第四章 怨霊の、正体見たり《四》
皓月堂は中庭を中心に横に長い造りになっている。建屋の最奥には、広い庭がある。稽古をしたり、軽く手合わせをするには、充分な広さだ。
明六つ半。善次郎は一人で、刀を手に、奥の庭に立っていた。
(昨日見た、長七の鏝使い。あれと同じ技が使えれば)
握った柄から刀剣の切っ先までを、自分の腕の延長と考える。
眼を閉じ、精神を傾注する。自分の中に溢れる気を刀に集め、流し込む。何度も同じ鍛錬を繰り返した。
(不思議だ。体の中に気が満ちておるのが、わかる)
自分の纏う気がどう流れ、どのように動くのかが、手に取るようにわかった。
林の中で、死神と交わした対話が頭を過る。
(今まで、自分の気の流れなど気にもしなかったが。死神の言うた通り、儂の気は随分と尖っておったのだな)
近寄ってすら来なかった妖が善次郎を警戒しなくなったのは、心眼を開いてからだ。相手の気がわかり、自分の心持が変わった。自然と、尖った気を丸く収めていたのだろう。
(それができるなら、自在に操る術も体得できるはず)
感を研ぎ澄ますうちに、瞼の裏にぼんやりと明るい光が浮かび上がった。
(刀剣に、儂の気が、流れ込んだか)
ゆっくりと瞼を開く。白い気が、刀身を覆うように流れている。気はたえず形を変えて、揺れ動く。
息を止め、目をかっと見開く。ぴたり、と刀身を纏う気が動きを止めた。白い気が善次郎の腕から切っ先までに集まり、留まった。
(これが、続けば……)
柄を握る手が震える。堪らず、全身から力が抜けた。大きく口を開き、腹から息を吸いこんだ。
「一朝一夕で、ものにできる技では、ねぇのぅ」
体が重く感じ、強い疲労に襲われた。どっかりと地面に座り込み、息を整える。
握ったままの刀を、じっと眺めた。
(だが、手応えは、あった。後は鍛錬を続けるのみだ。心剣を扱えれば、戦状は大きく変わる)
ごろりと横になり、疲れた体を地面に預けた。秋の深まりゆく水色の空は、どこまでも澄んで、とても高く見える。
(この空が、曇らぬように。公方様の治政が泰平であるように)
自然と頭に言葉が過ぎり、忠光の顔が浮かんだ。
(出雲守様からの御下命は、真相を探れ、までだ。もう充分に、御報告に上がれる。だが)
乗邑の怨霊を、この手で討つ。それは明楽家のため、宇八郎のため。何より自分のためだ。
(御報告に上がり、願い出よう。怨霊を討つ御下命を賜れば、堂々と動ける)
御庭番である善次郎の本分は間諜だ。望む下命を貰えるかは、わからない。それでも、気持ちは揺らがなかった。
長細い雲の切れ端が、ゆっくり流れる。空を眺めながら、善次郎はじんわりと意を決めた。
りぃん、と遠くに鈴の音が響いた。部屋の廊下から鈴の音が近づいてくる。
「善次郎様、おはようございます。ここに、いらしたんですね。朝餉の支度が整いましたよ」
お鴇が平素のように、にっこりと笑む。善次郎は起き上がった。
「相変わらず、良い笑顔だな。朝から清々しい気持ちになる」
顔を赤らめたお鴇が、照れを隠すように、小さく俯いた。
「善次郎様にそう言ってもらえると、嬉しいです」
遅れ髪を直す手が、帯留めに結わえた鈴を掠める。鈴がまた、りぃんと小さな音を醸した。
昨日から、宇八郎の鈴はお鴇の手に戻った。鈴が守りとなれば、お鴇の体に結界彫りを刺す必用はない。長七も即答で承諾した。鈴が戻り、一時は安堵の表情を見せたお鴇だったが。
鈴の音を聞いて、お鴇が顔を曇らせた。
「この鈴、今までと音色が違う気がするんです」
「長七が清水に持っていく前と今で、音色が変わって聞こえるのか?」
お鴇が、こくりと頷く。
「上手く言えないんですけど、前はもっと、こう……。音色が澄んで、長く響いていたような気がして。今の音が嫌なわけじゃ、ないんですけど。元気がない気がします」
「鈴の音に、か?」
小さく頷いて、鈴を掬い上げる。まるで、鈴を案じる表情だ。
善次郎は顎に手を当て、思案した。
(死霊となった兄上は、随分と衰弱しておられた。お鴇が兄上の気を感じ取っているのやもしれぬ。お鴇の手に鈴を戻せば兄上の力が回復すると思ったが、早計だったか。しかし)
長七の手元では、音すらしなかった鈴だ。お鴇の手に戻り、音色が鳴り始めたのなら、もう少し様子を見るのも一計だ。
「鈴はお鴇の元に戻ったばかりだ。時が経てばまた、以前のような音色に戻るやもしれぬ。大事にしてやってくれ」
お鴇が顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「そうですね。私が大事に持っていれば、鈴も元気を取り戻すかも、知れませんね」
掌に載せた鈴を、細い指が大事に
(きっと自覚せずにしておるだろうが。巫覡の質と心根の優しさが、お鴇にこういう仕草を、させるのだろうな)
これほど大事に思ってくれるのは、善次郎にとっても、有難い。宇八郎の言葉がなかったとしても、鈴をお鴇の手に戻して良かったと思える。
不意に思いつき、善次郎は懐から金平糖を取り出した。
「善次郎様、甘いものがお好きなんですか?」
意外そうなお鴇に、善次郎は笑みを返した。
「儂ではなく、皓月堂の座敷ぼっこに、と思っておったのだが」
枕返しで怨霊の幻影から救ってくれた座敷ぼっこに、やろうと思って持っていたものだ。
「心太ちゃんですか? あの子なら、きっと喜びますね」
ふふっと、嬉しそうに笑うお鴇に、善次郎が首を傾げる。
「あの座敷ぼっこは、心太という名だったか。以前から、知り合いか」
「いいえ。ここにお世話になってから、仲良くなったんです。座敷ぼっこだけど悪さしない、とっても良い子ですよ」
座敷ぼっこは座敷童と違い、住み着いた家に不幸を齎す。だが、大事にしてやれば、座敷童と同じように幸を呼び込む――と、皓月が以前、冗談半分に話していた。
(お鴇の言葉だと、真実のような気になるな)
などと思いながら、善次郎は金平糖を一つ、抓んだ。お鴇の口元に持っていく。小さく開いたお鴇の口に、金平糖を放り込んだ。
金平糖の投げ込まれた口を咄嗟に閉じ、手で隠す。驚いた顔のお鴇が、善次郎を見上げた。
「お鴇と分け合うなら、心太も怒るまい。いつも、よく働いてくれる礼だ。美味いか?」
長七とお鴇を命懸けで救った武士が、善次郎の兄である事実を、二人は知らない。
(鈴を大事にしてくれる礼、とは言えぬからな)
何気なく聞くと、お鴇が頬を染めて目を逸らした。
「……甘くて、美味しい、です」
気恥ずかし気に逸らした瞳が潤んで見えて、どきりとする。
不躾だったと思う前に、自分の動悸が気になった。一度大きく鳴った胸が、音を静めて、また少しずつ速まっていく。
金平糖の包みを持つ手に、童の手が、にょきりと伸びた。お鴇と善次郎が同時に振り向く。
座敷ぼっこの心太が、物欲しげな目をして、善次郎を見上げていた。
「心太か。すまぬ、すまぬ。お鴇と二人で、ゆるりと味わってくれ」
善次郎が包みを渡すと、心太がお鴇の周りを小躍りした。
「心太ちゃん、嬉しそう。良かったわね」
楽しそうに笑うお鴇の顔は、平生に戻っていた。
包みの中の金平糖を、お鴇の手に、いくつか載せる。善次郎に手を振って、心太は部屋の中に姿を消した。
「お裾分けを、くれましたよ」
にっこりとするお鴇に、善次郎も笑顔を返す。態々しい笑みになっていないか頭の片隅で憂慮しながら、金平糖を頬張るお鴇を眺めていた。
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