毎日書かれていたが、急に更新は途絶え次に書かれたのは三か月後の事だった。
〈十一月十四日 曇 もう日記をつけるのはやめるつもりだったけど、戻ってきちゃった。でももう毎日書くのは疲れるしいいや。
これからは特別嬉しいときか、凹んだときか、どうしても書き留めておきたいことがあれば書くことにするね。正直もう、疲れちゃったんだ〉
やっぱり飽きたか、と読み通りの展開に笑みがこぼれそうになったが、最後の一言を見て自体は僕が思うよりも深刻なのだと感じた。
それからページを捲る度、彼女の悲痛な叫びが幾度となく綴られていた。
日付と天気が書かれる事は無く、ただ同じ様な言葉が繰り返し使用され書き殴るように書かれていた。
死にたい、楽にして、苦しい、死にたい。
これ以外にもう、思う事は無いのだろう。
彼女の心はこの時点でとっくに病気によって壊されていた。
今までページの線に沿って書かれていた文字は既に線上に乗っておらず、落書きされたノートの様に、彼女の字とは思えない筆圧の濃い字でページ一面が埋め尽くされていた。
そのページを眺めていると、彼女の抱いていた苦しみが流れ込んでくるようで胸が締め付けられるような感覚があった。
僕が知らない間に、彼女の心がここまで荒れていたなんて知らなかった。
たぶん彼女はこんな状態でも、他の誰かと会うときは愛想笑いを浮かべて自分は大丈夫だと相手を安心させるような言葉を言っていたのだろう。
でも実際は違う。彼女は誰にも相談できず、自分一人で抱え込み、一人この部屋で泣きながら苦しんでいたのだ。
捌け口は一冊のノートに当たるように文字を書くしかなく、それ以外に本心をぶつける手段はなかった。
僕が彼女の傍にいてあげたら、何かが変わっていただろうか?
彼女は僕に縋ってくれただろうか、それとも僕を心配させたくなくて強がりながら笑みを浮かべていたのだろうか。
自分が情けなくなる。
彼女の恋人で近くにいたのなら、なぜ異変に気付いてあげられなかったのだろう。
彼女はきっと心の中では、気づいてほしいと思っていたはずなのに。
ページを捲ると破れた痕があった。
恐らく彼女の部屋で見つけたページの一部がここにあったのだろう。
手紙の差出人がこのノートからそのページを破り、本棚に仕込んでいたのだと推測する。
次のページからは何も書かれていない。
ここで日記は終わってしまったのだろうか。
指先で弾くようにペラペラと捲っていき、最後のページで止める。
そこには彼女の、このノートで最後の言葉があった。
〈最後にあなたに会いたいけど、もうそれは叶わない。あなたを一方的に振ったあの日から、私はもう二度と会わないと決めたから。
きっとあなたは私を憎んでいる。もう私に会いたいなんて思わないでしょう。あなたに違う誰かと幸せになって欲しいと思い決心したことだけど、正直後悔してる。
一番私が幸せにしてほしかったはずなのに、あなたの隣に居続けたいと世界一思っていたのは私だったのに。
もう一度あなたに会いたい、抱きしめてもらいたい、この足が動くなら、今すぐ走り出してあなたの元へ駆けていきたい。
でももうそれは叶わないことだから。諦めて死んでいくのを待つしかないんだ。
この世界に神様がいるのなら、最後に一つ、私の願いを聞いてもらえませんか?
病気を治してほしいとか、幸せだったあの時に時間を戻してほしいなんて無理なことはいいません。
夢の中でもいい。永遠に目覚めることなく死んでいっても構わない。
最後に彼と、会わせてください〉
「その日記を読んでるってことは、もう彼女の正体には気づいているのかな」
急に低い声が聞こえ、僕は肩をビクつかせる。
自分とユリナではない声を、この世界で初めて聞いたからだ。
声のした方向を見ると、ほっそりとした男性が壁に持たれてこちらを見ていた。
紺のジーンズに半袖の白シャツ、硬そうな髪は横分けにされセールスマンのようだった。
年齢は三十代前半ぐらいだろうか、若干疲れが滲みでているような表情や落ち着いた雰囲気からそれくらいだろうと予想した。
問題は彼の声が、顔の作りが、僕と酷似していることだった。
「近くで見るとやっぱりかわいいな。俺って子供の頃はかわいかったなって、我ながら思ってたんだ」
男は低い声で空気をよく振動させた。
聞けば聞くほど間違いない、これは僕の声だと確信した。
小学生の姿の今だとまだ高い声のままだが、中学生の変声期を気に僕の声質は急激に低くなっていった。
僕は目の前にいるもう一人の自分を真っ直ぐに見据える。
「あなたは、僕なんですか?」
似た目と言い言動と言い、それ以外考えられない。
男は僕の質問には答えず、視線を逸らしてほくそ笑む。
「場所を変えよう。ついて来て」
そう言って部屋の引き戸を開け出て行った。
状況が飲み込めないまま病室に取り残され、僕は早足で彼の背中を追いかけて行った。
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