第9話

 アパートの裏に回り、ジーパンの後ろポケットに手を突っ込む。

 そこには唯一手元にある煙草とライターが入っていた。

 公園で彼女に投げ捨てられる前にこっそりと忍ばせていたのだ。

 箱から一本を指先で摘まみ、口に咥えて着火する。

 発生した煙が一斉に灰の中に流れ込んでくる。


 次の瞬間、気管に流動物が詰まったように僕は盛大にむせた。

 ごほ、ごほ!と咳き込みながら絡んだタンを地面に吐き、次第に涙が出てきて頬を伝う。

 頭が重くなり視界がクラクラして安定しない。

 手に持った煙草を放り捨て、地面に腰を着け外壁に寄りかかる。

 苦しい、死にそうだ。

 まるで煙草を初めて吸った人の反応だ。

 昔の姿に戻ったことで体内の器官も同時に若返ったのかもしれない。

 真っ黒な肺から穢れを知らない肺へ、煙草の煙を受け付けないデリケートなものになってしまったようだ。


「くそっ」


 煙草の箱を握り潰し地面に投げつける。

 やれやれ、こんな些細な楽しみも堪能できなくなったのか。

 肺だけ以前の物に取り換えてほしい。

 この調子だと、舌も若返ってお酒の味すら受け付けなくなっているかもしれない。

 世界からほとんどの人間が消えてくれたことまではよかったが、小学生に逆戻りするのは余計なオプションだ。

 一ついいことがあれば二つ悪いことが起きる。

 そうやってどう足掻いても不幸になるよう人生の帳尻を合わされているように思えた。


「・・・彼女は、一体何者なんだ」


 まだ部屋でスヤスヤと眠っているであろう謎の少女について考えてみる。

 今まで接してきた辺り、僕の様に彼女が元々大人だったという線はまずないだろう。

 似た目も中身も典型的なわんぱく小学生だ。

 しかし、彼女の発した一言だけが胸の中に引っかかりを覚えた。

 私に家はない。

 そう言った彼女の表情には悲しみの欠片もなかった。

 そんなものは必要ない、そう言わんばかりの物言いで。

 その時だけ、彼女は小学生らしくなかった。

 他の何もかもは年相応な反応だけに、あの瞬間だけは際立って違和感を覚えた。

 悩みの一つもなさそうなあっけらかんとした子に見えても、抱える闇の一つや二つはあるのかもしれないが。


 結局これは夢なんだろうか?

 しかしそう落とし所をつけようとするには少女の存在が邪魔をしていた。

 人間がほとんど消え失せたのはそういう結末を心のどこかで願っていたから分かる。

 小学生の姿に戻ったのも人生をやり直したいと願ったことがあるかもしれないからまだ分かる。

 記憶が所々混濁しているのも、夢だと思えば説明がつく。


 なら彼女は何だ?

 夢というのは自分の願望や様々な外的要因が無差別に絡んで形成されるものだと僕は思う。

 僕は彼女を知らないし、元の世界で会っていたという記憶の断片すら見当たらない。

 陽気な少女と誰もいない世界で二人遊んで暮らすという、少年時代に満たされなかった欲求を拗らせてできたシチュエーション、と考えるにも自分の思う理想の女の子と比べて彼女は程遠い存在だった。

 僕の好みは黒髪ロングで陰りのあるミステリアスな女性だ。

 僕と同じような痛みを抱える、そんな傷を二人で舐め合うように肩を寄り添って生きていく。

 理想のシチュエーションはむしろそっちの方だ。

 少女の存在は、願望が見せる夢の世界で起こったイレギュラー的なものなのかもしれない。


 煙草で咽た衝動で荒れた呼吸が徐々に落ち着きを取り戻してくる。

 部屋に戻ろうか。

 重い腰をどっこいしょと足の力で持ち上げ、若干残ったヤニの弊害が立ち眩みを助長してくる。

 さて、これからどうしよう。

 取り巻く状況は変わっても外部の世界に変化は見られない。

 夢が覚めるまでいつも通りだらけた生活を続ける他ないか。

 一度捨てた煙草が惜しくなり、箱を拾って近くにあった水道メーターの箱の中に隠す。

 あの子にバレないよう気を付けないとな。




 部屋に戻るとユリナは起床しており、リビングのソファに座って僕の帰りを待っているように見えた。

 僕に気付いたユリナがこちらを見て、ぱぁと笑顔になったと思ったらそれは数秒後熱が冷めたように失われた。


「リョウ君、煙草吸った?」


 その言葉にぎくりとする。

 表情を崩さないようにするので必死だった。

 訝し気にこちらをジト目で見てきて、体の隅々まで舐める様に観察される。

 目視の点検と臭気調査が行われ、彼女の中では僕は煙草を吸ったのではと疑惑がかかっているようだ。

 まさか一瞬で見抜かれるなんて、その嗅覚の鋭さに舌を巻いた。

 夫婦生活を映すドラマで違う女の匂いがすると妻が発言するシーンを幾度となく見かけたが、案外あれは嘘ではないのかもしれない。


「どうなの?」と少女は僕を問い詰めてくる。

 一回吸っただけでもヤニの匂いが少しは付着するだろうが、一瞬で見抜かれる程匂うものなのだろうか?


「吸ってないよ」


「ほんとに?」


「うん」


 怪しいと言い僕の周りをぐるぐると歩き回り、不審な点が無いかを観察してくる。

 自室が取調室に早変わりしてしまった。

 この重苦しい空気を断ち切るのにいい方法はないだろうか?

 部屋を見渡し何か彼女の意識がそっちに持っていけるような糸口を探す。

 その時、和室とリビングを仕切る戸襖の隙間からコンセントの先が目に入った。


 あれは確か、部屋の掃除をしているときにたまたま見つけたゲーム機だ。

 散らかった衣服類の中に埋まっていた、というよりは恐らく僕が適当に放り投げていたのだろう。

 一人暮らしをする時、暇つぶしにでもなればいいと購入したもののあまり手を付けることなく今日まで埃を被っていた。

 ゲームなんて、元々飽き性には向いていない代物だったのだろう。


「なぁ、ユリナ。ゲームやらないか?」


「話を逸らさないで!」


「違うんだ。面白いんだよ。あのレースゲーム」


「何が違うのよ!?さっき約束したばっかりなのに!」


 こうなったら埒が明かない。

 僕の言葉は全て彼女の燃やす怒りの材料になっている。

 僕は彼女の横を足早に通り抜け、戸襖を開ける。

 何もなくなった畳の部屋にポツンとゲーム機は置いてある。

 傍にはプラスチックのケースに入ったゲームディスクもあった。

 それを手に取り、彼女に掲げてみせる。


「ほら、これこれ。レースゲームなんだ。二人でやるときっと楽しいよ」


 彼女は途中まで冷たい目線を僕に送っていたが、次第に驚いた様子で目を見開いていた。


「それ・・・え」


 ポツリと漏れたような声を出し、石化したように固まって動かなくなった。

 彼女の目線は掲げられたゲーム機ではなく僕の足元に落ちているゲームディスクだった。

 大したゲームではない、プレミアがついているわけでもない通常仕様のディスクだ。

 そこら辺にある量産されたファミリーゲームの一つに過ぎない、そんなに驚くほどのものだろうか?

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