(番外編)ヘレナの絶叫

「う、嘘。そんな、そんなっ……!」


絶句するヘレナの瞳が、今しがたまで鏡の奥に捉えていたのは、ヘレナが引っ張った包帯の間から覗いていた、おどろおどろしいほどに焼け爛れた赤黒い肌だった。ヘレナが自慢にしていた、陶器のような滑らかな白い肌とは、似ても似つかないものだ。

男性の心を虜にするのに十分だった、大きく形のよい瞳も、同じように皮膚が爛れている上に、目元がおかしな形に引き攣れた状態で固まっていた。包帯の間から覗くわずかな部分でさえそのような状態なのだから、顔のその他の部分も推して知るべしというものだった。


「嫌、いやよ。こんなの、私っ……」


ヘレナの瞳から、大粒の涙がぼろぼろと溢れ落ちる。

ベラが、ヘレナの肩にそっと手を置いた。


「ヘレナ……」


ベラの声に、ヘレナははっとしたようにベラの顔を見つめた。


「お母様。……回復魔法の優れた使い手なら治せるかも知れないと、そう仰いましたよね?」

「……ええ、そうね。きっと、回復魔法でなら、火傷の痕も今より良くなるんじゃないかしら」


歯切れ悪くヘレナに返したベラの頭に、医者から告げられた言葉が蘇る。

回復魔法なら改善の見込みがあるというのは嘘ではなかったけれど、その言葉はヘレナを絶望から救うための、気休めの意味合いが強かった。ヘレナの火傷の具合は非常に深刻で、元の顔立ちが既にわからないほどになっていたのだ。元通りの顔に戻すどころか、人の顔として見られるように治すことでさえ、仮に魔法の力に頼っても困難だと、ヘレナの顔の治療を担当した医者からは、言いづらそうにそう告げられていた。


「確か……光魔法で知られるシュタイン家に、回復魔法の当代最高の使い手と言われる、ティルディナリー様という魔術師がいらっしゃるとか。もしかしたら、彼なら、私の顔を治してくださるかも……」


ベラは、ヘレナの口から発せられた名前に目を瞠ると、ひくりと顔を引き攣らせてから、固い表情で首を横に振った。


「ヘレナ。……彼はやめておきなさい。

他にも、この国には光魔法の優れた使い手がいるわ。他の方を探しましょう。ね?」


ヘレナは、ベラの声が微かに震えているのに気付いたけれど、腹の底から湧き上がってくるような苛立ちを隠すことができなかった。


「お母様、あなたの娘である私が、美貌で知られた私の顔がこんな状態になっているというのに、なぜ、そんなことを仰るのです?

最高の治療を受けたいと思うのは、当然のことではなくって?」

「あなたが何と言おうと、それは認めないわ。……いいわね?」


ベラは、つい先程までとは打って変わって冷たい口調でぴしゃりとそう言うと、少し外の風に当たって来ると言って、重い足取りでヘレナの病室を出て行った。


「お母様……?」


ヘレナは、そんな母の後ろ姿を、不安が暗く胸を覆うのを感じながら見送った。


***

(ここが、ティルディナリー様の治癒院。

どうして、平民がこんなにたくさんいるの?なぜ、貴族の私が、こんな所で、平民に混じって待たされないといけないのかしら……)


包帯の巻かれた顔をストールで隠すようにしながら、ヘレナはティルディナリーの治癒院を訪れていた。


(お母様はあんなことを言っていたけれど。……でき得る限り質のいい治療を望んで、何がいけないのかしら。

でも、当代最高の魔術師が営む治癒院と聞いて、もっと優雅なところを思い浮かべていたのに)


ヘレナは、簡素な治癒院を苦々しく見回すと、ちょうど平民と思われる1人の老人を、温かい笑顔で送り出していた青年に声を掛けた。


「少し、伺いたいのだけれど。

ティルディナリー様は、どちらにいらっしゃるのかしら?」

「……はい、それは僕ですけれど」

「何ですって?」


ヘレナは、想像していたよりも年若いティルディナリーの姿に面食らいながら、無遠慮に彼のことをじろじろと眺めた。


「私、貴族なの。クルムロフ家のヘレナよ。こんな平民たちに混じって、長いこと待っている訳にはいかないのよ。

お願い、順番を先に回してはいただけないかしら?」


ティルディナリーは、はっとしたようにヘレナの顔を見つめたけれど、ゆっくりと首を横に振った。


「ここでは、貴族も平民も関係ありません。皆同じように待っていただいているので、順番は待っていただくほかありません。

あまりに酷い、急を要する症状の場合には、先に診ることもありますが……」

「私、きっとその例外に当たると思うわ。

顔に、酷い火傷を負ってしまっているの。とにかく、すぐに診ていただきたいのよ」


切羽詰まった様子のヘレナに、ティルディナリーは側にいた助手に声を掛けてから、ヘレナに向き直った。


「わかりました。では、火傷の状況を先に確認させていただきましょう。どうぞ、こちらの部屋へ」


ヘレナは満足気に頷くと、ティルディナリーの後について診療用の小部屋に入った。


「包帯を少し解きますよ。よろしいですか?」

「ええ、構わないわ」


ティルディナリーは、包帯の奥に覗いたヘレナの肌の様子を見て、顔を顰めた。


「確かに、これは酷い火傷ですね。……薬は塗ってあるようですが、爛れた箇所から二次感染などを引き起こすと危険です。この火傷は、すぐに回復魔法で治療致しましょう」


ティルディナリーに勧められた椅子に腰を下ろしたヘレナは、彼の言葉に、喜びに顔を輝かせた。


ティルディナリーは、しばらく無言でヘレナの顔を見つめてから、引き出しの中から、一通の封筒を取り出した。


「ヘレナさんと仰いましたね。少し、話は変わりますが。

……伺いたいのですが、こちらの手紙を書かれたのは、貴女の母君でしょうか。ご確認いただくことはできますか?」


(お母様が……?)


訝しげに思いながらも、ヘレナがティルディナリーが手にした封筒を覗き込むと、確かにそこに書かれていた宛名の文字は、母のベラによるものだった。シュタイン家の、ヘレナは名前の知らない誰かに宛てて送られたものらしい。


「ええ、これは確かに母の字ですわ。

ほら、この文字の跳ねている部分、母の癖なんです……間違いなく、これは母の筆跡です」

「そうでしたか。確認してくださって、ありがとうございます」


にっこりと微笑んだティルディナリーに、ヘレナも包帯の奥から笑みを返した。


(お母様、あんなことを言っていたけれど、結局、私の火傷の治療のために、シュタイン家に宛てて、一筆書いてくださったのかしら)


ティルディナリーは、ヘレナの顔と、首回りの状態を改めて一通り確認すると、口を開いた。


「一つ、申し上げておきたいのですが。

火傷を負った皮膚を癒す、ということでしたら、治療して差し上げることは可能です。けれど、これほどの火傷となると、痕はどうしても残ってしまいます。元の通りの顔に戻すことは、残念ながらできません」

「そ、そんなっ……。それじゃ、意味がないのよ。

あなた、回復魔法の優れた使い手でしょう?このくらいの火傷を治すことくらい……」


ヘレナの言葉に首を横に振るティルディナリーの姿に、ヘレナはその表情に絶望を滲ませた。


「意味がないとお考えであれば、回復魔法による治療は中止しても構いません。どうなさいますか?」

「い、いえ、お願いするわ。せめて、酷く爛れたこの肌だけでも……」


ヘレナの言葉に、ティルディナリーは静かに頷いた。


***

ヘレナがクルムロフ家の屋敷に帰り、自室の鏡台の前に座って、顔に巻かれたままになっていた包帯を解こうとしていた時だった。


部屋の扉がノックされ、ウラヌス様がお見えですと、侍女の声が聞こえる。


ヘレナは、解きかけた包帯を慌てて留め直してから、どうぞと声を掛けて振り返った。開いた部屋の扉の向こう側には、見舞いの花束を手にしたウラヌスの姿があった。


ウラヌスはヘレナに向かって一歩踏み出した。


「ヘレナ、火傷の具合は大丈夫かい?

……僕の剣が魔物の急所を貫いていれば、君をこんな目に遭わせずに済んだのかもしれないが……」

「いえ、ウラヌス様。

あの時、貴方様が助けてくださったお蔭で私の命があるのですもの」

「……そうか」


ウラヌスは、どこか物欲しそうな、期待の入り混じった目でヘレナを見つめた。彼がヘレナの顔を見た時、探るような表情が和らいだのを、ヘレナは感じていた。恐らく、包帯の合間から覗く皮膚が、ティルディナリーの治療により白さを取り戻していたお蔭だろうと、ヘレナは胸を撫で下ろしていた。ウラヌスの瞳は、ヘレナの顔を覆う包帯の奥に、いささか安易に元の美しいヘレナの顔を想像しているのだろうと、そう感じられた。


ヘレナは、内心の焦りをウラヌスに悟られないように必死だった。もし、自分の顔が元通りにならないのだとしたら、ウラヌスの存在をここで手放す訳にはいかなかったからだ。


本心で言えば、ウラヌスが魔物をあの時無事に退治してくれていたならと、苦々しく思っていたし、助けてくれた彼に特別心が動かされたという訳でもなかった。けれど、そんな悠長なことを言ってはいられない状況だということも、ヘレナはよく理解していた。


「ウラヌス様、先日仰っていた、ウラヌス様との結婚のお話ですけれど。

先日は、酷いことを申し上げて申し訳ありませんでしたわ。私が間違っておりました。

……ウラヌス様に魔物から助けていただいて、私、思ったのです。勇敢な貴方様との結婚なら、ぜひお受けさせていただきたいと」

「本当かい!?嬉しいよ、ヘレナ」


頬を染めたウラヌスは、ヘレナの元に駆け寄ると、軽くヘレナの身体を抱き締めた。


「君がその気になってくれるなら、是非、この僕と……」


そこまで言い掛けたところで、ウラヌスがはっとしたように言葉を切った。

想像していた通りの展開が突然途切れたことに驚いたヘレナは、ウラヌスの顔を見上げて小首を傾げた。


「ウラヌス、様……?」


ウラヌスの視線は、ヘレナの顔の上で凍り付いたように固まったかと思うと、みるみるうちに青ざめた。小さく、ひっという声が彼の口から漏れたのと同時に、彼はヘレナの身体に回していた腕を慌てて解くと、一歩後退った。

ウラヌスは、視線をヘレナから逸らして、しばらく宙を彷徨わせてから口を開いた。


「君は、この前、僕との結婚は考えられないと言っていたばかりだし、焦って決めることもない。しばらくは、安静に過ごすといいと思うよ。

では、僕はこれで。……見舞いの花は、ここに置いておくよ」

「えっ、ウラヌス様。どうして……?」


ウラヌスの腕に、繋ぎ止めるように急いで絡められたヘレナの腕を、彼は容赦なく振り解くと、足早にヘレナの前から立ち去って行った。茫然としたヘレナは、頬に手を当てて、初めて顔に巻かれていた包帯が解けていることに気付いた。ウラヌスに抱き締められた拍子に解けたのだろうと思われた。

ウラヌスの掌を返すような態度の変化に、戸惑いながら横にあった鏡台に視線を戻したヘレナは、鏡に映った自分の姿に思わず絶叫した。


「いやあっ。な、何なの、これっ……!」


ヘレナは自分の顔に震える手を当てた。確かに、皮膚の火傷自体は癒えてはいる。けれど、鏡の奥に映っているのは、まるで表面が溶けかけた蝋人形をそのまま冷やし固めたような、全体がおかしなバランスで引き攣れたおぞましい顔だった。皮膚の爛れがなくなり、つるりとした肌に戻っていることが、かえって滑稽なバランスの悪さを際立たせていた。かつての美しかったヘレナの顔の面影は、もうどこにも見当たらなかった。


それでも、ベラがもしそのヘレナの顔を見たのなら、予想し得る限りの最善と医者に聞いていたよりも余程回復のみられる、肌艶も戻ったその顔に、少なからず感動を覚えていたかもしれない。


しかし、ヘレナは、想像を遥かに上回る酷さで、二目と見れなくなってしまった自分の顔に、膝から力が抜けると、がくりとその場に崩れ落ちたのだった。

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