第四章 怨霊の、正体見たり《八》

 忠光の乗る駕籠を見送り、善次郎は帰路に就いた。

 薄暮の空が、いつもより暗く澱んで見える。冴えた風が頬を掠めても、善次郎の気持ちは一向に晴れなかった。

 八朔に下命を受けた時の気鬱とは、まるで違う。逢魔時の風にあてられたのか、善次郎の気は逆立っていた。

(存命中から獅子を操り、死して尚、怨霊となって世を脅かす。なんと悪辣な輩よ。兄上の敵は、必ず討つ)

 急く気持ちを抑えきれず、善次郎は逸足で皓月堂に戻った。

 正式な下命は賜った。乗邑の怨霊を、自らの手で滅す。忠光との会談を終えた善次郎の頭の中には、それしかなかった。

 皓月堂の店先で、熱心に鏝絵に色を載せる長七の姿が目に入った。

「長七、皓月は、おるか」

 上がる息を整えもせず、声を掛ける。善次郎の顔を見た長七が、一瞬、目を剥いた。

「お鴇! 水を持ってきてくんな!」

 店の中に声を掛ける長七を、善次郎が退ける。

「要らぬ。それより、皓月は」

「善次郎様!」

 店の中に入ろうとする善次郎の腕を、長七が力一杯に引いた。苦々しい気持ちで長七を振り返る。

 長七の真っ直ぐな目が、善次郎をじっと見据えていた。

「善次郎様、今、ご自分が、どんな面ぁしていらっしゃるか、わかっておりやすか」

 徐々に息が整い、湧き立っていた自脈が平生に戻って行く。それでも、引き留める長七が、善次郎には鬱陶しかった。

「壁の鏝絵は、出来上がったらゆっくり鑑賞させてもらう。今は、別の大事がある故……」

「んなこたぁ、どうだっていいんだ!」

 声を荒げて、長七が善次郎を掴む腕に力を籠める。見据えていた目が善次郎を睨んだ。

「旦那の今の目は、俺らを襲った獅子と同じ眼だ。俺ぁ、善次郎様に、そんな目ぇ、してほしかねぇ。そんな眼で、俺の鏝絵を見てほしかねぇ!」

 指が食い込むほどに、長七が善次郎の腕を強く掴む。長七は、善次郎から目を逸らさない。

『邪とは、心に巣食う隙だ。知らぬ間に心を食い潰し、悪に染める。自分だけが正しいと思い込む。悪を正義に見せかけ信じ込ませる。それが、邪だ』

 唐突に、心剣の極意を解いた父の言葉が頭を過る。

『その邪を斬り裂くのが、心剣だ』

 長七の瞳の奥から、父の声が、聞こえた気がした。

 じわじわと、心が解ける。強張った肩から、力が抜けた。

(儂は、どんな目をしていた。儂は……)

 兄の死の顛末を知り、仇討の大義を得た。乗邑を悪と信じ込み、滅して然るべきと決めつけた。

(これでは儂が、邪に付け込まれておる。心剣など振るえるはずもない)

 放心する善次郎に、お鴇が静かに歩み寄る。

「はい、お水です」

 差し出されるままに、湯呑を受け取り、一気に水を飲み干した。体に流れ込む水が、善次郎の胸の内をも洗い流すようだった。

 空になった湯呑を、忙然と眺める。善次郎の手から、お鴇がそっと湯呑を引き取った。湯呑を眺めていた目が、お鴇に向く。

 お鴇が、静かに微笑んだ。

 善次郎は、長七を振り返った。

「長七、すまなかった。また其方に、助けられた」

 善次郎の眼を見た長七の表情が緩んだ。腕を掴む手も同時に緩む。

「偉そうに言って、すいやせん。けど、あんなのは善次郎様の本当の眼じゃぁ、ねぇ。まだ知り合ったばかりだが、善次郎様は、そんなお人じゃぁ、ねぇ。だから、気になって」

 するりと腕から滑り落ちた長七の手を、善次郎が拾い上げる。肉刺(まめ)のできた硬い手を、強く握った。

「出会えた事実に、感謝する」

 呆けた顔になったのは、長七だった。直ぐにいつもの顔に戻り、へへっと笑った。

「俺もおんなじでさぁ! 善次郎様とは、なんだか長ぇお付き合いになる気が、しておりやすよ!」

 互いに強く手を握り合った。

 不意に、店先に皓月の気を感じた。気這いを殺して、二人のやり取りを見ていたのだろう。

「壁の鏝絵は、どのくらいで出来上がりそうだ?」

「明日にゃぁ、全部、仕上がりやすぜ! 出来上がりを楽しみにしていてくだせぇ!」

「わかった。楽しみは取っておこう。今はまだ見ず、明日を心待ちにしている」

 長七の手を離し、善次郎は店の中に入った。

 善次郎を見詰めるお鴇の肩に、軽く触れる。

 控える皓月と目を合わせ、二人は店の奥の庭へと向かった。

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