戦時下の妖怪

桐谷はる

戦時下の妖怪

 それは醜くはなく、とはいえ美しくもない、凡庸な中年女だった。

 湖のほとりに幽霊のように立っている。茶色のスカートにベージュのカーディガンを着て、ぼんやりと水面を眺めている。お迎えにあがりました、と声をかければゆっくりと振り向く。青白く、化粧っ気のない、幸薄そうな顔立ちをしている。

 これを車に乗せ、湖沿いに運び、指定された場所で別の人間に渡せば良い。

 注意することは三つだけ。ほしがれば水を与えること。何かを喋れば一字一句書き残すこと。不用意に声をかけないこと。

 これは、妖怪なのだという。

 たまに予言をするらしい。

 過去には天災や要人の生き死に、国家や経済が動くときをぴたりと言い当ててきたのだという。戦時下の今日、どこからか政府の耳に入ったらしく、一族でひそかに守り通してきた妖怪はお上に召し上げられることとなった。かつては政界や経済界にパイプを持ち、影ながら権力を振るったりしたこともあったらしい一族も、近年はそういう知恵のまわる人間が出なかったこともあり、いくばくかの金銭と身の安全と引き換えに妖怪を献上するしかなかった。

 お声を聞くこととお世話をすることはうちの血筋でなくてはならないのだそうで、一族で最も頑丈で機転のきく娘である僕の妹が付き添いをすることになっている。彼女は先行して京都へ発った。

 ちらりともこちらを振り向かない中年女の手を引いて、丁重に突き飛ばすような形で(自主的に動いてくれないので、そうするより他にない)後部座席に押し込む。

 

――みずをくれ、と言った。


 老婆のようなしゃがれ声だった。慌てて車を停め、助手席の段ボール箱からミネラルウォーターを取り出す。500mlが24本のケースがトランクにもう2つある。念のため用意していたメモ帳に、その一言を書き留めた。水をくれ。

 キャップを開けて差し上げると、妖怪はぐびぐびと喉を鳴らして飲んだ。口からあふれたぶんが首筋を伝い、ありふれたベージュのカーディガンにしみこんでいく。

 もっとくれ、もっと、と望まれるままに合計で5本が空になった。妖怪が袖で口をぬぐう様子を僕はルームミラーを通して見ていた。

 妖怪の顔に表情はなかった。

 光を吸い込む黒々とした瞳。ぬるり輝く赤い口。唇の隙間から覗く歯は獣のようにぎざぎざだった。

「おまえのいもうとはこんやしぬ」

 ブレーキを踏んで車を停めた。妖怪の頭がぐらぐらと揺れ、白髪交じりのソバージュヘアが顔に乱れかかる。シートベルトが深々と食い込んで息がつまった。しばらく前に別れたきりの、三歳下の妹の笑顔がまぶたの裏にちらついた。勝気で美人で度胸があって、どこで何をしてもうまくいくタイプだった。僕とは似ていなかった。死んだ母親から引き継ぐことになったお役目を、名誉とも使命とも思っていた。

 おまえのちちは、おじは、おばは、いとこは、あしたしぬ。

「――京都は、もう駄目ですか」

 ほのおにやかれてしぬ。みずにおとされてしぬ。

「じゃあ、どうすれば、どこにいけば、」

 どうやら一族は全滅だ。妖怪は予言を外さない。「しぬ、しぬ」と拍子をとって歌いながら急に身を翻し、ドアを開けて外に走り出る。両手を広げて水辺に踏み込み、ひこうきだ! ひこうきがくるっ! と大声を出した。

 見上げると、轟音を上げて軍用機が通り過ぎてゆく。

 つい二か月前まで有人の偵察機だけだったはずが、いつのまにか無人の戦闘機をしょっちゅう見る。ベージュのカーディガンを着た中年女が幼児のように両手を広げ、真っ直ぐに湖へ踏み込んでいく。妖怪を守らなければならない。つなぎとめておかなくてはいけない。文明がどれほど進んでも、夢と神秘が少しでもなければ僕たちは生きていかれない。

「行くな! 一緒に来い!」

 張り上げた声が強風に千切れとぶ。湖の向こうに広がる町ではそろそろ妹が死ぬはずだ。妖怪はくるりと振り向いた。僕は息を飲み、耳を澄まして自分の予言が告げられるときを待った。

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戦時下の妖怪 桐谷はる @kiriyaharu

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