幻の作品

「ごめんなさい、泣くつもりなんてなかったのに。驚いたでしょう」

颯乃さんはスカーフ柄のバッグ(あとでトプカピと言うブランドのものだと分かった)からタオルハンカチを取り出して目元を拭った。

「いえ…」

どういう顔をしたらいいのか分からなかった。颯乃さんが泣いた理由もわからないのに。

「とにかく、私は晴子さんにはとても感謝しているの。だから、わざわざ晴子さんの息子である茂さんに恨みつらみをぶつけに来たわけではない、そのことは分かってほしいんです」

「大丈夫です、それは理解しました」

「本当はね、茂さんに頼みたいことがあるの。ううん、”相談”かなぁ」

颯乃さんは紅茶を飲み干すと、ウエイトレスを呼び止めてコーヒーを頼んだ。それから、スカーフ柄のバッグから古い色あせた封筒を取り出した。

「これは」

「父の古川のアトリエを今整理しているんですが、連用日記に挟まれていたんです」

封筒の表には何も書かれておらず、ひっくり返すと「父より 颯乃へ」と書いてあった。僕はどういう顔をしたらいいかわからなかったが、颯乃さんは中身をあけて構わないと促した。封は鋏で開けられており、封筒の中には、封筒と同じ色のやはり少し色あせた便箋が入っていた。


「颯乃へ


  この手紙を君が開けているということは、私は既にこの世に存在していない、ということになるのだろう。死に際に何を寄越しやがったと君は思うかもしれないが、散々迷惑をかけてきた愚かな父親の最後の望みを聞いてほしい。


 私の作品に「月詠の鏡」という陶板の作品がある。

2年前に作った作品目録には収録されていない。君も知っての通り、最近の私は碌に土も触らず、窯にも行かないから最近の作品でもない。


 その作品についてのお願いだ。


 ハルにツクヨミノカガミを渡してほしい。


                      豊」


 (これは、豊さん…横井翠庵の遺言なのか)

便箋の二枚目にはこう書かれていた。


「古川のアトリエの管理は馬淵さんに任せてある。詳しくは馬淵さんに聞いてほしい」


「馬淵さんって」

「父の秘書です。だけど嫌だな、馬淵さんに会うのは」

颯乃さんは顔をしかめた。僕はコーヒーを飲み干して尋ねた。

「なぜです」

「秘書の馬淵さんは晩年の父の愛人だったらしい。父が大学で教えてた時からの助手に、櫛田さんと言う方がいらっしゃるのだけど、手紙はその櫛田さんが見つけたの」

 そして、颯乃さんは口の中の異物を吐き出すように呟いた。

「馬淵さんの名前をこんな形で見たくなかったわ」

「ちょっと待って、豊さんって」

「2月の半ばに亡くなったばかりよ。75歳で」

「その秘書の馬淵さんて」

「30半ばくらいね。私が茂さんの12歳上だから…」

うっかり颯乃さんの年を聞くなどという失態をおかすまえに、想像しやすい言葉を振ってもらえてよかった。だが、計算しながら僕は思わず口を開けた時に蠅が飛び込んできたような不快な表情をしてしまった。

「え、嘘でしょ?まさか…」

「娘よりも若い女を愛人にしてたのかって?…親父ならありそうよ」

「颯乃さん」

「私がまだ結婚する前、実家にいた時だけど、仕事から帰ってきたら親父が若い子連れ込んでいたしてた…勿論見てはいないわ。声だけでもう吐きそうで。それが秘書の馬淵さんだったのか、別の誰かなのかはわかんない」

一瞬想像してしまった。確かに、音だけでもキツイ状況だ。ましてや、颯乃さんはおそらく当時まだ20代だったはずだ。僕でもきっと吐きそうになっただろう。

「マジか…最低だな、横井豊」

「がっかりしたでしょ?自分の遺伝学上の父親がクソ親父の上にエロじじいなんて…って、ごめんなさい」

 自分はその頃関わっていなかったが、颯乃さんにとってはかなり苦痛な話だったに違いない。思わず口汚くののしってしまった颯乃さんの気持ちが僕にもわかった。

「いや、既に野口さんからの話で失望してますから。颯乃さんこそ、嫌な思いをしたんじゃ」

颯乃さんは頷いた。なるほど。真偽はともかく、父親の最後の愛人だったかもしれない人に物を尋ねるのは苦痛だろう。


「私一人で馬淵さんに会うのは嫌…。でも、もし彼女が”月詠の鏡”のことを知ってるなら」

「馬淵さんに会わなければなりませんね。たとえ苦痛でも」

「うん…。それで、茂さんに相談」

「うわ、何ですか。この話の流れじゃどうせ碌なことじゃ」

「馬淵さんに会う時に立ち会って。…っていうか、”月詠の鏡”を探す手伝いをしてほしい」

 僕は無言でコーヒーをすすり、ウエイトレスを呼び止めてお代わりを所望した。

「ううう…」

「関東に住んでる茂さんをいちいち呼び立てるのは、交通費とか移動距離とか負担でしょう。ただ、作品目録にもない横井翠庵の作品を”ハル”と言う人に届けてほしいという遺言を父がわざわざ折り合いの悪い娘に頼んだのはなぜなのか…」

「いやそれ以前に、"ハル”って誰のことなのでしょうね」

颯乃さんは首を捻った。横井翠庵が託した幻の作品、そしてそれを託された人物と自分たちが関係があるのだろうか。もっとも僕は、横井翠庵のことはほとんど知らない。そう言うと颯乃さんは、古参の弟子である松元さんという人が横井翠庵関係のことは詳しいので尋ねておくと告げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る