秘書の話
結局、僕は母に「月詠の鏡」の話はしなかった。ただ、アトリエの遺品の分配についてのこと(これは高井さんから母に手紙を出してもらうことにしていた)、また颯乃さんに面会した、と言うことだけを伝えた。
「颯乃ちゃんに…。私のこと、恨んでなかったかしら」
「いや、大学の入学式に出てくれてありがたかったと聞きましたよ」
「そう」
名古屋駅のKIOSKで買ってきた「四季づくし」という一口ういろうを食べながら、母は考え込んでいるようだった。
「まだ結婚する前なのにいいのかとおばあちゃんに尋ねたら、結婚前にこんな重要な役目を押しつけて申し訳ないが、自分の代理でお願いしたいと言われてね。
颯乃ちゃんに私でいいのかと尋ねたんだけど、代理でもなんでもいることが大事だと言われて」
颯乃さんらしい、と思った。
「せめて颯乃ちゃんが大学を卒業して、独り立ちするかお嫁に出すまでは横井の妻でいようと思ったんだけどね…こらえ性がなくてねえ」
それは、母のことなのか、それとも横井さんのことなのか、分からなかった。
「しげちゃん、あんた颯乃ちゃんのこと忘れてたんだって?」
「岐阜にいたことすらあんまり記憶がないんですよ」
それにしても僕はどうして、岐阜にいた頃のことを覚えていないのか分からなかった。その話はまだ、母とはできない、と思った。
颯乃さんからLINEが来て、馬淵さんと会えることになった。面会の手はずは、横井翠庵の長年の弟子だった松元さんという人にしてもらったと言っていた。
馬淵さんは横井翠庵の秘書をやめて、横浜に来ていると聞き驚いた。横井翠庵が亡くなったのは2月の終わりで、残務整理もあるはずだったのに、馬淵さんは葬儀が終わるとさっさと秘書をやめたのだというのだ。
颯乃さんから電話があった。
「今大丈夫?」
「はい、仕事終わりましたし。何かありましたか」
「馬淵さんと面会するほかに、茂さんに少しお願いしたいことがあって」
「なんでしょう?母を連れてくるとか|」
「そっちじゃなくて、仕事の話。…茂さんて確か、黎明音大の講師をしていたわよね」
勤務先の黎明音大では、副科ピアノと楽曲分析のクラスを持っている。
「私のところに最近来た子が、黎明音大を受けたいと言っていて。私は教育大と保育系の受験対策はしたことがあるけど、地元じゃない音大の受験対策って初めてでちょっと困ってて。別件で相談に乗ってもらえればありがたいかな。関東にも友人はいるけど、黎明音大の関係者は茂さんくらいだから。ああ、とりあえず生徒にもう少しリサーチしてからだから急がないけど」
確かに仕事の話だった。本人の意思がまだはっきりしないため、とりあえず颯乃さんとだけ話をすることになった。それにしても、颯乃さんが横浜に来てくれるのはありがたかった。収入が安定しない身で、毎回新幹線の切符をとるのは痛かったからだ。
馬淵さんと横浜で会うのは、4月の半ばになった。馬淵さんからは、個室のある和食の店を指定された。
「
思った以上に若い。聞けば、年は僕の3つ上の33歳だそうだ。
「横井せんせのことを聞きたいって?せんせとどういう関係?」
「モモカちゃん、私とは一度会ったことあるでしょ。横井の娘の颯乃です。こちらは、横井と二番目の奥さんとの間の息子の柿崎茂さん。弟です」
「…ああ、せんせのお嬢さん。弟?あんまり似てないね」
馬淵さんは大きな目を見開いて僕の方を見た。つけまつげが痛そうだ。この人が本当に大学教授の秘書だったのかと不思議に思った。
「そうらしいですよ。僕は父親の記憶はほとんどありませんが」
「変な姉弟。で、何?あたし、せんせのところはもうやめてんのよ。何を聞きたいの?」
「モモカちゃんが急にやめちゃったって、松元さん困ってたわよ。先生の作品目録の整理が途中だって」
「2年前の作品集から流用すりゃいいじゃん。松元のじいさんにそういったよ」
「それだけじゃ追っつかないらしいわ。長谷川外科のロビーの陶板は写真集が出た後に焼いて寄贈してるし、大学の職員展の時の作品とか。そういうデータは馬淵さんが扱ってたって松元さんが困ってたわ」
「データの入ってるUSBメモリは櫛田さんに渡したよ。どうせ松元のじいさんはパソコンなんて使えないんだから櫛田さんに任せればいいのに」
「櫛田さんはアトリエの残務整理でそれどころじゃないんですって。愚痴られたわ」
「知らないよ、そんなこと。だけど何でそんなことでお嬢さんとか、ましてや後妻の息子が…」
「私だって今更モモカちゃんに会いたくて来たんじゃないんだけど」
颯乃さんは頭を上げて、馬淵さんを睨みつけた。秘書だからとぞんざいな口のきき方をする馬淵さんに颯乃さんはいい感情は持っていない。理由は馬淵さんが横井さんの「愛人」だったという部分だ。僕は知らないが、生々しい行為の声をきかされた颯乃さんにとっては、もしそれが馬淵さんでなくても、そしてたとえなさぬ仲の父親とはいえ、若い女に何をうつつを抜かしているんだという怒り、愚かな父親を誘惑したかもしれない若い秘書の下半身のだらしなさに、立腹するのは当然かもしれない。ましてや、馬淵さんは颯乃さんよりも年下なのだ。娘よりも若い女に溺れた父親と、何を求めたのか年上の男と不埒な関係を結んだ女を嫌悪するのは、十分に考えられることだ。颯乃さんが侮蔑を込めてあえて「モモカちゃん」と呼んでいる、ということは、秘書として認めていないということかもしれない。
(颯乃さんは母親でもあるしな…)
中学生のひとり娘がいるという話を聞いていた。思春期の娘を持つ母親としては、身内の不始末は厄介なものだと思う。僕は颯乃さんの機嫌が悪くならないうちにと、本題を切り出した。
「馬淵さん、”月詠の鏡”って聞いたことがありますか?」
「ツクヨミノカガミ?」
「父の遺言が出てきたそうです。馬淵さんがご存じかと」
馬淵さんはピンクのスマホをポチポチしながら言った。
「それ、なんか聞いたことある」
「あるんだ」
「どこで」
「うっさいなあ。今思い出してんだから待ってよ。そういうとこ、ババアにそっくりだよ、お嬢さん」
年下の馬淵さんに「お嬢さん」と言われて、颯乃さんはますます不機嫌になった。徹底的にこの二人は相性がよろしくないらしい。こういうトラブルをかわすには、僕は人間的な修行が足りないようだ。
「そうだなあ、あれは長谷川外科の院長と飲みに行ったときかなあ。あたしはよくわかんなかったけど、せんせはそれをおきにのホステスに預かってもらうとか言ってた」
「ホステス?」
「クラブ”蘭”のチーママ。笙子っていうオバサンのホステス。意地悪なんだ。あたしが若いからってなんにも知らないと思って…」
また新しい名前が出てきた。横井豊と言う人は、土をこねているか飲み屋でお姉さんと遊ぶかどっちかなのか。
「その、しょうこさんって人は今?岐阜にいるんでしょうか?」
「クラブ”蘭”は長谷川院長のよく行ってた錦三の店なんだけど、ママが体壊して店閉めちゃった。もう3年前かな。そのあたりはむしろ、松元のじいさんが知ってんじゃないの?”蘭”の蘭子ママと懇意だったし。とにかくあたしは、”ツクヨミノカガミ”って作品があるのは聞いたけど、どこにあるかまでは知らない」
馬淵さんは目で「もう帰れ」アピールをしていた。僕は颯乃さんを突いて、会見を終えた。
昼ランチが3000円と決して安くはない和食の店で、話の内容と馬淵さんの振る舞いで、僕は食べた気がしなかった。
「颯乃さんよく耐えましたね」
「…ごめん。茂さんが上手く話を動かしてくれたから…馬淵さん…モモカちゃんは同性をイライラさせる天才だから」
「だと、思いましたよ。あの人よく秘書やってられましたね。普段からああなんですか」
「モモカちゃんは元々、父が勤務していた美大の学生だったんだけど、1年生の時にお父さんが事故で亡くなって、学費が払えなくなったらしいの。学生証を返さずに、「美大の苦学生」キャラでクラブのホステスのバイトをしていた時に、たまたま授業を受け持ったことがある父がお店で会ってね。
いきなりピンクのスーツにシャネルのバッグを持ったキャバ嬢が来たときは驚いたわよ。しかも秘書にするって」
「その先の台詞は言わなくても分かりますよ。”何頭沸いてんだ、親父”でしょう」
颯乃さんは苦笑した。僕も大体、横井翠庵のことが分かって来たようだ。
「馬淵さんは秘書としては優秀だったの。経理とかもやってて」
「本当ですか。見た目は痛いギャルみたいな人だけど」
「人は見かけによらない。だけど…これじゃあ月詠の鏡のことは大して分からないわね」
とにかく、馬淵さんの話に名前が出た『笙子』という名前のホステスに会うことになった。
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