第13話
机に突っ伏したまま彼女は答える。
どれだけ勢いよく一気食いしたのか知らないが、頭を抱えてしんどそうだ。
「ほら、僕達は今こうして遊んでるけど、お互いの事はまだ全然知らないだろ?元の世界での記憶を共有できれば、自己紹介みたいになるかなって」
変な意味だと捉えられないよう朗らかに言うよう努める。
「話したくないなら別にいいんだけど」とも付け加えた。
おしゃべりな彼女が自分から話そうとしない辺り、あえて自分の過去を隠している可能性があるからだ。
彼女は身を起こし、寝起きの様に冴えない表情でこちらを見る。
「記憶も何も・・・ほとんど覚えてないんだもん。何話したらいいかわかんないよ」
頭を掻きながら空を仰ぎ、彼女は思い出すように努めているように見えた。
「私にはお母さんがいて・・・お父さんと兄弟はいなかったと思う。学校には通っていて、でも勉強が嫌いだったからほんとは行きたくなかった。あと、ピアノが弾けたかな」
「ピアノ?」
「うん。勉強が苦手って言ったけど、音楽だけは得意だったんだよ?その中でもピアノは、小さい頃からやっていたから」
「へぇー・・・すごいね」
意外だと思った。
彼女の様に活発な子は大抵体育が得意だと一番に言ってきそうなものだが。
「意外だと思ったでしょ?」
悪戯っぽく彼女は笑いかけてくる。
思わずうなずきそうになった首を咄嗟の所で止める。無理もないだろう。
今までの彼女を見た後に、ピアノの椅子にじっと座り鍵盤を指先で優雅に弾いていく姿を想像できるものか。
レッスン中終始うずうずしてじっとしていられず、最終的に脱走する姿の方が性に合っているように思える。
彼女は「そろそろ行こっか」と椅子から立ち上がり、空になったカップにスプーンを入れる。
同じタイミングで僕のカップも空になっていた。
もっと聞いてみたいことは山々だったが、またいつかの機会に聞いてみよう。
この調子だと、またいつでも会えるだろう。
目線を下から前方に戻すと、すでに彼女は姿を消していて店内を映すガラスの先に彼女はいた。
追いかける様に歩き出し、僕も店内に戻った。
ドアの側に設置されたダストボックスにアイスのゴミを捨て、周囲を見渡すと彼女はエスカレーターの袖壁に掛けられた案内板をじっと見つめていた。
小さく口をパクパク動かし、次に行きたい店が見つかったのかもしれない。
僕が近づいてくるのに気付くと、彼女は「こっちこっち!」とエスカレーター身を乗り出した。
手すりを両手で持ってぶら下がり、数秒すると二の腕がプルプル震え始めステップに足を下ろしていた。
エスカレーターを降り、彼女は両手を後ろで組んだままフロアを歩き進めていく。一定の間隔を開けながら、彼女の背中を追っていく。
気づけば僕達のいた新館から旧館へ通じる連絡通路を歩いていた。
ガラスに映る人通りのない大通りと利用されていないビル街は人類の残した残骸のようで寂し気に映った。
旧館エリアは新館と変わらず小綺麗にされていたが、所々黒ずんだ蛍光灯や昔ながらの老店舗が目立ち時代の差を感じた。
再びエスカレーターに乗って三階ほど下り、しばらくフロアを歩き進めていくと彼女は立ち止まった。
目の前にあるのは楽器店で、壁に掛けられたエレキギターや幅広くスペースを設けられたドラムセットなどが置かれていた。
木目調のクッションフロアが奥まで敷かれており、電球色のダウンライトがクラシックな雰囲気を演出していた。
「リョウ君に一つ嘘ついたかもしれないね」
下に俯いたままこちらに振り向き、寂し気な口調で彼女は言う。
「私、ここに来たことがあると思う。それがいつの事なのか、はっきりとは分からないけど。この楽器店、なんだか懐かしく感じるんだ」
その記憶も、明瞭なものではなく感覚的なものなのだろう。
嘘をついたかもしれないと曖昧な表現をしたのは、彼女の感じた懐かしさがどこからきているものなのか分かっていないからだ。
彼女の視線の先には電子ピアノがある。
ゆっくりと近づいていき、目の前まで立つと鍵盤の上にそっと指を下した。
試すように色々と音を鳴らしていき、最後にピーンと高い音が静かな店内に響いた。
彼女は僕の方を見て恥ずかしそうにしている。
僕は何も言わず、笑って頷く。
彼女はクスリと笑い、再び鍵盤の方に目線を戻した。
ピアノが弾けると屋上で彼女が言った時、本当に弾けるのか?と疑ったものだが、奏でる前の静寂を支配するような雰囲気がそんな疑問を払拭させた。
やがて指が流れる様に動き始め、どこかで聞いたことがあるクラシックが奏でられていく。
店中に響き渡る音量だったが、今ここにいるのは僕達だけだ。
目を閉じて彼女の作り出す音楽を感じる様に身を委ねた。
真っ暗になった視界には思考の作り出す世界が映し出されていった。
何も考えない無の感情を意識していたのだが、演奏を聴く度何かが引き出されるように見たことのない情景が創造される。
木目のベンチに、僕は誰かと並んで座っている。
オレンジ色の光が視界を包み、その先に何があるのかは全く分からない。
ただ握られた手の温もりだけが、じんわりと深く伝わってくる。
長い黒髪が僕の頬を撫でる、表情までは読み取ることができなかったが、恐らく彼女は笑っているのだろう。
もしかしたら、隣に居る人物は僕の恋人なのだろうか?忘れているだけで、元の世界には思いを寄せる人がいるのかもしれない。
そう思うと、僕の人生にも少しだけ救いの余地があるように思えた。
これは彼女のクラシックが見せた幻想なのか、それとも元の世界の記憶がわずかに蘇ったのか、知る由もない。
ただ、これが現実ならどんなに美しいのだろうと、そう思った。
僕が両目を開けた時演奏は終わっていた。
いつ終わったのか分からないけど、眠りから覚めた時のように視界はぼんやりとして色が褪せて見えた。
「どう、だったかな?」
か細い声が聞こえてそちらを見る。
ユリナが不安気にこちらをチラチラと見ていて、両手は膝の上で握り拳を作っていた。
意識が違う方向に飛んでしまい演奏に注視できなかったが、間違いなく上手かった事だけは分かった。
「とっても。素敵だったよ」
そう伝えると彼女は緊張から解放され安堵したように笑った。
「ありがと」と肩を縮め照れたように言う。
その様子から彼女がピアノと向き合うのは久しぶりの事だったのかもしれないなと思った。
「ユリナのピアノ、もっと聴きたいな?」
僕はアンコールを求めてみる。
「えー!もう十分だよぉ」
「僕はまだ物足りないなー」
「どうしても弾いてほしい?」
「うん、どうしても」
「ほんとにどうしても?」
「ほんとにどうしても」
「全く、仕方がない子だなーリョウ君は」
彼女は再び姿勢を整えて鍵盤の上に指を下ろし、深呼吸した後演奏をまた再開した。
奏でる音色が先程よりも明るいものに変わった気がする。
誰もいないデパートで、僕達だけの音楽が鳴り響く。
時間の流れすら忘れてしまう程ゆったりした二人だけの空間で、彼女は指先を伝って音を生み、僕はその音で作り出される幻想的な世界に再び入り浸っていた。
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