第四章 怨霊の、正体見たり《九》

 昼と夜のあわい、薄暮は逢魔時ともいい、不思議なものに出会いやすい。そういうものは、人の心の隙に入り込む。

 或いは、心に隙ができやすい刻、なのかもしれない。陽の光も月の灯もない間は、見えるはずのものが見えにくくなる。

(儂が飲まれて、どうする。いや、邪は、誰の心にも、あるものだ。制する心こそが、肝要だ)

 皓月堂の奥の庭に二人が立った時には、薄闇の空に鋭い三日月が、浮かんでいた。

「長七に、助けられましたね」

 振り返った皓月、いや、木村卯之助は、その手に真剣を携えていた。

「出雲守様に真実を打ち明けられた程度で心を乱していては、心剣など扱えますまい」

「お主は総て、知っておったのか」

 卯之助は答えなかった。代わりに、手にした刀を抜いた。

「心剣を開くには、実践あるのみ。どちらかが死ぬ顛末を招いても、やむを得ませぬ。善次郎様が心剣を開かねば、どのみち怨霊は討てませぬ」

 卯之助が青眼に構える。

「俺を殺す気で、刀を抜きなさい。覚悟は、よろしいか」

全身に澱みなく流れる静かな殺気に、圧倒される。

 善次郎が師範代であった卯之助に剣を習っていたのは、稽古場に通い始めたばかりの童の時分の、僅かな時だ。それからすぐ、卯之助は、稽古場から姿を消した。

(あれから十年以上は経つに、全く衰えておらぬ)

 卯之助から放たれる殺気が、肌に刺さる。全身が総毛立った。

(木村卯之助の魄力。本気の、眼だ)

 卯之助は、善次郎を斬る気で、刀を構えている。

 息を飲んで、善次郎も刀を抜いた。切っ先が、弱い月明かりを受けて鈍く光る。

 互いに青眼に構えた二人が、向かい合う。

 卯之助も善次郎も、微動だにしない。

 張り詰めた庭の、風が止まる。

(斬り込む隙がない)

 静かに立つ卯之助の、どこに斬り込んでも、止められる。善次郎は動けなかった。

 たらり、と首筋に汗が流れた。

 柄を握る手が震え、切っ先が揺れた。刹那、卯之助が動いた。

 体の大きさを感じさせない速さで卯之助が、善次郎の右に回り込んだ。飛び退け、薙ぎ払う刀を、寸前で避ける。

 着地した左足を軸に地面を蹴り、一足で真正面に飛び込む。

 上段に構えた卯之助の真ん前で、膝を深く曲げ、体を下げる。読んでいたとばかりに、卯之助の刀が振り下ろされた。左に避ける善次郎を追って、刀が横薙ぎに軌道を変えた。

「しまった……!」

 体が傾いたまま、咄嗟に後ろに飛び退いた。が、卯之助の刀が速かった。切っ先が善次郎の頬を掠める。

 寸で逃げ遂せたが、頬には、だらりと血が流れた。乱れた息を整えつつ、構える。

 善次郎を待たず、卯之助が飛び込んだ。正面に迫る刀を避ける。善次郎は、大きく左に回り、横薙ぎを放つ。

 卯之助が、大仰に反対側に飛び退いた。

(なんだ、今の動きは)

 些かの違和を覚えながら、善次郎は構え直す。卯之助は体を傾けると、胸の前で刀を平に構えた。

(何かが、違う。形を変えたか。いや、違う)

 善次郎はわざと大回りに、卯之助の右に回り込んだ。卯之助が体ごと、善次郎の動きを追う。

(やはり、ここが穴だ)

 卯之助の右から後方へ回り込む。振り向きかけた右胴に詰める。間髪入れずに横に薙いだ。

 逃げそびれた卯之助の、動きが止まる。

 善次郎の刀は、卯之助の右胴に吸い付いて、ぴたりと、止まっていた。

「わざと刀を止めましたか。御見事」

 刀が、かたかたと揺れる。柄を握る手と腕に力が入り過ぎて、せわしなく震える。

 薙ぎ払うつもりで放った刀を寸で止めたせいで、腕が痺れていた。

「お主を斬って、何の益がある。斯様な始末で、心剣が開けるものか。煽りが、下手だったな、皓月」

 口端に笑みが浮かんだ。まるで皓月の癖を真似したような顔になったと、自分でも思った。

ゆっくりと刀を引く。卯之助の体から力が抜け、構えた腕を、静かに下ろした。

「ご自身の刀を、御覧なさい」

 善次郎の眼が握った刀剣に向く。刀身が白い光を淡く放っていた。

(刀が手に吸い付くようだ。まるで、腕の延長のように感じる)

 長七の鏝裁きとは違うが、似たものを感じる。何より、この感じには、覚えがあった。

(林の中で狛犬の妖を斬った、あの時。刹那であったが、今と同じ感があった)

 気を集中し、刀に力を籠める。淡い光は白さを増して輝いた。確かな手応えが、善次郎の中に湧き上がった。

 善次郎の姿を見ていた卯之助が、ふっと笑みを零した。

「理屈以前に、善次郎様は、既に心剣を開いていらしたのです。足りなかったのは、覚悟。それを引き出すために、俺も久方振りに本気で刀を取りました」

 卯之助が刀を納める。善次郎は、どかどかと大股で卯之助に歩み寄った。胸があたるほどに間合いを詰め、顔を見詰める。

「今のを、本気と申すか。ならば、答えろ。その右目は、いつから見えぬ。何故、今まで黙っていた」

 詰め寄り、睨み据える。びくりと肩を揺らした皓月が、諦めた顔で息を吐いた。

「全く見えぬわけでは、ございません。光は感じますが、像がぼやけて二重に見える。ですが、手抜きなど一切、しておりません。本気でございました」

 卯之助の右目を見つめる。よく見れば、黒目が大きく開いていた。

言葉もなく、善次郎は卯之助から、身を離した。ゆっくりと、刀を納める。

 奥庭に、風が戻った。

 すっかり殺気を消した二人は、無言のまま、縁側に腰を下ろした。

 気が付けば辺りは薄暗く、細い三日月が心許ない光で、庭を照らしている。

 卯之助は、夜空に掠れる月を見上げた。

「もう、十年以上前の話です。稽古場で宇八郎と仕合った時、奴の木刀の先が俺の右目を突いた。それから、この右目は、まともに見えません」

 あまりに穏やかに話す卯之助に、善次郎は息巻いた。

「何故、剣を捨てた。隻眼の剣士など、これまでに数多おったではないか」

「同じように、宇八郎にも叱咤されました。剣の道に残る術は、あったのでしょう。あの時、俺が失ったのは右目じゃぁ、なかった。剣の道を歩み続ける気概です。田安家指南役、西脇新陰流の看板も、木村佐左衛門の名も、俺には重すぎました」

 善治郎は言葉を失い、口を閉じた。

 比類なき剣士と謳われ、木村佐左衛門の名を継ぐと、誰もが疑わなかった。本人すら、そう思っていたはずだ。当時の卯之助の胸中を思うと、何も言えなかった。

 卯之助が、右目に手を当てる。

「剣を交えれば、起こりうる事故だ。俺の胸の内には、あの時、確かに色んな思いがありました。だが、宇八郎を恨んでなど、いなかった。むしろ宇八郎が気に病んでおりましてね。だから、潺ができたのですよ」

 その顔に悲愴はなく、むしろ懐かしんでいる表情だ。

「この潺が、宇八郎の作った間諜であると、善次郎様はもう、お気づきでしょうな」

 善次郎は、無言で頷く。

「生きる道を失った俺のために、宇八郎は潺を作った。ですが、恐らく、それだけじゃぁない。今にして思えば、善次郎様のためだと思います」

「どういう、ことだ」

 宇八郎が生きていれば、善次郎が明楽家の四代目を継ぎは、しなかった。善次郎を慮る必用など、なかったはずだ。

「善次郎様と違い、宇八郎は、心剣を開けませんでした。獅子に襲われた時、心剣を使えていれば、死にはしなかったかも知れません」

 善次郎は息を飲んだ。あの優秀な兄が、心剣を開けなかったなど、信じられない。

「その代わりと言っていいものか、わかりませぬが。宇八郎には特異な力が備わっておりましてね。少し先の未来を察知する術を、持っていたのです」

 暗い空を見上げて話していた卯之助が、善次郎を振り向いた。

「自分が道半ばで死ぬ顛末に気付いたからこそ、善次郎様のために潺を残した。あの歳で妻を娶らず、子を儲けなかったのも、そのためやもしれません」

「儂に、家督を譲るために、か」

 卯之助が、頷く。

「総ては、明楽家を守るために。宇八郎が選んだ道です」

 善次郎は黙って、卯之助を見つめる。

「それに宇八郎は、潺を間諜として滅多に使わなかった。仕事がない時分など、皓月堂に入り浸っては俺たちと飲み明かし、話に耽った。その時、決まって出る言葉が、善次郎を頼む、でした」

 その姿は、容易に頭に浮かんだ。

 兄がどんな気持ちで、それを言ったのか。卯之助の顔が、宇八郎と重なる。どこか悲しげに笑む顔を見ていられずに、善次郎は目を逸らした。

「遠国御用に出た、あの日も。わざわざ俺に念を押しに来た。くれぐれも善次郎の力になってくれ、とね。あれが、宇八郎と最期に交わした、語らいです」

「だからお主は、儂の申し入れを、即答で受け入れたのか」

「そうかも知れませんが。少し、違います」

 卯之助の目が、細まる。

「意思を継ぐなんて、大仰なもんでもねぇ。只、善次郎様の、明楽家の行く末を見守りたかった。俺と宇八郎は、まるで兄弟みてぇに毎日一緒に過ごしていましたからね。宇八郎亡き後、善次郎様は、俺の生きる意味でした。だから、もっと頼りにしてほしくってね」

 その顔は、木村卯之助ではなく、平生の皓月に戻っていた。

「以前より、充分、頼りにしておる。これからも、それは変わらぬ。お主は、儂が自ら力添えを頼んだ、皓月だ」

 じっと、皓月を見詰める。

 見開いた目が、穏やかに笑みを灯す。皓月が、いつものように、口端を上げて、笑った。

「俺が諭す前ぇに、長七がしっかり喝を入れてくれやしたからね。俺なんかの剣でも、多少の助けに、なりやしたでしょう」

 いつもの笑みが、どこか弱々しい。

「いや、大いに意味があった。長七の喝も有難かったが。皓月と剣を交えて、ようやく感得が湧いた。右目に障礙があっても、お主の剣は一流だ。また手合わせを願いたい。次は昼間に、な」

 敢えて薄暮に真剣勝負を促したのは、皓月の右目が、より見えにくい刻を狙ったためだろう。そうでもなければ、皓月の剣は今でも善次郎を遥かに凌ぐ。刀を交えて、改めて身に染みた。

 皓月が、自嘲気味に笑む。

「今となっちゃぁ、剣でお役に立てるか、わかりやせん。今も、善次郎様に斬られて死んでも構わねぇと、本気で思って挑みやしたから」

 きっ、と、皓月を強く睨む。

「それくらい、わかっておったわ。だから儂は、絶待に斬らぬと、決めておった」

 皓月の笑みが、自嘲を消した。微笑みが、和らぐ。

「善次郎様は昔から、お優しい。いつか命取りになるのではと、ずっと憂慮しておりやした。ですが、今は違う。善次郎様の優しさは、強さの根源だ。懸念はもう、ありやせん」

 皓月が、また薄い月を見上げる。

「嘉太夫様が封をした力を、善次郎様は自力で抉じ開けた。宇八郎が体得できなかった心剣も、身に付けなすった。明楽家一の秀出した力を操る術を得たのですから」

「何? 父上が、儂の力に封をしたのか?」

 耳を疑う善次郎に、皓月が頷く。

「源壽院様の逝去後、怨霊になるのを見越して、嘉太夫様は策を講じられた。宇八郎の二の舞を避けるために。ところが、善次郎様の力を開く前に、嘉太夫様は亡くなられた。これが仇となり、善次郎様は今まで苦労されたんですよ」

「そうで、あったか」

 ようやく納得できた。だから今まで、力を持て余すばかりで、操る術が見付からなかったのだ。父の大事な教えを忘れていたのも、そのためだ。

「しかし、切掛がわからぬな。儂が父の教えを思い出したのも、力の扱いに馴染んだのも、此度の御役目を拝してからだ」

 顎に手をあて思案する善次郎に、皓月が目を落とす。

「一つ、思い当るとすれば、宇八郎の死霊でしょう」

 善次郎が顔を上げる。皓月が目を合わせた。

「嘉太夫様が、どういった仕法で善次郎様の力を封じたかまでは、俺には、わかりやせん。ですが、善次郎様が力を操れるようになったのは、宇八郎の死霊の力が弱まってからです。関りがないとも、思えやせん」

 つまり、善次郎が嘉太夫の封を解ききれば、宇八郎の死霊が消えるかもしれない。或いは宇八郎の死霊が消えれば、善次郎の力が完全に開花する見込みがある、という見込みだ。

 善次郎と同じ答えが、皓月の頭にも、ある。

 互いに、わかっているからこそ、何も言えなくなった。

「源壽院の怨霊が消えれば、兄上は現での役目を終える。皓月の言う通り、覚悟は必用だ。何より、死霊として彷徨い苦しむくらいなら、儂が黄泉へ送るが道理であろうな」

 善次郎の声に、迷いはなかった。

「その時は、潺が必ずお供いたしやす。宇八郎の御霊を安寧に送りてぇのは、円空も環も、俺も同じですので」

 皓月の声は、凛としていた。以前までの躊躇いも、消えていた。

 互いの覚悟を、肌で感じ取る。

 薄明の三日月に代わり空を照らす数多の星を、二人は黙ったまま、眺めていた。

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