第四章 怨霊の、正体見たり《十》

 皆が起き出す前に、善次郎は静かに皓月堂を出た。

 白み始めた空には、まだ夜の紺青が残っている。淡い月牙が、薄らと顔を出していた。

 福徳稲荷に向かい歩きながら、善次郎は頭の中を整理した。

(三社権現で源壽院を斬れなかったのは、儂の心剣が未熟だったためだ。だが)

 荒魂の解合った獅子の核となっていた、福徳稲荷の獅子の御霊。あれを斬れなかった訳が、善次郎の中で、ずっと引っ掛かっていた。

(もう一度、縫殿助殿に会って、確かめねば)

 ふと目を上げて、異変に気が付いた。

「ここは、どこだ」

 二日前と同じ道を歩いていたつもりが、いつの間にか、細い路地に入っていた。連なる町家を眺めるうちに、思い付いた。

「そうか、うき世小路しょうじか」

 細い路地の両側に料理屋が立ち並ぶ。短い通りを抜け、右に折れれば、福徳稲荷は目前だが。皓月堂のある通旅籠町から歩くと、かえって遠回りになる。

(考えに耽って間違った、のでは、なさそうだ)

 足下を漂う朝靄が、善次郎を誘うが如く、福徳稲荷社に向かって静かに流れる。導かれるままに小路を抜ける。淡靄に包まれた黒木鳥居が、厳かに立っていた。

鳥居の前に立ち、礼をする。

 境内に足を踏み入れた刹那、総ての音が消えた。

(初めに参った時と、同じだ。生き物の気が、全くない)

 現から切り離された隙間に入り込んだような不気味さは、変わっていない。

「うき世小路は、福徳稲荷の参道でございます。本来なら、あの小路を通るのが、正しい道行き、なのですよ」

 振り返ると、微笑を湛えた縫殿助が立っていた。

(気這いを感じなんだ。縫殿助殿も死霊故、違和はないが)

 善次郎は振り返り、縫殿助に向き合った。

「そうであったか。初めに来た時は、違う道を通ってきた。失礼した」

 小さく頭を下げる。縫殿助が、笑みを零した。

「とんでもござりませぬ。むしろ、あの時は、驚きました。小路の導きなく、黒木鳥居を潜れるお人は、そう多くありませぬ。ですので、私も警戒しておりました」

「だから、あのような言廻しをしたのか。獅子を壊したのが、儂の兄であると気付いていながら」

 縫殿助が、目を見開いた。

 善次郎は、その目を、じっと睨み据える。

 開きかけた縫殿助の口元が緩み、笑みを戻した。

「兄上様であるとは、気が付きませんでした。ですが、同じ気を纏ったお武家様であるとは、思っておりました」

 善次郎は一歩、縫殿助に歩み寄った。

「縫殿助殿の知る事実を、聞かせてほしい。ごまかすのでも伏せるのでもなく、其方の知る事実の総てを、聞かせてくれまいか」

 あの時の縫殿助の言葉に嘘がなかったのは、善次郎も承知している。

「頼む、この通りだ」

 善次郎は、深々と頭を下げた。

 噛み殺すような小さな笑い声が、頭の上から降ってきた。

「貴方様は本当に、素直なお人なのですね。神官でありながら、自分がどれだけ卑しく浅はかであったか、身に沁みる思いです」 

 謙譲な言葉とは裏腹な笑みに、嘲りが混じって聞こえる。

 善次郎は、ゆっくりと顔を上げた。

「私は、ここから離れられぬ死霊です。知る事実には限りが、ございます。善次郎様の願望に添えるか、わかりませぬ」

 微笑を崩さない縫殿助が、善次郎を眺めていた。

「それで、構わぬ。忝い」

 縫殿助の目の先が、壊された獅子に向いた。善次郎も獅子に眼を向ける。以前と変わらず、開いた阿形の口が裂け、顔が大きく罅割れている。

「獅子の御霊が奪われたのは……。怨霊がまだ、生霊だった頃で、ございました」

 善次郎は、息を飲んだ。

「源壽院が生霊になっていた噂は、事実であったか……」

「あの怨霊の名など、存じ上げませぬが。生霊の時分に、夜な夜な彷徨う姿は、見掛けておりました。使える従者を、探しておったのでしょう。生霊は、この社の獅子の御霊を攫って行きました」

「何故、抗わなんだ。其方であれば、護る術もあったであろう」

 縫殿助は眉を下げ、首を振った。

「あの怨霊の抱える恨みは、あまりに深い。生霊の時ですら、禍々しい怨念が、魂に絡みついておりました。怨霊や死霊を現に留まらせる源は、念の強さと深さです。あの恨みの念は、底知れませぬ」

 怖気を隠さない縫殿助の声に、善次郎は宇八郎を思った。

(兄上もまた、強い想いを持って現に残られた。だから、六年もの長きに亘り、源壽院の深い恨みを、抑え込めたのだ)

 それが自分のためであると、今なら、わかる。歯痒く苦い思いが、善次郎の胸に蠢いた。

「兄上様の死霊が、この獅子像を壊されたのは、生霊が怨霊と化し、しばらく過ぎた後で、ございます」

「近歳か。詳しくは、いつ頃だ。何故、兄上は、この獅子像を壊した」

 縫殿助は天を見上げ、考え込んだ。

「いつの頃であったかは、判然としませぬ。近歳といえば、そうなりましょう。私も、随分と長く現に留まっております故、生霊が獅子を攫った頃ですら、近歳に感じますもので。申し訳ございませぬ」

 善次郎は、もどかしく唇を噛んだ。善次郎を眺めて、縫殿助が続ける。

「兄上様が、獅子像を壊した訳は、多少わかります。像を壊せば、獅子の御霊が力を失くすと思われたのでしょう。ところが獅子は、戻るべき依代を失くし、荒魂となった。悲しみ狂う獅子を巧みに操り、怨霊は更に力を増しました」

 悲しげに俯く縫殿助の顔を、じっと見詰める。

「この獅子像を、元の姿に戻せれば、御霊は戻ってくるか?」

 縫殿助が、顔を上げた。

「依代が元に戻れば、御霊は戻りましょう。しかし、怨霊に囚われ荒魂となった今では、どうなるか、わかりませぬ」

「荒魂と化しては、おらなんだ。先日、三社権現で怨霊と獅子と、対峙した。他の社の獅子は荒魂となり解合っておったが。あの獅子だけは、残っておった。福徳稲荷の獅子が、解合った荒魂の核であった。核は、獅子の御霊、そのものだ」

 刀ごと引き込まれそうになった時に感じた気這いを思い返す。

 荒魂とは、違う。只の御霊でも、ない。乗邑のような怨霊とも、違う。

(あの獅子の御霊から感じた気這いは、縫殿助殿の死霊と、あまりに近い)

 再び縫殿助に会い、気這いを感じ取り、善次郎は自信を深めた。

(あの時、感じた気這いは、気のせいでも間違いでも、なかった)

 縫殿助が、忙然と善次郎を眺めた。

「なんと……。獅子の御霊は、まだ無事でありましたか……」

 驚愕した顔で、縫殿助が声を震わせる。

 縫殿助から目を逸らし、俯く。善次郎は意を決し、顔を上げた。

「知り合いに、鏝絵職人がおる。その職人の鏝絵は、神までもが好むと評判だ。儂も、この眼で鑑賞し、見事だと感じた。あの男なら、この獅子像を修復できるだろう。獅子の御霊を戻せるやもしれぬ」

 目を見開いた縫殿助だったが、またすぐに俯いた。

「しかし獅子の御霊は、あの怨霊の手の中。救い出せねば、戻っては来られますまい」

 善次郎は拳を握り、腹に力を籠めた。

「儂が怨霊を討ち、獅子の御霊を救い出す。そのために、縫殿助殿の力を、貸してくれ」

 縫殿助が、ゆっくりと顔を上げた。驚愕の瞳に、鈍い光が、見え隠れする。

「怨霊は、いつどこに現れるか知れぬ。故に、儂が囮となり誘き出す。首尾よく誘き出す法と都合の良い場所を探しておる。知恵を、授けてほしい」

 縫殿助が善次郎から顔を逸らし、黙した。

 固唾を飲んで、善次郎は返事を待つ。

 しばらく黙っていた縫殿助が、小さく息を吐いた。

「……深川八幡か、亀戸天神あたりが、剴切でしょう」

 ぽつり、と縫殿助が、呟いた。

「善次郎様の御身を考えれば、三社権現のような神力の強い社が望ましいでしょうが。一度は痛癢を負った怨霊が、同じ過ちを繰り返すとは、思えませぬ。であれば、歴史は浅くとも、神力の強い社。深川八幡や亀戸天神なら、獅子の御霊を奪いに出てくるやも、しれませぬ」

 真剣な表情で思案する縫殿助に、善次郎が頷いた。

「なるほど、そうか。では、場所は、いずれかの社としよう。して、誘き出す法に、良い案はあるか?」

 硬く目を瞑り、縫殿助がまた、押し黙る。

 善次郎は、縫殿助の言葉を、じっと待った。

 縫殿助の口元が、躊躇いながら、薄く開く。

「……私が、獅子の御霊に語り掛けて、みましょう。応えるか、わかりませぬが。善次郎様の仰る通り、御霊が元のまま残っておるのなら、望みはあるやも、知れませぬ」

 表情を明るくして、善次郎は声を高めた。

「そうしてくれるか。有難い。では、明後日の……そうだな。人気のない時分が良い。日暮れより後と、伝えてくれ」

 縫殿助は沈痛な面持ちで、頷いた。

「私の声が届くか、わかりませぬが。でき得る限りの力を持って、御心願にお応え致しましょう」

「無理を頼んで、すまぬ。縫殿助殿でなければ、できぬ相談だ。恩に着る」

 善次郎が深々と頭を下げる。頭の上で、縫殿助が笑みを零したのが、わかった。

「して、どちらの社が良いと、考える?」

 頭を上げた善次郎は、声を低めた。ゆっくりと慎重に、問う。

「八幡社に比べれば、亀戸天神が、より良いかと存じます」

 善次郎は、目を細めた。悟られぬように、すぐに表情を変える。

「わかった。明後日、亀戸天神にて、待つ」

 縫殿助が、善次郎に微笑を向ける。

一つ、頭を下げて、善次郎が鳥居に向かい、踵を返す。ふと、立ちどまり、縫殿助を振り返った。

「総てが終わった、その時に、縫殿助殿を再度、訪ねよう。先ほど話した鏝絵職人と、共に来る」

 縫殿助は、嬉しそうに笑んだ。

「善次郎様のお戻りを、心待ちに、致しております。どうか現で、お会いできますよう。ご武運を、お祈り致します」

 手を合わせ、縫殿助が礼をする。

 善次郎は今度こそ、黒木鳥居に向かい、歩み出した。鳥居の前に立つ狛犬を、目の端が捉えた。

 狛犬は、初見と同じように、泣いていた。善次郎は思いを断ち切り、敢えて振り返らなかった。

 一歩を踏み出し、黒木鳥居を潜り出る。

 外から振り返ると、古い椚の鳥居は、朱塗りに戻っていた。覗き見た境内には、縫殿助も狛犬の姿も、なくなっていた。

 福徳稲荷神社の本殿を、じっと見詰め、深く礼をする。

 社に背を向け歩き出した善次郎は、うき世小路とは反対側の道に折れた。雲母橋を横目に、大通りへ向かう。

(縫殿助殿の話に、大方、嘘は、ないだろう。……しかし)

 獅子の御霊と縫殿助の死霊の気這いは、まるで同じと表して、過言でない。

 それに、縫殿助が自ら挙げた、二つの社。深川八幡ではなく、亀戸天満宮を勧めたのも、善次郎の中の疑念を膨らませた。

 深川八幡――正式には富岡八幡宮に祀られる八幡大神は、武家の守護神であり、源氏の氏神とされる。徳川宗家も代々、手厚く保護している。

(大給松平家宗家である源壽院なら、まず狙うまいな。縫殿助殿は、怨霊の名を知らぬと言うたが、本当だろうか)

 知らぬ振りをして、縫殿助の益になる事柄が、あるとも思えない。

 亀戸天満宮も富岡八幡宮も神力が強いが、今までに狙われた社に比べ、武蔵国においての歴史は浅い。縫殿助の提言は、確かに、理に叶っている。

 そうは思うが、胸に痞える漠然とした違和が、拭えない。善次郎の頭の片隅に、嫌な仮説が浮かぶ。

(あまり考えたくは、ないが。どちらにせよ、これで支度は整った)

「明後日、亀戸天神。源壽院の怨霊と獅子の荒魂は、必ず来る」

 縫殿助の真の思惑が、どこにあったとしても、これだけは違えない。そう信じたくて、あえて声に出した。

 善次郎は顔を上げ、皓月堂へと歩き出す。歩を一つ踏み出すたび、この先に待ち受ける試練に立ち向かう思いの強さが、増していった。

 気が付けば、空は明るく、夜の余韻は、いつの間にか朝陽に染め変えられていた。

 空に浮かんでいた月牙は、白い朝に、すっかり隠されていた。

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