みんなの空は青いから

紙文

みんなの空は青いから

 結局のところ、アートやら美術やらにはまるで面白さというものを見出せなかったが、それでも修司は教室に通うことを決めた。

 その個人経営の絵画教室は雑居ビルの2階にあった。修司よりもひとまわりは年上の女性が先生をしていた。一目惚れだった。修司が「入学します」と真っ先に手を上げたとき、他の同級生らは心底驚いていたはずだ。というのも、その日の修司は同級生らに誘われて、あくまでも社交の一環として見学に加わっていたに過ぎなかったのだから。

 先生はがさついた声の気怠そうな喋り方をするひとで、ものぐさの結果であろう長い髪の隙間から曇天ばかりを映したような瞳で修司を見た。

「好きな絵描きはいる?」

 いません、とは答えたくなかった。少しでもアートやら美術やらが似合う人間だと思われたかった。けれど、これまでの人生においてそういった事柄にこれっぽっちの興味も抱いたことのない修司にはどれだけ考えあぐねても答えようのない質問だった。だから取り繕うしかない。

「敢えて挙げるなら、ハルキ、とかですかね……」

 修司はハルキの作品が好きなわけではなかった。世界的に有名なハルキくらいしか絵描きの名前を知らなかったのだ。

「へえ、やっぱりハルキさん人気なんだね」

 と先生は独り言のように呟いた。



「今日は台の上のリンゴを描いてもらいます」

 初日。紙と鉛筆を渡された修司はすぐに手を動かした。描くべきものはわかっていた。生徒は修司の他にたったの4人。先生の視線が自分の筆先に注がれるであろう時間の長さを修司は意識した。

「迷いがないね」と先生が感想を口にするのを聞いた気がする。修司は集中した。正解はすでに頭のなかにある。あとはそれを紙の上になぞるだけ。

 相手から好意的に見られるよう努めることは修司にとって日常だった。それができなければソーシャルではやっていけない。息をするのと同じくらい当たり前のこと。だから先生に好かれるのだってきっと難しくない。

 リンゴの絵に色を付けはじめた頃、先生が修司の背後で立ち止まる。絵を覗き込み、低い声で言った。

「それはいけない」

 修司は手を止める。

「……どういうことですか?」

「君の絵はわたしの作風を表層的かつ意図的に引用している」

 事実だった。

 相手から好意的な印象を引き出すための基本的なメソッド。自分はあなたと同じものが見えていて、あなたと同じように考えていますよと、そのことを最も婉曲なかたちで伝えさえすれば共感と同調が得られ、将来的な好意へと結びつく。はずだった。

 先生の反応は違ったのだ。

「そういえば君はさっき部屋に挨拶に来ていたね。そのときわたしの絵を見たのかな。修司くん、君は自分の絵にわたしの感性を忍ばせることでわたしから褒められようとしたのかもしれないが、残念ながら結果はその逆だ。君は創作や表現の何たるかをまるで理解していない。此処は絵画教室だから君に技術を教えることはできる。だが、思想を変えさせることはできない。月謝や入学金は返そう。君はもう来なくていい」

 通りから雑居ビルの2階を振り返ったとき、修司は無意識に靴でアスファルトを蹴っていた。指先はソーシャルを求めた。多くの声に慰めてもらうことを考えていた。それだけの酷い扱いを自分は受けたのだと、そう信じて疑わなかった。

 先生のことが理解できない。理解できない相手と良好な関係を築くのは不可能だ。あとはもう恨みを募らせるしかない。あるいは相手を見下すことで内的な自己防衛を試みてもいい。すべての感情をなかったことにするのもありだろう。思考が蛇のようにとぐろを巻く。修司は寝床のなかでさえその日の出来事を反芻し続けた。そして、夜が明けてもなお自分はその記憶を反芻し続けていられるのだと気付いた。

 一方的な気持ちでも構わない。

 理屈ではないのだ。一目惚れなのだから。

 翌日、修司がまるで何事もなかったかのように教室に顔を出しても、先生は落ち着いた様子で部屋の隅に腰掛けているだけだった。教室を静かに眺める。台の上には大小様々な果物が並んでいて、前日のリンゴもそのなかに混ざっていた。修司は椅子に座り、鞄を開く。持参のスケッチブックと絵筆を取り出したところで先生が席から立ち上がった。修司の肩に先生の手が触れる。

「いまの君の顔は嫌いじゃない」

 そのときの先生が笑みを浮かべているであろうことを修司はリンゴから目を離さずとも理解できていた。ソーシャルにはない感覚だった。



 太陽がアスファルトを焼いていた。台風が過ぎ去ったばかりだった。

 階段を上って絵画教室に入ろうとしたら、いつもなら開け放たれている玄関のドアがめずらしく閉まっていた。初めてのことだった。鞄を持つ手を変える。ぬるいドアノブを握っても回らない。鍵が掛けられている。

 修司は知らない街に迷い込んだような気分を味わいながらも、インターホンを探してとりあえず押した。鳴ったあともしばらく祈っていた。すると内側から施錠を解く音がしてドアが開いた。先生だった。

「あれ、修司くん?」

「こんにちは、……あの今日って」

「カレンダーに書いてあると思うけど休みだよ」

 修司は思わず息を吐いた。額から汗がどっと吹き出す。それを見て先生は楽しそうに笑った。

「折角だから中で休んでいくといい」

 先生の吐息からはお酒の匂いがした。修司は靴を脱いだ。

 教室の間取りが変わったわけでもないのにまるで初めて訪れる場所みたいだと思った。先生の様子がいつもと違っているからだろうか。デニムのパンツに上は着古した白いシャツを羽織っただけの格好で、葡萄酒の大きな瓶を指と指でぶら下げている。

「先生、お酒飲むんですね」

「描くときは少しね」

 部屋の真ん中にカンバスが立て掛けられていた。雲ひとつない空を描いたもので、先生の作品であることは修司の目にも明らかだった。色遣いが独特なのだ。そこに塗られている色が赤だとしても、ほんとうは黒や金色であるかのように感じられてしまう。

「展覧会とかに出すんですか?」

 修司が訊くと、先生はまた楽しそうに笑って、それから首を横に振った。

「わたしの絵を飾ってくれる物好きはいないよ」

「それじゃあ、コンクールとかですか?」

「何かのための絵じゃないんだ」

 先生はカンバスをじっと見据えて言った。

「なあ、修司くん。君は何のために絵を描く?」

 教室に通う理由なら答えるのは簡単だった。そこに先生がいるから、だ。

 けれど、絵を描く理由となると少し事情が複雑になる。

「俺、最近ソーシャルのほうで自分の描いた絵を公開してるんですけど、俺の絵を褒めてくれるひとが何人かいるんです。もしかしたら、そのひと達のために描いてるのかもしれません。あるいは、ただ褒めてもらいたいだけかも」

「わたしも君くらいの頃はそんな感じだったよ」

「先生はどうなんですか?」

「どうって?」

「何のために絵を描いているのか、ですよ」

 先生は肩をすくめた。その仕草が修司にはとても寂しく見えた。

「むかしはわたしだって野心めいていたんだ。でも、もうこんな年齢だからね。いまさら何者かになれるだなんて思っちゃいない。成功を夢見て挫折して、いろいろな経験をしているうちにね、絵が手段とは別のものになっていく。次第に絵そのものを神様だと思うようになる」

「……神様、ですか」

「絵にはそれを描いたひとのすべてが滲み出る。思想や経験、人生のあらゆるものごとがね。だからわたしの絵にはわたしのすべてが込められている。挫折や後悔、恨むしかないような過去の出来事、それら全部がわたしの描く絵に必要な材料だったのだとしたら。そう考えてようやくわたしは、自分の人生を大事に思えるような気がするんだ。わたしはね、宇宙出産世代なんだよ」

 先生は目を閉じる。

「大地を離れ、あらゆる歴史的呪縛から解き放たれたユニバーサルな個人として、自由の人生を歩めますように――とかそんなスローガンだったか。だからわたしの出自は地球ではなく宇宙ということになる。幼少期を過ごしたのは月面基地だ。希望者が殺到して選考に賄賂が横行するくらいには随分と人気だったらしい。そのときはまだ誰も宇宙出産の弊害に気付いてなかったのさ」

 先生はカンバスの赤い部分を指さして言った。

「修司くんにとって赤はどんなイメージかな?」

「ええっと、炎っていうか、熱のイメージ。あと女性って感じも」

「普通はそう感じるみたいだね。でもわたしが感じるのは新しさ、それから緻密さ、老獪さ。ようするにわたしの場合、色に対する感性が一般的なそれとは乖離しているんだね」

「先生、俺それ知ってます。色彩感異常ですよね。去年のバズです」

 先生が声に出して笑った。

「君らの世代と話しているとまるでソーシャルから派遣された端末と会話させられているような気分になるよ」

「治療薬も出来てます。というか、それで去年バズったんですけど」

「地球由来のクオリアを大量に摂取するんだろ。でもね、一介の美術教師にはあまりに高額なのさ。君らの世代とは勝手が違うんだ。ソーシャルで数千万の小遣い稼ぎを繰り返している君らの感覚はわたしには想像もつかない」

 違います、と修司は答えたかったが、それを先生の手が遮った。

「とにかくだ。そんな色彩感覚の人間がだよ、共感と同調が正義のこの時代に画家として成功しようだなんてことはそもそも不可能だったわけだ。昔話はおしまい。さあ、帰った帰った。今日の絵画教室はお休みだよ」

 修司の描いた空の絵がバズったのはその半年後のことだ。

 インフルエンサーとしてのインフローがアウトフローを圧倒し、秒速で差額が蓄積されていく。もう経済的な不自由はない。俗に言うアガリというやつだった。



 修司はインターホンを押した。ドアは閉められたままだ。返事はない。仕方なく「置いておきますからね」とだけ声を掛けて、クオリアの詰まった瓶を足元に残し、修司は絵画教室をあとにした。空のほんとうの色は誰も知らない。

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