小人たちの呪詛
神庭
禍俗断爛ーかぞくだんらんー
カップ麺
ある晩友人との飲みから帰ると、目尻に涙を浮かべた妻が俺を待ち構えていた。
「もううんざり。私ひとりの育児も……あなたのお世話も」
娘の幼稚園が夏休み期間だということもあり、限界だったのだろう。
五歳児がひとり入りそうなカバンを抱え、妻は新築二年のマイホームを出ていった。
***
「ほーら
郵便物とゴミで散らかったテーブルの上。
俺のウソを真に受けた娘は、つぶらな瞳を輝かせた。
俺の手には電気ケトル。
紙の蓋を剥がしたカップに、注意しながら熱湯を注いでいく。
娘は三分にセットされたままのキッチンタイマーを握り締め、硬い麺の塊に魔法が掛かるのを待っている。
『あなた。朱里にそんなもの食べさせないでって言ってるでしょ』
『ちょっとくらいいいだろ?』
『ちょっとって……私は毎日この子の栄養バランスに気を遣ってるの。あなたは知らないだろうけど』
たちのぼってくる化学調味料のにおいを吸い込みながら、俺はそんな妻とのやりとりを思い出す。
妻が居なくなってから、毎日がカップ麺三昧の生活だ。
朝は菓子パン、昼は娘が自分でカップ麺を作る。
さすがに火は使わせられないが、この電気ケトル――五年前、娘の粉ミルクを作る妻が少しでも楽になるようにと、俺が買ってきたものだ――があるので問題ない。
夜は俺が弁当を買って帰るか、こうしてふたりでカップ麺に魔法を掛ける。
もちろん、身体によくないのはわかっている。
でも俺は料理なんか一切できないし、忙しくて料理の本を読む時間もない。
そもそも、男のやることじゃないだろ?
……娘だって喜んでる。
今は口うるさく叱るヤツもいないわけだしな。
なにが栄養バランスだ。
俺なんて、独身時代は三食カップ麺だったぞ。
フン。
あんな奴いなくたって、なんとかなるんじゃないか。
***
一週間経ったあたりで、問題が発生した。
夜寝る時間になると、娘がぐずるようになったのだ。
俺が寝かしつけようとすると、
「ママじゃなきゃいや。ママはどこ?」
なんてぬかしやがる。
頭にきた俺はついつい娘に怒鳴ってしまった。
「俺がお前を育てるのにどれだけ苦労したと思ってるんだ!」
娘は驚いた顔で俺を見た。
大きな目には、涙がいっぱい溜まっていた。
しまった、と思った。
俺は娘に謝ろうとしたが、言葉が出なかった。
娘は震えながら、
「ごめんなさい。おこらないで」
そう言って、俺の腕にすがりついてきた。
泣き顔が、少しだけ妻に似ていた。
***
昨日は大人げないことをしてしまった。
今日は早く上がって、近所の玩具屋に寄った。
喜んでくれるだろうか。
「ほら、お湯を掛けると色が変わるんだ」
「わあ。まほうだねえ。あかりのごはんといっしょだねえ」
浴槽の中で人形と戯れる娘の笑顔を見て、俺はほっとした。
昨夜の一件で、娘の心に傷をつけてしまったのではないかと心配だった。
こんなに楽しそうに笑っているのだから、大丈夫だろう。
今朝もいってらっしゃいのチューをしてくれた。
見たか、
俺は心の中で、今頃どこにいるのかもわからぬ妻に得意げに言い放った。
***
またやってしまった。
娘が妻に会いたいといつもよりしつこくごねたので、頭にきてひっぱたいてしまったのだ。
もちろん手加減はしたが、それなりにいい音がした。
頬を腫らした娘は大声で泣き出した。
機嫌を取ろうとしたがまったく泣き止まなかったので、寝室のドアを閉めて置いてきた。
娘に泣かれるとどうすればいいのかわからない。
ひとりリビングに戻って、ふとテーブルの上のスタンドミラーを見る。
それは妻がいつも化粧に使っていたものだった。
そういえば、もう何年もの間アイツが化粧をした顔を見ていない。
俺の記憶の中にある妻の顔はいつも疲れてげっそりしていた。
妻の代わりに鏡に映った自分の顔を見て、俺はぎょっとする。
疲れていて、肌ツヤもなく、髭が伸び放題。
……と、そんなことはどうでもいい。
「鬼だ」
まるで鬼みたいな形相をしていた。
こんな顔をした父親に怒鳴られて頬を張られた娘は、どれだけ恐ろしかっただろう。
俺は猛省した。
また明日、娘にお土産を買って帰ろう。
娘が大好きな魔法のオモチャを。
***
そんな日々が続いた、ある晩のこと。
俺は頬に猛烈な熱さを感じて目を覚ました。
熱い、というか痛い。
ひりつく頬を押さえて目を開けると、枕元に娘が立っていた。
小さな手には毎度おなじみの、電気ケトル。
娘は俺と目が合うと、無言で電気ケトルを傾けた。
「ッ!」
悲鳴を上げようとしたが、開いた口の中に熱湯が入り込んで出来ない。
それどころか、変なところに入って
あつい。
あつい。
いたいいたいいたい。
苦しい!
空のケトルを床に置くと、娘は顔を押さえて
どうしてこんなひどいことを。
怒っているのか?
俺がまた大きな声を出して叱ったから?
泣きながら謝るお前を無視したから?
「ど……して」
俺が声に出せたのはそれだけだった。
涙でぼやける視界。
娘の表情は見えなかった。
***
メッセージアプリで連絡した友人に、救急車を呼んでもらった。
口内の粘膜をやられていて、ろくにしゃべることができなかったためだ。
最初に脳裏を過ぎったのは妻の顔だった。
しかし、出て行ったその日にブロックされてしまったのを思い出し、先日一緒に飲んだばかりの友人に連絡をした。
「へんなの。おかしいの」
駆け付けた救急車の中、娘はずっと同じ言葉を繰り返していた。
おかしいのはお前のオツムだ!
俺は火照る頭の中で、激しく怒鳴りつけた。
「なにがおかしいの?」
消防士の一人が娘にたずねた。
娘はひどく元気のない声で答えた。
「あかりね、パパにまほうをかけたの……」
「そっか。あかりちゃんの魔法で、パパがはやく良くなるといいね」
消防士は、気を利かせて優しい声でそう言った。
ちがうの、と娘は首を振った。
「まほうをかけたのに、パパはママにならないの」
<END>
小人たちの呪詛 神庭 @kakuIvuki
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