(番外編)穏やかな陽射しの中で
「イリス、大丈夫かい?」
具合悪そうにしゃがみ込むイリスの身体を、帰宅してすぐにレノに呼ばれ、急いでレノの部屋を訪れたマーベリックは、慌てて抱き上げた。
「早く、医者に診てもらいに行こう。レノ、馬車を用意するよう、御者に伝えてもらっても?」
「うん、わかった!
ね、兄さん、ティルディナリー先生って知ってる?」
「ああ、高名な回復魔法の使い手だろう。……彼のことを知っているのかい?」
「うん、今日、ちょうど先生の授業があってね。それに、先生はイリスのことも知っているんだって。先生のところにイリスを連れて行くのはどうかな?」
「そうだな。彼に診てもらえるなら、安心だ」
イリスは、マーベリックに抱き上げられた腕の中で、慌てて首を横に振った。
「あの、マーベリック様、レノ様。
私、それほどご心配をしていただくほど、体調が悪いわけではないのです。本当に、ほんの少しだけ、気分が悪かっただけで……」
マーベリックとレノは、イリスの言葉に顔を見合わせた。
「さらに具合が悪くなってからでは、遅いからな。こんな状態のイリスを、黙って見てはいられないよ」
「そうそう。イリスは、すぐに我慢しちゃうから。こんな時くらい、僕たちに甘えて?」
「すみません、ありがとうございます。
……何だか、甘やかしていただき過ぎのような気も致しますが」
御者を呼びに駆けて行ったレノの後ろ姿を見送ってから、イリスは、マーベリックの心配そうに眉を寄せている顔を見上げた。こんな表情ですら、間近で見る彼の顔はどきりとするほどに美しく、イリスの頬は薄らと赤く染まる。
マーベリックは、イリスに優しく微笑んだ。
「イリスを甘やかせる機会なら、いつでも歓迎するよ。レノも言っていたように、我慢する必要はどこにもないのだから、無理はしないで欲しい」
レノの後を追って、イリスを両腕に抱きかかえたまま歩き出したマーベリックに向かって、イリスは恥ずかしそうにこくりと頷くと、マーベリックの逞しい胸にそっと顔を寄せた。
***
ティルディナリーの治癒院にイリスたちを乗せた馬車が着いた時、辺りは落ち始めた夕陽にほんのりと照らされ、赤く染まっていた。
少し落ち着いたので、自分1人で問題なく歩けると主張したイリスを、マーベリックとレノが左右から支えるような格好で治癒院に入った。もうすぐ閉院時間とあってか、患者の数もまばらだった。
3人が順番を待っていると、背後から温かな声が掛けられた。
「おや、お久し振りですね、イリスさん。
レノ君もご一緒ですね。そちらは、マーベリック様でしょうか?」
「ご無沙汰しております、ティルディナリー様」
イリスの記憶にあった、昔会った時の、まだあどけなさも残っていた顔から、随分と成長した様子のティルディナリーの姿に、イリスは感慨深くにこりと笑った。
「先生!イリスのことを、診て欲しいんです。イリスの体調が優れなくって。こんなこと、滅多にないのに……」
「レノ、あまり慌てて先生を困らせないようにな。
ティルディナリー先生、イリスの夫のマーベリックです」
ティルディナリーは、イリスを大切そうに扱う2人の様子を見て、穏やかに口元を綻ばせた。
「もう、間もなく診察室にお呼びできると思いますから。
あとほんの少しだけ、お待ちくださいね」
その後、すぐにイリスが診察室に呼ばれ、マーベリックとレノもイリスに付き添って診察室に入った。
イリスの症状を丁寧に聞いたティルディナリーは、イリスへの触診を終えてから、大きな笑顔を浮かべてイリスに向き直った。
「おめでとうございます。……ご懐妊ですね」
「……!!」
思わず頬を染めてマーベリックを見つめたイリスのことを、マーベリックは感極まったような表情を浮かべてから、柔らかく抱き締めた。
レノも目を輝かせて、イリスのお腹を優しい手付きで撫でた。
「わあ、イリス、おめでとう……!
お腹に、赤ちゃんがいるんだね」
「俺たちの子供か。……会えるのが待ち遠しいな」
「はい……!」
ティルディナリーは、目の前で歓喜の表情を浮かべる3人の様子に、にこにことしながら続けた。
「妊娠中は、人によって症状は違うのですが、悪阻で食べ物の匂いに敏感になる方が多いですからね。あまり無理はせず、そして、しっかり栄養と休息を取るようにしてください。お腹の赤ちゃんのためにも、ね」
「はい、ありがとうございます」
「……ところで。また別件なのですが、できれば、少しお話したいことがあります。
そうですね……マーベリック様、できればこの後、少しお時間をいただいても?」
急に真剣な表情を浮かべたティルディナリーに対して、マーベリックは少し不思議そうにしながら頷いた。
「わかりました、俺で良ければ」
「では、イリスさんとレノ君には、先に待合室に戻っていていただきましょうか。
イリスさん、本当に、ご懐妊おめでとうございます。元気な赤ちゃんを産んでくださいね」
ティルディナリーの言葉に頷いて、一足先にレノと待合室に戻ったイリスは、しばらくしてから、ティルディナリーと話し終えて診察室から出て来たマーベリックに、躊躇いがちに話し掛けた。
「あの、私はあまり聞かない方がいいようなお話だったのでしょうか。お腹の赤ちゃんに、何か関係が……?」
「いや、そういうことではないんだ。イリスの妊娠とは、全く関係のない話でね。悪い話ではないと思うが……そうだな。イリスの体調がもう少し落ち着いたら、俺からイリスに説明するよ。
ところで、イリスの実家のクルムロフ家で、信頼のおける者はいるかい?……イリスが結婚式に招いた、モリーという侍女長は、しっかりしているようだったな」
「ええ、モリーは、母が亡くなった後、まるで私の母親代わりのように、私を庇って、可愛がってくれましたから。モリーはしっかり者ですし、彼女のことは、心から信頼していますわ」
「わかった。今度、彼女の所を訪ねてみようと思う。
……イリスは何も心配せずに、安心しておいで」
「そうそう!
僕も何のことかはわからないけど、兄さんに任せておけば、絶対大丈夫だから、さ。
イリスは、イリスの身体と、お腹の赤ちゃんを大事にしようね。
ああ、嬉しいな。2人の赤ちゃんに、早く会いたいなあ……!」
くしゃりと顔中に笑顔を浮かべて小躍りするレノを、マーベリックとイリスも微笑みながら見つめていた。
***
ヘレナは体調不良を訴えて、魔術学院を休み、家の中に引き篭るようになっていた。
自らの美貌が自慢だったヘレナは、それを失ってしまってからというもの、すっかり外出することが怖くなっていた。醜く歪んでしまった顔を見られる恐怖感から、絶対に学院の級友には会いたくはなかったし、母のベラにすら、ヘレナは包帯の取れた自らの顔を見せてはいなかった。当然、家の中の侍女や執事たちにも、決して顔を晒すようなことはしていない。
もう時間もわからない、雨戸を閉め切ったままの自室のベッドの上で、ただ虚に寝そべっていたヘレナの元に、母のベラの金切り声が聞こえてきた。
(……何があったのかしら?)
気怠げにベッドの上に身を起こしたヘレナの目の前で、部屋のドアが勢いよく開いた。
薄暗い部屋の中でもはっきりとわかるほどに真っ青に血の気の引いたベラが、呆けたように頭を抱えている。
「もう、お終いだわ。ああ、どうしてこんなことに……。
ヘレナ、あなた、ティルディナリーの所に行ったわね?」
震える声で、幽霊のような顔でヘレナに迫るベラの姿に、ヘレナは狼狽した。
「だって、彼の回復魔法はこの国で一番だって、そういう評判だったのだもの。誰だって、一番腕の立つ人に診て欲しいじゃない?
確かに、お母様の言う通り、他の方に診ていただいた方がよかったのかもしれないけれど……」
ベラの剣幕に戸惑うヘレナを前にして、ベラの瞳からはとめどなく涙が溢れ出した。
「あれだけ、彼のところには行くなと、そう言ったのに!どうして、あなたは……」
「もう、そのくらいになさったらどうです?
これからは、お2人だけでやっていかれるのですから。頼れるのは、お互いだけなのですよ?」
ベラの背後から、痛々しいものを見るような目付きで、モリーがヘレナに食ってかかろうとしていたベラのことを止めた。
ヘレナは、思わず顔に手を当てて、包帯が巻かれたままになっていることを確認してから、モリーに怪訝な表情で尋ねた。
「これからは2人だけって、いったい、どういうことなのかしら?
……意味が、わからないのだけれど」
モリーのさらに後ろから、2人の男性が現れた。ヘレナは、突然現れた、見知った顔の2人の姿に、あっと息を飲んだ。そこには、鋭い目をしたティルディナリーと、マーベリックの姿があったのだ。
ヘレナの前に進み出たティルディナリーが、口を開いた。
「先程、貴女の母君ともお話しましたが、貴女にも簡単にご説明すると。
……ヘレナさん、貴女は、母君の不貞の結果生まれた子供だと、そういうことです」
「……えっ?」
ティルディナリーの言葉を飲み込めずにいるヘレナに、彼は続けた。
「不貞は重い責任に問われるということは、ご存知ですよね?当然、貴女の母君は、このクルムロフ家から追われることになりますし、貴女にも、この家の継承権はないと、そういうことになります」
「な、何を仰っているの?仰っていることが、さっぱりわからないわ。
……つまり、私たちにこの家を出て行けと?」
「端的に言えば、そういうことですね」
ヘレナは、激しい怒りに、かっと顔に血が上るのを感じた。
「いきなりいらっしゃったかと思えば、どうしてそんなに失礼なことを?
……どこに、そんな証拠があると言うのです?」
「先日、貴女が私の治癒院にいらっしゃった時に、証明してくださったではないですか」
「私、が……?」
勢いを削がれたヘレナは、ティルディナリーの元を訪れた日のことを思い返してみたけれど、思い当たるような節はなかった。
ティルディナリーは、ポケットの中から1通の手紙を取り出した。
「この手紙、覚えていらっしゃいますね?
封筒の筆跡が母君のものかを、確認させていただきましたね」
「ええ。でも、それとこれと、どのような関係が……?」
そう言ってヘレナが母の顔を見ると、母は血の気のない顔を強張らせていた。
「僕には、かなり歳の離れた兄がいたのです。兄は魔物討伐の際に、運悪く命を落としてしまいましてね。僕が悲嘆に暮れながら兄の遺品を整理していたら、このような手紙が出て来たのですよ。同じ送り主から、幾通も。
内容は、兄のことをいかに想っているかや、兄との間に子供ができたと、そのような内容でした。……偽名が使われていたので、送り主を探し当てるには骨が折れましたが、何とか見つかりましてね。それが、そこにいらっしゃる貴女の母君です」
「う、嘘よ……!」
ティルディナリーは、薄く笑った。
「嘘だったらどんなに良いかと、僕もはじめは思ったのですがね。
……どうやら、貴女の母君は既にクルムロフ家に嫁いだ身でありながら、結婚していることを隠して、兄に近付いたようです。そのうち、母君が結婚していることに気付いたらしい兄は、慌てて母君との関係を断ったようですが、その時には、貴女が既に母君のお腹の中にいたと、そういうことのようです。途中から、開封しかけたまま、読んだ形跡のないような手紙も残っていたので、兄が貴女の存在を知っていたのかまでは、わかりませんが。
……兄の行為はあまりに軽率だったと思いますが、兄は当時、貴女の母君が既婚者だと気付くまでは、確かに貴女の母君との結婚を考えていたようですよ」
「……手紙の筆跡くらいで、何だって言うの?
母と似た筆跡の人だって、いるかもしれないじゃない。私の勘違いかもしれないわ。そんなことくらいで……」
ティルディナリーは、ヘレナの言葉を遮るようにして、静かに続けた。
「その手紙は、かなり長い期間に渡って兄宛に届いていたようでしてね。……相当、母君は兄に入れ込んでいたようですね。そのうちの1通、今僕が手に持っているこの手紙には、書いてあったのですよ。
『貴方と同じ、星のような形の黒子が、娘の首筋にもある』のだと。
……確かに、兄の首筋には、そのような形の変わった黒子がありました。そして、この前貴女が治癒院にいらっしゃった時、貴女の首筋に、僕は同じ形の黒子があるのを見付けています」
ヘレナは、はっとして自分の首筋に手を当てた。そして、母の顔を改めて見つめた。
力なく項垂れた母の様子から、彼の言う内容が真実なのだということは、ヘレナにもはっきりとわかった。
「そんな……」
「それに、貴女は光魔法の属性ですね?
確かに、両親の属性とは異なる属性の子が生まれることもありますが、非常に珍しい例ですし、数代前まで遡ると、その属性を有する者が血縁者に見付かることが多いようです。
少し調べさせていただきましたが、貴女のご両親も光魔法は使えませんし、その血縁者にも、光魔法の使い手は見られませんでした」
「……つまり、私は貴方のお兄様の娘で、貴方は私の叔父に当たると、そういうこと?」
「ええ。正直なところ、あまりよい気分ではありませんがね。貴女たちがイリスさんにした仕打ちも含めて、貴女たちの今までの行動は調べさせていただきましたよ。
……もし、あの優しいイリスさんの方が血の繋がった姪だったならば、それは喜ばしいことだったでしょうけれどね」
ヘレナは、自暴自棄になってティルディナリーの胸元に掴みかかろうとした。
「じゃあ、せめて私の顔を治しなさいよ!?
貴方なら、もっとまともに治せるんじゃないの。
……こんなに醜い姪がいたら、貴方だって恥ずかしいでしょう?」
ティルディナリーは、真剣にヘレナの顔を見つめた。
「いや、僕にもできないことはあります。僕にできる限りの回復魔法を使った結果が、その貴女の顔です。ですが、僕にとっては、貴女の見た目については何も恥じるようなことはありません。
……貴女のその心の貧しさの方が、余程恥ずかしいですね。それに、光魔法の習得を疎かにしてきたことについても。
兄の血を引いているならば、努力さえすれば、光魔法を活かして、きっと多くの人のために役立てるようになる筈なのに」
「……っ」
怒りに身を任せて、自らにでき得る限り最大の破壊魔法をたどたどしく唱え出したヘレナのことを、マーベリックが制して、浮き出て来た光の球をかき消した。
「やめておけ。そんなことをしても、何にもならない」
悔しそうに、ヘレナが魔力を使い果たしてぐったりとしながら、マーベリックを見て唇を噛む。
「何なのよ。どうして、急に出て来て、そんなことを……。マーベリック様は、お姉様の代わりに、私たちが家を追われる様子を見に来たと、そういうことなのかしら?
ねぇ、ティルディナリー様。貴方がもし私の叔父だったとしても、この家から私たちを追い出す権利が、貴方にあるっていうの?所詮貴方から見たら他人事でしょう、外野が口を挟まないでよ!
それに、どうして今更……」
ティルディナリーがゆっくりと口を開いた。
「理由は幾つかあります。
……1つ目は、貴女が兄の娘だとは思われたものの、決定的な証拠が掴めずにいたことです。つい先日、貴女が僕のところに来るまではね。
随分と以前に、僕がこのクルムロフ家を訪ねた時の、母君の焦った様子からも、僕は貴女が、母君と僕の兄との不貞の結果生まれた子なのだろうと、ほとんど確信に近い感覚は抱いていました。けれど、兄の忘れ形見の貴女に会おうと母君を訪ねたものの、それは叶わずに追い返されてしまったので、確たる証拠は掴めなかったのですよ。
2つ目は、今までの貴女の、そして母君の言動です。
確かに、仮に不貞の結果生まれた子供だとしても、子供自身には罪がないのだからと、僕もそう思っていました。
……しかし、貴女と母君のこれまでの言動は、あまりにも酷い。本来この家を継ぐべきイリスさんに対して、貴女は姉どころか侍女のように冷たく扱い、そしてその婚約者までも奪いましたね。母君も同様です。いくら血が繋がっていないとはいえ、イリスさんに対する扱いはあまりに酷だったと言うほかありません。
そして、最近も、貴女は人様の婚約者を奪うということを繰り返していたようですね。
貴女の生い立ちを知り、そして、その目に余る貴女たちの言動を知ってしまった以上、そのような人たちに伝統あるクルムロフ家を継がせるべきではないと、正当な後継者に戻すべきではないかと、外野ながらに、そう考えたのです」
「……」
やや俯いて口を噤んだヘレナに対して、ティルディナリーは寂しげに微笑んだ。
「……この2つが主な理由ですが、最後に。
貴女は、今まで、その見た目の美しさに傲り、それ以外の努力や、真摯に人を愛するということを、放棄して来たのではないですか。
そんな貴女がその美貌を失ってからというもの、貴女の元からは、男性たちも皆去って行ったようですね。それはきっと、今までの貴女自身と同様に、貴女の周りには、外観や権力といった、目に見えるものばかりに踊らされる人ばかりが集まっていたからでしょう。
これから貴女が、母君とどのような道を歩むかは、貴女次第ですが。
……もしも、貴女がその光魔法の能力を磨いて、他人の痛みを癒し、弱者に手を差し伸べられるような、そんな存在になることができれば。
見た目の美醜に簡単に掌を返すような人たちよりも、内面の美しい人たちと、よほど充実した関係が築けるようになると、僕はそう思いますよ。
余計なお世話だと思われるでしょうが、それでも、貴女は僕の大好きだった兄の、たった1人の忘れ形見なのですから。
……この家の存在に甘えて、失った美貌を嘆き、暗い日々を過ごすよりは、貴女に新しい一歩を踏み出していただきたいと、それが僕の願いでもあるのですよ」
ヘレナはティルディナリーの言葉に肩を震わせ、ぎゅっと両の拳を握り締めていた。深く項垂れたヘレナの表情は、その場の誰にも窺い知ることはできなかった。
***
「まあ、お嬢様!
随分と、お腹が大きくなって……」
マーベリックとレノと一緒に、馬車でクルムロフ家までやって来たイリスの姿を見て、満面の笑みを浮かべて、嬉しそうにイリスのお腹を撫でるモリーに、イリスも明るく笑い掛けた。
「ふふ、最近、よくお腹の中で元気に動くのよ。
もうすぐ会えるかしら、楽しみだわ」
「旦那様も奥様も、きっと天の上から喜んで見守っていらっしゃいますよ」
「ええ、きっとそうね」
イリスはモリーの言葉に頷くと、マーベリックに腕を優しく支えられながら、敷地の端の高台にある、両親の眠る墓の前までゆっくりと歩いて行った。レノが、イリスの腕からひょいと受け取った、温かな色合いに咲き乱れる花々を、イリスの両親の名が刻まれた白い墓石の前に供える。
イリスと一緒に、墓石に向かって手を合わせるモリーの瞳には、薄らと涙が浮かんでいた。
「……旦那様が亡くなってから、あのベラ様は、妻でありながら、一度たりとて旦那様の墓に花を供えにすら来ませんでした。私は、そんなベラ様と、そしてイリスお嬢様を邪険に扱ってきたヘレナ様に、このクルムロフの家を乗っ取られるのかと思うと、それは悔しくて、悔しくて堪らなかったのですよ。
お嬢様がエヴェレット家に侍女として働きに出られてから、お嬢様のいらっしゃらないこの家は、私にとって、火が消えたように寂しくなりました。……けれど、旦那様と奥様と過ごした、たくさんの思い出のあるこの家で、お2人の墓石が草に覆われていく様子を想像すると、どうしてもこの家を出る気にはなれなかったのです。
けれど、ヘレナ様の出生の背景を知って、ベラ様の行動の理由がすとんと肚に落ちましたよ。旦那様が、忙しいお仕事や長期の遠征などで不在になさっている時、こそこそと屋敷を抜け出すベラ様を、何度も見掛けてはいましたが、まさか、そんな理由があったとは、当時は想像すらしませんでした」
「私も、その話をマーベリック様からつい最近お聞きして、驚いたわ……」
イリスの肩を柔らかく抱きながら、マーベリックは口を開いた。
「優しいイリスのことだ、あの酷かった彼らのこととはいえ、事実を知ったらショックを受けかねないからな。
ティルディナリー先生も、妊娠したばかりの時期に、イリスにそんなストレスを与えないようにと、代わりに俺にその話をしたようだ」
「お嬢様、ベラ様とヘレナ様が家を追われたからといって、何も気にする必要はございませんよ?お嬢様は優しすぎるので、何か彼らの心配でもしていないかと、むしろ私はそれが気になりますよ。
ティルディナリー様からも、お聞きになっているでしょう?突き放した方が、本人たちの為になることもあるのだと。私は、本当にその通りだと思いますね」
イリスは思案げな表情を浮かべて頷くと、もう随分遠いことのように感じる記憶の中から、ヘレナとベラの顔を思い浮かべた。ヘレナの美貌が跡形もなく失われ、ベラとこの家を追われてから、今2人がどうしているのか、イリスには知る由もなかったけれど、温かな光魔法の使い手であるティルディナリーが、その姪であるヘレナに願った未来を、イリスも信じてみたいと思った。
モリーが、再度イリスの膨らんだ腹部を温かな目で見つめた。
「お嬢様は、これから生まれてくるお子様のことだけ、考えていてくださいね」
レノも、横からにこにことしながら口を開いた。
「エヴェレット家の皆で、兄さんとイリスの赤ちゃんを楽しみにしているんだよ!
ヴィンス兄さんなんか、この前、気が早いけれど、どっさりと赤ちゃん用のおもちゃを買って来てさ。早く会いたいって、凄く楽しみにしていたよね。男の子かな、女の子かなって、わくわくしていたね」
「そうだな。
……俺は、イリスに似た、可愛い女の子のような気がするが」
「あら、私は、マーベリック様に似た、凛々しい男の子のような気も致します……お腹の中で、とっても元気に動くのですもの。
でも、どちらだとしても、とても嬉しいですね」
「どちらがお生まれになるとしても、とても楽しみですね。
……まだ先の話になりますが、この先、お2人目のお子様もお生まれになったら、このクルムロフ家も、是非継いでいただきたいですね」
「兄弟姉妹がたくさんいた方が、賑やかで楽しいよね!僕も、兄さんたちのことが大好きだし。
ねぇ、そうでしょう?」
楽しげにマーベリックとイリスを見上げたレノに、2人は思わず顔を見合わせると、頬を染めて笑い合った。
マーベリックはレノの頭を軽く撫でた。
「そうだな、レノ。
イリスとなら、賑やかで明るい家庭を築いていく自信があるよ」
「ふふ、マーベリック様が優しく支えてくださるお蔭ですわ」
見晴らしの良い高台に、さあっと爽やかな風が流れて行く。イリスの両親の墓を見守るように、墓石の上を覆うように高く伸びる枝が風に揺れ、穏やかな陽光が墓石の上に差し込んだ。イリスの頭に、優しかった両親の笑顔が思い浮かぶ。
少し前までは想像することもできなかったほどの幸せに、心の中で感謝の祈りを唱えながら、イリスは、いつでもイリスを庇い守ってくれるマーベリックの温かく大きな掌を、そっと握り締めた。
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