(番外編)鏡の奥に

「ただいまー!」


屋敷内に響く明るいレノの声に、イリスはにこにことしながら、玄関までレノを迎えに出た。


「レノ様、お帰りなさいませ。もう、学園には慣れましたか?」

「うん、そうだね。大分慣れてきたよ。イリスがいろんな学科の勉強を家で教えてくれてたお蔭で、特に困ることもないし」

「ふふ、それは、レノ様が賢くていらっしゃるからですよ。レノ様は、まるで砂が水を吸い込むように、新しい知識をどんどん吸収なさいますから。私も教え甲斐がありましたわ。

もし何かわからないことがあれば、私でよかったら聞いてくださいね」

「ありがとう!イリスがそう言ってくれると、心強いよ」


イリスは、年相応の少年らしい快活さを感じるレノの姿を、微笑ましく見つめていた。

レノがこの国の学園に編入して、通い始めてから、しばらくの時間が経っていた。レノの特殊な能力は、この国で認められる魔法の5つの属性には含まれないから、レノが今通っているのは、イリスが昔通ったのと同じ、魔法の属性を有さない者たちが通う学園だ。

イリスは、懐かしさを感じながら、学生服が板についてきたレノの頭を優しく撫でた。


「さ、そろそろおやつにでも致しましょうか」

「やったあ!今日のおやつはなあに?」

「今日は、チーズケーキを焼いてありますよ。今、紅茶と一緒にお持ちしますね」

「わあ、ありがとう。イリスのチーズケーキ、僕、大好き!

イリスは料理もお菓子作りも上手だもんね。兄さんと結婚してからも、イリスの毎日って前とあんまり変わってないよね?イリスの作ったおやつが今も食べられるの、僕嬉しいなあ」

「私も、身体を動かしている方が性に合っているみたいです。それに、作ったものをレノ様に喜んでいただけるのも、とても嬉しいですし。

では、お部屋で少し待っていてくださいね」


ケーキと紅茶の準備のために、キッチンに向かおうとレノに背中を向けかけたイリスに、レノがふっと思い出したように口を開いた。


「……あ、そういえば」

「はい、何でしょうか?」


レノを振り返ったイリスに、レノは続けた。


「あのね、今日は魔法の特別授業があってね。ほら、それぞれの魔法の属性について、その魔法の使い手が先生として来てくれて、その魔法の一般的な効果とかを、魔法が使えない人向けに教えてくれる授業なんだけど。


今日は光魔法の、若い男の先生が来てくれたんだけど、イリスに昔お世話になったって、イリスによろしく伝えてねって、そう言ってたよ」

「光魔法の先生が……?いったい、どなたかしら……」


不思議そうに首を傾げたイリスに、レノは少し考えるように視線を宙に彷徨わせた。


「えっと、何だか舌を噛みそうな、ちょっと長い名前の……。

あ、そうそう、ティルディナリー先生だったかな。

イリス、覚えてる?」

「ああ!ティルディナリー様ですか。

彼が光魔法をお使いになるとは、存じませんでしたけれど。昔、クルムロフ家にお越しになったことがあって、お話したことがありましたわ。少しだけでしたし、特に何かお世話したような記憶はありませんけれど……」

「そうだったんだね。僕も詳しいことはわからないけど、イリスの優しい気遣いに救われたって、先生、そう言ってたよ」


イリスは、昔ティルディナリーと会った時のことを思い出していた。

クルムロフ家を、どこか緊張した面持ちで訪ねてきた、まだ年若い青年のティルディナリーに、ベラへの取り次ぎを頼まれたのがイリスだったのだ。

イリスが義母のベラを呼び出すと、なぜかベラは彼に対して、血の気の引いた顔で何かをがなり立ててから、すぐに屋敷から出て行くようにと強い調子で告げていた。


外向きには比較的愛想の良かった義母が、凄い剣幕で、ティルディナリーを追い出そうとする様子を、イリスははらはらしながら見つめていた。青い顔をして、何だか体調も優れないように見えたティルディナリーの姿にいたたまれなくなったイリスは、そっと彼を呼び止めると、裏口からこっそりと家に招き入れ、義母の非礼を詫びて、彼の顔色が戻るまで休んでいくようにとお茶を勧めたのだった。


結局、彼の訪問の目的はイリスにはわからず仕舞いだったし、とても聞けるような雰囲気ではなかったけれど、イリスとそれほどは年も変わらないように見える、穏やかで人の好さそうな青年だった彼は、悪い人にはとても見えなかった。イリスは、簡単な当たり障りのない世間話のほか、彼に聞かれるままに、クルムロフ家の話ーーベラが義母であることや、妹がいることなどをぽつぽつと話したのだった。


ベラがイリスの義母だと知った彼は、イリスが侍女服で働いていることに驚いた様子だったけれど、思案げにイリスの話に耳を傾けてから、イリスの心遣いに丁寧に礼を述べて、クルムロフ家の屋敷から帰って行ったのだった。


(懐かしいわ。

そういえば、ティルディナリー様の家は、治癒院を営んでいらっしゃると仰っていたわね。何かあったらいつでも来て欲しいと、そう言ってくださっていたけれど、あれはきっと、彼も光魔法の、回復魔法の使い手だったからなのね)


「ティルディナリー様、お元気そうでしたか?」


レノに問い掛けたイリスの言葉に、レノは勢いよく頷いた。


「うん、元気そうだったし、にこにこしていて優しい、感じのいい先生だったよ。

他の先生から聞いたんだけど、ティルディナリー先生は、飛び級で魔術学院を卒業した、まだ若いのに、この国でも指折りの光魔法の使い手なんだって。先生以上の回復魔法の使い手は、この国にはいないみたいだよ」

「まあ。彼がそれほどの光魔法の使い手でいらしたとは、知りませんでしたわ。

お元気そうだったなら、何よりです」

「イリスって、顔が広いんだねぇ」


感心したように呟いたレノに対して、イリスは軽く首を横に振った。


「いえ、彼とお知り合いになったのも、ほんの偶然のことでしたから。

では、これからすぐにレノ様におやつをご用意しますね」

「うん、ありがとう、イリス!

じゃ、僕、部屋に戻ってるね」


イリスが、手早くキッチンで銀色のトレイにチーズケーキの皿と、紅茶のカップを乗せてから、レノの部屋に向かい扉をノックすると、レノはすぐに扉を開けて、イリスが手にしているトレイを見つめて目を輝かせた。


「わぁ、美味しそう!

チーズケーキ、甘くて香ばしい、いい匂いがするね。

……あ、あれ、イリス。大丈夫?」


何故だか顔色の優れない様子のイリスから、レノは慌ててトレイを受け取った。

イリスは、申し訳なさそうにレノに頭を下げた。


「すみません、レノ様のお手を煩わせてしまって。

何だか最近、時々体調が優れないことがあって。でも、たいしたことはありませんし、何も問題ありませんから、私のことは大丈夫ですよ」

「何言ってるの、イリス!

イリスはほとんど風邪も引いたことがないって、身体が丈夫なのが自慢だって、そう言ってたじゃない。なのに、あんまり顔色も良くないよ。


ねえ、無理しないで休んで?

そうだ、あのティルディナリー先生のところに行って、診てもらったらどうかな。

……あ、ちょうど兄さんも帰ってきたみたいだよ。早く、兄さんにも伝えなくちゃ」

「本当に、そのような大事ではありませんから。レノ様や、マーベリック様にご心配をかけるようなことは……」


そう言いながらも、思わず口元を押さえてしゃがみこんだイリスの背中を、レノはおろおろしながら優しくさすったのだった。


***

「ヘレナ。君のために、僕は婚約を解消してきたよ。

……ヘレナ、僕の気持ちはわかっているよね?僕と、結婚して欲しいんだ」


熱を帯びた瞳でじっとヘレナを見つめる、目の前の青年の姿を、ヘレナはつまらなそうに眺めた。


(ウラヌス様の剣の腕は、確かに立つとは評判だけれど。……でも、俊敏さには少し欠けるって言うし。将来、どんなに良くても副騎士団長止まりかしら。


見目も、そう悪くはないけれど、特に優れている訳でもないのよね。……マーベリック様と比べようものなら、足元にも及ばないわ)


天才の名を欲しいままにする、比肩する者のないほど美しい容姿でも有名なマーベリックが、クルムロフ家の長女のイリスと結婚したという噂は、あっという間に国中に知れ渡っていた。


まさか、あの地味で魔法も使えなかった姉がマーベリックに見初められるとはと、ヘレナはぎりりと歯噛みをしたくなる思いだった。


ヘレナにとって、今まで、狙いを定めた男性を手中に収めることは、勝ちの見えたゲームのようなものだった。それなのに、最も落としたくないゲームを、あろうことかあっさりと姉相手に負けてしまったのだ。


姉より劣るような結婚相手を選ぶなど、ヘレナのプライドが許さなかった。けれど、マーベリックと並び立つような男性など、そうそういる筈もない。あえて挙げるなら、若い女性たちの熱い視線を集めるヴィンセントだろうけれど、ヘレナは既に、彼から冷たい視線を向けられたことを苦々しく思っていた。


思うようにならない結婚相手探しの鬱憤を晴らすかのように、最近のヘレナは、面白くないと感じた同窓の女生徒の婚約者を奪っては、すぐに飽きて棄てるということを幾度か繰り返していた。ヘレナの美貌に、吸い寄せられるように近付いてくる男性たちに、そして選ばれる立場である自分に、優越感を感じては溜飲を下げていたのだ。

目の前にいるウラヌスも、同じパターンで奪った男性だったけれど、ヘレナは彼にも早々に飽きを感じ始めていた。


ヘレナはウラヌスを見つめ返すと、軽く溜息を吐いた。


「ウラヌス様、私、婚約を破棄していただきたいとまではお願いしてはおりませんわよ?」

「な、何を言っているんだい、ヘレナ?

君は、僕のことが気に入ったと言っていたし、最近、僕にあからさまに色目を使って来ていたじゃないか」


焦る様子のウラヌスに、ヘレナは淡々と言い放った。


「何か、勘違いされているのではなくて?

私、申し訳ないけれど、貴方様との結婚は考えてはおりませんわ。

……あら、もうこんな時間。陽も落ちて来ましたし、そろそろ失礼致しますね」

「少し話を聞いてくれよ、ヘレナ……」


ウラヌスの言葉を最後まで聞かずに、ヘレナは彼に背を向けた。


ヘレナは、夕闇の迫る校舎の外に出てから、ウラヌスを今しがた振ってしまったことを少しだけ後悔していた。


(せめて、彼の馬車で、私の家まで送ってもらってからにすればよかったかしら。

……まあ、でも、もう断ってしまったものは仕方ないわね)


辺りを見回しても、乗せてくれそうな知り合いの馬車は見当たらない。

ヘレナは諦めて、近くの大通りまで歩いてから辻馬車を拾うことにした。

夕闇に黒く浮き上がる、道路脇の暗い森を不気味に思いながらも、ヘレナは早足で道を急ぐ。少し前に、この森で魔物討伐がなされたことを思い出しながら、きっと大丈夫だと、心細く感じる自分に言い聞かせていた。


その時、すぐ側の草むらの陰から、不穏な唸り声が聞こえた。

ヘレナは、びくりと立ち竦んだ。


(これは、野犬の鳴き声?

……いや、これは……)


がさがさと草を掻き分ける音がして、暗闇に金色に輝く2つの瞳が浮かび上がる。

ヘレナは、声にならない悲鳴を上げると、その身体を恐怖に震え上がらせた。


(これは、魔物……!下級の魔物ではあるけれど、炎を吹くのよね……)


ヘレナがもし真面目に光魔法を習得していたならば、この程度の魔物を退けることくらい、造作なかったことだろう。

けれど、女性は男性に守られるものだとばかりに、魔法の勉強を軽視してきたヘレナにとっては、この魔物との遭遇は命の危険を意味していた。


野犬よりも一回りほど大きな、闇に溶けるような真っ黒の毛並みの魔物と、既に合ってしまった目を逸らせないままに、ヘレナはじりと後退った。


(ど、どうしたら……)


魔物が一瞬、ぴくりと動きを止めた気配があった。

馬車を引く馬の蹄の音が次第に近付いて来ていることに、ヘレナも気付いた。


「ヘレナ、大丈夫か!?」

「ウラヌス様!」


ヘレナを追って来ていたらしいウラヌスの声に、ヘレナは安堵に瞳に涙が滲むのを感じた。

けれど、ヘレナがウラヌスの乗った馬車を振り返った時、草陰から魔物が大きく跳躍した。


はっとして魔物に視線を戻したヘレナの顔のすぐ目の前に、もう魔物の獰猛な金色の瞳と、鋭い牙が迫っていた。


「きゃあっ。た、助けて、ウラヌス様……!」

「ヘレナ!!」


馬車から駆け下りたウラヌスが、渾身の力を込めて、剣を魔物に向かって投げつける。


魔物に命中したウラヌスの剣だったけれど、それはほんの少し魔物の急所を外れていた。すぐに絶命しなかった魔物は、断末魔の叫び声と共に、口から炎を吐き出した。

もうヘレナの頭に被さるような近さまで迫っていた魔物の口から、勢いよく吐き出された炎に、ヘレナの顔は包み込まれた。


ヘレナは、悪夢のような熱と痛みの中で、そのまま意識を失った。


***

ヘレナが目を覚ましたのは、薄暗い病室のベッドの上だった。


(ここは……?)


薄く目を開いたヘレナに、ベッド脇でヘレナの様子を見守っていたベラが涙声で話し掛けた。


「ヘレナ、目を覚ましたのね……」


ヘレナが視界にベラを捉えると、ベラが瞳いっぱいに涙を浮かべている姿が見えた。ヘレナは上半身を持ち上げようとしたけれど、顔中に刺すような痛みを感じて、思わず呻き声を上げた。


「お母様?……ここは、どこなの?」

「ここは、病院よ。この辺りでは、一番大きなところよ」

「私……。いったい、何が起こったの?」


ヘレナがぼんやりと記憶を辿っていると、ベラが言いにくそうに目を伏せた。


「ヘレナ、あなたは、魔物に襲われて、魔物の吐いた炎に顔を焼かれたのよ。ウラヌス様も途中までついていてくださったけれど、先に帰っていただいたわ。

状況はウラヌス様から聞いたわよ。あのままウラヌス様が来るのが間に合わなかったら、あなたは魔物に襲われて死んでいたかもしれないし、まだ、命があるだけ良かったわ……」


ヘレナは、自分の顔にそっと手をやった。顔中のほとんどを覆うように巻かれた包帯に指先が触れ、嫌な予感に背筋がぞくりと粟立った。


「ねえ、お母様。……手鏡を貸してくださらない?」


ベラは渋い表情で頭を振った。


「ヘレナ、やめておきなさい。

今は、薬で火傷の処置を施してあるだけだけれど、回復魔法の使える腕の良い魔術師にお願いすれば、きっと……」


ヘレナは言い淀む母の荷物に手を伸ばすと、その中から強引に手鏡を抜き取った。


手鏡の向こう側に映る自らの姿を目にしたヘレナの、わなわなと震える手から、するりと手鏡が滑り落ちる。そのまま床で跳ねた手鏡の鏡面は、粉々に辺りに砕け散った。

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