第四章 怨霊の、正体見たり《三》
皓月堂に戻った善次郎は、店の表を見て、どきりとした。
戸の代わりに覆った菰が取り去られ、朱塗りの壁がなくなっている。剥き出しの土壁に、長七が熱心に漆喰を塗っていた。
「何事か、あったのか? まさか、怨霊がここに来たか?」
駆け寄った善次郎に長七が、びくりと肩を上げて振り返った。
「善次郎様? おけぇりなせぇませ。って、環さん、どうしたってぇんだ! 体も着物も丸焦げだぜ!」
善次郎の後ろで円空に背負われている環を見付け、血相を変える。
「ちぃっと雷に撃たれちまった。大した怪我じゃぁないさね」
円空の背中から、ひょいと飛び降り、環が壁の前に立つ。漆喰の塗られた壁を、じっと見つめて、にこりとした。
「へぇ、こいつぁ見事だ。波打つ文様が
うっとりと見惚れる環の腕を、長七が引っ張る。
「んなこたぁ、いいから! 早く中に入って怪我の手当てをしねぇと。おーい、お鴇! 布団を敷いてくんな!」
店先から声を張る。お鴇が返事をしながら、小さな足音を立てて出てきた。
「兄ちゃん、どうしたの? きゃぁ! 環さん、丸焦げよ! 早く手当しなくちゃ!」
環の姿を一目見て、お鴇が顔色を変える。
「慌てなくっても、大した怪我じゃぁねぇし、直ぐに治るよ」
「軽くみるのは禁物よ! 放っておいて跡でも残ったら、どうするの! 傷が膿んで病にでもなったら、大事よ!」
有無を言わせぬ勢いで、ぐいぐいと環の腕を引っ張る。
「跡も残りゃぁ、しねぇんだがねぇ。今はお鴇ちゃんに、甘えようかね」
環は大人しく店の中に連れて行かれた。
「ああいう時のお鴇は、頼もしいってぇのか。何とも力強いな」
呆気にとられる善次郎に、長七が顔を強張らせた。
「いってぇ何事がありましたんで? お二人は、大丈夫なんですかぃ?」
「大事ねぇ。浅草で酷い雷に遭っただけだ。それより、これはどうしたのだ?」
塗りかけの壁を指すと、長七が頭を掻いた。
「いやぁね、兄妹ですっかり世話んなっちまったし、礼の一つもしてぇと思いやして。戸は知り合いの大工が明日にも拵えてくれるってぇんで。俺ぁ、壁を塗り替えさしてもらうって話になったんでさ。皓月さんも、助かるって喜んでくれやしたんでね」
「そうであったか。この壁も随分と傷んでおったからな。かえって有難い。気を遣わせたな」
壊されたのではないと知り、ひっそりと安堵する。乗邑の魔手が皓月堂にまで及んでは、お鴇や長七を守りきれるか、わからない。
(それだけは是が非でも、避けねば)
善次郎の胸中を知らない長七が、ははっと照れ笑いする。
「とんでもねぇ。俺がやりたくて、やらしてもらっているんだ。気にしねぇでくだせぇよ。それより、壁の漆喰は今日にも塗り終わりやすぜ」
「それほどに、早くできるものなのか」
感心する善次郎に、長七が胸を張る。
「早くて綺麗が自慢でしてね。勿論、手抜きなんざ、しやせんよ」
二人の話を黙って聞いていた円空が、塗りたての壁に顔を寄せる。じっと見つめてから、顔を引き、全体を眺めた。
「これほどに美しく精巧な漣文様を、たったの二刻で、ここまで?」
壁は八割方を塗り終えている。善次郎たちが皓月堂を出た時分には、店先は元のままだった。円空の感心した問いに、長七は首を振った。
「一刻程度でさ。この壁は、さほど大きくもねぇし、そんなに時は掛かりやせんよ」
感嘆を隠さない円空の瞳が、再び壁に向いた。
善次郎も素直に感心した。只、漆喰を塗るだけなら、一刻ほどで仕上がるのは普通かもしれない。だが、漣の文様はとても細かく、一つ一つが形を変えて、全体の調和を取っている。
知識のない善次郎でも、環と円空が感心する気持ちが、わかった。
「この、文様のない所は、意味があるのか?」
壁の右上と左下に、平坦に塗られた部分がある。
「そこにゃぁ、鏝絵を入れようと考えているんでさ。絵柄は、皓月さんと話して決めてありやす。今日中に壁塗りを終わらせて、明日からは絵を入れやすよ。何ができるかは、見てのお楽しみってね」
長七が悪戯っ子のように笑う。無性に楽しい気持ちが、滲み出ている。
(本当に鏝絵が好きなのだな。どんな鏝絵が入るのか、鑑賞したい)
善次郎も、長七の鏝絵が楽しみになった。
「以前、皓月に長七の鏝絵の評判を聞いてな。その時から一度、じっくり見たいと思っていた。楽しみにしている」
腕捲りした長七が、ぐっと拳を握る。
「任せてくだせぇよ。きっと善次郎様も気に入る、とびきりを作りやすから! そうなりゃぁ俺ぁ、残りの壁を塗っちまいやすんで。日暮れまでにゃぁ、終わらせねぇと」
漆喰に手を伸ばした長七が、ふと、動きを止めた。
「そういや、皓月さんから言付けを預かっていたんだ。戻ったら、円空さんに作業場に来てほしいと伝えてくれってさ」
円空が店の中に眼を向ける。
「今、俺の道具の砥ぎをしてくれているんでさ。明日の朝まで出てこねぇって。それから籠りっきりだ」
円空は黙って頷き、店の中に消えて行った。
(半妖と化した道具の瘴気を砥ぎ落とすなら、円空の力を借りるが賢明か。一晩では終わらぬやもしれぬな)
円空の背中を見送る善次郎の隣で、長七がせっせと、壁塗りの続きを始める。善次郎は黙って、その姿を眺めていた。
木板に漆喰を載せ、鏝先で掬い取る。通常より細長く、先が上に少し曲がった鏝で、器用に模様を施していく。
長七の手の動きに、善次郎は強直した。
模様を描きながらの塗りの速さが、尋常ではない。だがそれ以上に、長七の手先から目が離せなかった。
長七の身から溢れ出る気が、手先に集中する。更にその気は鏝先まで流れ、塗った壁に吸い込まれていく。
(いや、吸い込まれているのではない。送り込んでおるのだ)
長七が自らの意思で、気を注ぎ込んでいる。善次郎には、そう見えた。長七の纏う気は、とても静かで、穏やかだ。しかし、壁を見る眼は鋭気に満ちている。
(真反対の気を同時に、しかも、これほど巧みに操る術を持つとは)
あまりに見事な鏝捌きを、善次郎は固唾を飲んで見守る。見詰めているうちに、手に持つ鏝までが、長七の体の一部に見えてきた。
(この感じを、儂は知っておる)
林の中で狛犬の妖を斬った、あの時。今日、三社権現で獅子の体を斬った時も。刀が体の一部のように感じた。
(獅子の体は斬り裂けた。しかし、怨霊の身に儂の刃は通らなんだ)
今の善次郎の力では、乗邑を斬れない。それを感じているからこそ乗邑は、善次郎の剣を「浅い」と、くさしたのだろう。
それに、獅子の腹の中にあった青い灯火。あれは福徳稲荷の獅子の御霊だ。恐らくは、あの御霊が
(あの二つを斬らねば、件は終わらぬ。兄上も、救えぬ。しかし、どうすれば)
今の自分に何が足りないのか、わからない。善次郎は再び、長七の仕事を凝視した。
長七の仕事は速く、あっという間に残りの壁を塗り終わった。仕事を終えて、一つ、息を吐く。溢れ出ていた気が身の内に収まり、鏝から気が消えた。
(壁を塗っている時とは、全く違う。手の延長だった鏝が、只の道具になった)
見入っている善次郎に気が付いた長七が、びくりと肩を上げた。
「わわ! 善次郎様、ずっと見ていらしたんですかぃ? 気が付かねぇで、すいやせん」
ぺこりと頭を下げる長七は、いつもの調子だ。
(仕事中は、まるで別人だ。何かが乗移っているようだった)
あまりの豹変振りに、善次郎はすぐに言葉が出なかった。
「仕事に入ると、どうも周りが見えなくなっちまう。お鴇にも、いつも叱られるんですがね。こればっかりは、どうにもできねぇ」
ははっと困った風に笑う長七に、善次郎が躙り寄った。
「教えてくれ、長七。其方はどういった心持で鏝を握る? 気を注ぎ込むのは自分の意思か? 其方は気を自在に操れるのか? その術はどうして体得できた?」
矢継ぎ早な問いに、長七が仰け反った。
「善次郎様? いってぇ、どうなすったんで?」
当惑する長七に、善次郎は尚も迫る。
「力を使う仕法を、儂に伝授してくれ。頼む、この通りだ」
深々と頭を下げる。長七が、一層困った声で怯んだ。
「待ってくだせぇ。頭を上げてくだせぇよ。頼みやすから」
長七にやんわりと肩を持ち上げられ、善次郎は顔を上げた。長七の困り顔に、はっとする。
「唐突に、すまなかった。だが、どうしても其方の教えが必用だ。どんな話でもいい。教えてくれまいか」
善次郎の顔付きに気付いた長七が、表情を変える。眉間に皺を寄せ、考え込んだ。
「教えって言われましてもねぇ。どう言ったらいいもんか……。その辺りは俺も、特に気にしてやっちゃぁ、いねぇからなぁ」
難しい顔になる長七に、善次郎は驚く。
「あれほどの妙技を、気にせずに施しておるのか?」
ぽかんと口を開け、忙然とする。長七が申し訳なさげに頭を掻いた。
「妙技ってぇもんじゃぁ、ありやせん。ただね、俺の塗った壁や拵えた鏝絵が、人や場所を守って幸せにしてくれりゃぁいいと。そんな風に思って、やっておりやすよ。だから、一つ一つ、どんなに小せぇ仕事でも、気は抜かねぇ。俺ん中にある全部を注ぎ込むってな心持で作っておりやす」
善次郎の胸の中で、何かが、すとんと落ちた。
「鏝を、扱う時は、どうだ。何か、考えておるか?」
口をついて出た問いに、長七がまた難しい顔をして、腕を組んだ。
「鏝を持っている時ぁ……、そうですねぇ。あんまり道具を手にしているってぇな気じゃぁ、ねぇかもしれやせんね。鏝は、俺の手や指みてぇなもんだ。俺そのものでさぁ」
からっと言い切る長七は、まるで当たり前の事実を話しているように見える。
善次郎は感得した。
(儂は、最も大事な父上の教えを、忘れていた)
死神と話し、林の中で狛犬を斬った時。父の教えである「
『心剣は、誰にでも振るえる剣ではない。明楽家の人間のみが振るう、邪を斬る剣だ』
明楽家では真剣を、時に心剣といった。怪異の絡む密勅を全うするための、至要の剣技だ。それ以上の内実を、善次郎は知らない。だが、たった今、長七が目の前で成し、真理を与えてくれた。
(これが、きっと糸口になる。否、してみせる。体得できねば、源壽院の怨霊は斬れぬ)
黙り込んだ善次郎の顔を、長七がそっと覗き込んだ。
「こんな話しか、できねぇで、すいやせん。お役に立ちましたかねぇ」
憂慮する長七の手をしっかりと握り、善次郎は強く頷いた。
「充分に役立った。長七のお陰で、忘れていた大事な教えを思い出した。礼を言う」
深く頭を下げる善次郎に、長七が恐縮した声を上げる。
「いやいやいや、そういうのは勘弁してくだせぇ。俺ぁ、ただ自分の話をしただけでさぁ。こんな話でも、善次郎様のお役に立てたんなら、ほっと致しやすよ」
安堵して笑う長七に釣られて、善次郎の口元も緩む。
「また、仕事を見せてもらっても、良いか。長七が鏝絵を作っている様子を見たい。邪魔でなければで、良いのだが」
長七は快く頷いた。
「いつでも見に来てくだせぇよ。ああ、でも、仕事に入ると、さっきみてぇに何にも話さねぇでしょうが」
「それで構わぬ。むしろ、それが見たい」
「でしたら、いつでも。明日からは、この壁に鏝絵を拵えやすんで、好きな時に見に来てくだせぇな」
善次郎の申し入れに不思議そうにしながらも、長七は嫌な顔をしなかった。
長七との出会いが、自分の中の何かを変える。漠然とした胸中に確かな思いを、善次郎は抱いていた。
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