草でもいいから

三題噺トレーニング

草でもいいから

 大ピンチだ。

 トイレに入って、佐藤は焦った。

 なんと、紙がなかったのだ。それも用を足した後に気づくという最悪手だった。

 どうしよう、このままでは便座から立ち上がれない。トイレから出られない。

 ひとり暮らしの佐藤にとって家でゆっくりと用を足すのは休日の午後の優雅なひとときだった。

 部屋をきっちりと綺麗に片付けてチリひとつない部屋で、満足いくまで用を足す。

 佐藤の休日のルーティーンは突然の便意によって崩されてしまった。

 トイレに入って、用を足して、気づいた時には遅かった。

 天上の調べは地獄の騒音に変わってしまったのだった。

 このまま我慢してドラッグストアへへっぴり腰で駆け込んで、トイレットペーパーを買ってくるか?あるいはシャワーで尻を流すという幼児退行すれすれの情けない行動をするか? 社会人になったのに? そもそも汚れを嫌うオレがなんでそんなことを!?

 ああ、クソ。色んな意味でクソったれだ。こんな事なら、だれか草でもいいから部屋のトイレへ届けてくれないだろうか。

 悶々とする佐藤の部屋へ、突然の呼び鈴がなった。

「佐藤さーん、回覧板ですよー!!」

 隣の部屋の50過ぎの女性の声だ。

 回覧板なんて置いていってくれればいいものの、なぜ隣の部屋のオバさまはわざわざオレを呼びやがるのか。

 佐藤の焦りはより募る。

 このままオレが出なければ、あのオバさまのことだ。ぐるぐる回っているガスメーターを見て、真っ昼間から部屋の中でナニか怪しい事をしていると近所のオバさん連中に言いつけるに違いない。きっとそうだ。

 そうすれば、もうこの居心地のいい部屋にはいられなくなるだろう。

 どうする!? オレ!!

 佐藤の焦りは頂点に達した。

 「ええい、ままよ!」

 佐藤が意を決してトイレの汚物を流した瞬間。


 世界が歪んだ。


「え?」


 気づくと佐藤はタイムスリップしていた。

 トイレに入って用を足した瞬間に戻っていたのだ。

 腹から汚物が尻を通して出て行って、スーッと気持ち良くなる感覚があった。

 慌てて腕時計を見ると、5分前に戻っているではないか。

 そして、また気づく。

「紙がねぇ!!」

 呆然としていると、また呼び鈴が鳴る。ドアが叩かれる。

「佐藤さーん、回覧板ですよー!!」

 また、隣人の女性がやってきた。

 どうする? ……どうする?

 ええい! と立ち上がった佐藤はまた、5分前に戻っていたのだった。

 ーー心地よい便通とともに。


 幾たびかのループを経て気づいたことがあった。それは、どうやら佐藤の焦りが頂点に達すると時が飛ぶ。そして飛んだ時は必ずトイレに入ってズボンを下ろして、用を足した直後に戻る。

 なんだ、この無駄ループは。

 ただただ無限にトイレに入っているだけではないか。とはいえ佐藤の性格上、どうしても焦りが出てしまう。すると時が戻ってしまう。

 どんなに焦ろうがトイレ以前には戻ることはできなかった。

 一体、これを打破するにはどうしたらいいのか。

 どうしたら……どうしたら……。いや、焦ってはダメだ、オレよ。ここはどっしりと構えろ。

 えーい、仕方がない!!


「佐藤さーん、回覧板ですよー!!」

 隣人の女性に呼ばれるや否や、佐藤は爽やかな笑顔を作ってドアを開ける。

 佐藤から漂う臭気に女性は顔を顰めた。

「あら、やだ。なんなのこのにおいは」

「んー、おたくが大家に黙って飼っているイヌの臭いじゃないですか?」

 突然の指摘に女性は虚をつかれた顔をする。その一瞬を佐藤は見逃さなかった。

「回覧板、ありがとうございます」

 そのまま、ニヒルなフェイスでドアを閉める。

 笑顔で対応する佐藤だったが、パンツの中は阿鼻叫喚の地獄だった。

 潔癖症の佐藤にとってこの状況に耐えることは、きっと紙が、いや神が与えた試練だったのだろう。

 あまりのクサさに気絶しそうになりながらも、これからはウォッシュレットを取り付けなくちゃな、と佐藤は心に固く誓う。

 とりあえず、水だ。水を飲んで落ち着こう。

 佐藤は洗い立てのコップを取り出してウォーターサーバーの水を入れる。

 ホッと一息つこうとした刹那、佐藤の手からするりとコップが逃げていく。まずいまずいまずいコップが落ちる!! この状況でガラスが割れる惨事は避けたい……!!

 佐藤の焦りが極地に達した瞬間だった。


 あ。


 腹のつかえが、尻から落下していく感覚があった。解脱感に支配される佐藤の耳に、佐藤を呼ぶおばさんの声が聞こえた。

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