颯乃さん
颯乃さんからの返事は早かった。
「連絡ありがとうございます。そのです」
「シゲルです。高井さんから連絡先教えてもらいました」
「シゲルさん今日は名古屋ですか」
「はい」
「伺えないと高井さんに伝えたのですが、急に予定が変わり、明日お会いできることになりました。ご都合は」
画面を見ながら一瞬僕は考えた。(明日は金曜日で休みだ…土曜日は…スクールのレッスン午後3時からだからもう一泊すれば何とかなるか)
「大丈夫です」
「お手数おかけします。詳しい話はお会いしたときにしますが、父の遺品について弟のシゲルさんにもお話したいので」
「わかりました」
「名古屋にいらしているなら、名駅かどこかで落ち合いましょうか。あ、名駅って名古屋駅のことです」
「僕はあまりこちらの地理に詳しくないので、そのさんにお任せします」
「わかりました。ではJR名古屋駅の「金時計」で。下が高島屋で、エスカレーターがあります。地図のリンク貼ります。分からなければ駅員さんに聞けば教えてくれます」
「お時間は」
「10時半くらいでいかがでしょうか」
僕は楽天パンダの「了解です」のスタンプを送った。颯乃さんからは可愛い女の子の「よろしくお願いします」スタンプが送られてきた。
翌日。僕はJR名古屋駅の「金時計」のあたりにたたずんでいた。「金時計」は待ち合わせスポットのようで、平日なのに人が多く行きかっていた。
あらかじめ颯乃さんからは目印を教えてもらっていた。それが、なぜかヘンレ版のモーツアルトのソナタアルバム1、と言うのだから驚いた。あの青い表紙は僕も持っているが、なぜこんなものを目印にしたのだろう。
「柿崎、茂さんですか」
肩までのセミロングヘアで紺色のスプリングコートの女性に声をかけられた。
肩からスカーフ柄のバッグを下げ、左手に青表紙の楽譜を携えている。
「梅村、颯乃です」
「初めまして、柿崎です」
「…久しぶりね、茂さん」
僕は、颯乃さんの反応に驚いた。この人にどこかで会っただろうか?
「その顔は…高井さんが言った通り。やっぱり覚えてないんだ」
どうやら、僕に会う前に高井さんと電話で話をしたらしい。颯乃さんはスカーフ柄のバッグに楽譜をしまった。
「変な目印って思ったでしょ?理由はあるのよ。茂さんが音大卒でピアニストだって聞いて、これなら分かるって」
「どういうことですか」
「私も音大卒なのよ。専攻はピアノ。今は高校保育科の講師をしながら、自宅でピアノ教室を開いているわ」
同業者だったのか。半分遺伝子が同じ颯乃さんの素性を知り、僕は驚いた。
立ち尽くしている僕に、颯乃さんは声をかけた。
「立ち話もなんですから、どこかお店に入りませんか」
颯乃さんが僕を連れて行ったのは、名古屋駅の高層ビルの中にあるカフェだった。開店したばかりのためすぐに席に案内された。
「急に予定を変更させちゃったみたいでごめんなさい。午前中のレッスンの生徒が体調を崩して休みになってしまって、時間が空いたので…茂さんがいらっしゃるうちにと思って」
「いえ、今日は仕事が休みでよかったです」
「大きくなったわね…って言うと失礼かな。晴子さんとあなたが岐阜で暮らしていた頃は、私ほとんど岐阜の家にいなかったから、覚えてなくても仕方がないわね」
「すみません。岐阜に住んでいたことはあんまり記憶がなくて。母もその時の話はなんとなく避けてたので」
ウエイトレスが注文を取りに来て、僕はコーヒーとガトーショコラ、颯乃さんは紅茶とフルーツタルトを頼んだ。
「まあね、晴子さんにとっては微妙な思い出かもしれないわね…」
「颯乃さんは母とは」
「まあまあ、って感じかな。晴子さんが父と結婚したとき、私は音大の1年生になったばかりだった。娘が音大受験生でひいこら言ってるときに再婚するって聞かされて、何考えてんだあのクソ親父…あら、失礼」
品の良い奥様風の颯乃さんからとんでもない言葉を聞いた気がする。スルーすべきだろうかと悩んでいると、颯乃さんは水を飲んで言った。
「多分茂さん父のこともあんまり記憶ないだろうし、梓さんからどういう風に聞いてるかわかんないけどね、娘から見たら父はクソ親父なのよ。口が悪くてごめんね」
梓さんという名前に一瞬戸惑ったが、そういえば野口さんの名前は梓だったなと思い出した。
「確か、颯乃さんが産まれることが分かっても家に帰らずに工房に入り浸ってたとか」
「うん、そうらしいよ。茂さんが産まれる時もほったらかしだった、っておばあちゃんから聞いてる。あ、おばあちゃんというのは横井の祖母ね」
父方の祖母と颯乃さんはずっと暮らしていたという。
「茂さんの認知くらいしろって言ったのもおばあちゃん。それくらい、家族とか家庭とかに関心がない人なのに、なんでよりによって娘が大学受験で苦しんでるときに再婚なんだ、頭おかしいって親父に言った」
「それは言って当然だと思います」
「だね。おばあちゃんもいつもは、そのは態度が悪いと叱るけど、親父に対してそんな口のきき方したのに止めなかったくらいだからさ。
でも、晴子さんにはお世話になったわ。だって、まだ籍入れる前なのに、私の大学の入学式に保護者の代理で晴子さんが出てくれたくらいなんだもの」
「えっ」
その話は初めて聞いた。
「その頃おばあちゃんの体調があまり良くなくてね。なんだかおばあちゃんと晴子さんの間でそういうことになったらしいよ。どうせ親父は出ないだろうと思って、一人で入学式に出るつもりだったんだけど、私が入学式に着る服すら買いに行けてないのを知って、晴子さんに柳ケ瀬、って商店街なんだけどさ、そこに連れ出されたの」
「そんな強引なところがあったなんて…」
ケーキセットが運ばれ、僕はコーヒーを飲んだ。
「親父の再婚相手だと聞いていたけど、晴子さんは自分を母と呼ぶ必要はないって言ってたわ。親戚のおばちゃんくらいに思ってって。茂さんはまだちっちゃくて、晴子さんの後ろに隠れてた。私も小さい子の相手は苦手だったから、どうかかわったらいいのか、正直分からなかったわね」
颯乃さんは紅茶を一口飲んで、言った。
「それが今じゃ、保育士のたまごちゃんとか、小さな子のピアノの先生やってるんだから、笑っちゃうわ」
「僕が颯乃さんのことをあんまり覚えてなかったのは…」
「大学が名古屋で、教員を目指してたから家庭教師のバイトもしてて帰宅も遅かったしね。関わるのが下手だったんだと思う」
僕はガトーショコラを一口口に運び、目を閉じた。こんなに記憶が薄い颯乃さんの、ひょっとして唯一くらいの思い出は、あのことかもしれない。
「颯乃さんて、ドビュッシーをよく弾いてませんでしたか」
「どうして知ってるの?」
「夢、月の光、雨の庭、ピアノのためにのプレリュード…喜びの島」
颯乃さんは驚いて僕の方に顔を向け、目を見開いた。どういうわけか、一筋の涙がこぼれて颯乃さんの頬を伝って落ちるのが見えた。
「月の光と、雨の庭は、今も私のレパートリーよ」
その言葉に、僕ははっとした。
「僕のレパートリーも、雨の庭です」
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