想い出の音
お茶のお代わりを店員が持ってくる頃、高井さんは戻って来た。
「何だったんです、高井さん」
「こんな偶然あるんかいな。…颯乃さんから電話が来た」
「そのさん…て、最初の奥さんのお嬢さんという」
「そう。お父さんの遺産の話で茂さんが来ていることを話したら、今日明日は動けないが、茂さんに会いたい、相談があると言っているんだ」
「…明日の夕方には帰るつもりでしたが」
ビジネスホテルの予約は一泊の予定だった。
「細かい話があるそうで、日を改めて、ということだそうだ」
「はあ」
「日程の相談のために、直接連絡してもいいそうだ」
高井さんはスマホを使い慣れているのか、颯乃さんの連絡先を写メしたものをLINEで送って来た。LINEはあらかじめ連絡のために教え合っていたが、まさかこういう形で使うとは予想外だった。
「うめむら、…その?」
「ああ、結婚してるからね、颯乃ちゃんは」
「あの…颯乃さんにとって、僕や母の存在ってどういう…」
僕の表情が翳るのを見て、笑い飛ばしたのは野口さんの方だった。
「短い時間で別れた後妻とその子供にわだかまりがあるとか?ないない、颯乃ちゃんそういう子じゃない。むしろ、晴子さん…あなたのお母さんに会いたがっていたくらいよ。お世話になったからって、恩人だと」
よくわからなかった。母は颯乃さんの話など一度もしなかった。それとも、短期間しか関われなかったことに罪悪感を感じているのだろうか。
「日程は決めてください。私らは司法書士と行政書士で、横井家の人間ではないんで、法律的なことでしかお役に立てませんから。遺族同士の話し合いで問題が起こりそうなら、また連絡してください」
僕は高井さんたちと別れて、予約していた名古屋駅前のビジネスホテルへ行った。
ひとりで飲食店へ入る気にもなれず、コンビニで缶ビールとつまみになるようなもの、カップラーメンとおにぎりを買ってホテルへ入った。
姉。
高井さんや野口さんの話し方だと、その人は自分とは年が離れているように感じた。母が自分を連れて岐阜で横井さんとの暮らしを送っていたことすら僕は覚えていないくらいなのだから、姉と言う人の記憶がなくても仕方がない。それにしても、どうしてその辺りの記憶がすっぽり抜け落ちているのだろうか。
そういえば、1つだけ思い出したことがある。
まだ小学校へ入るか入らないかの頃。
家の中でピアノの音を聴いていたことがあった。あの曲は。
ドビュッシーの、「雨の庭」。
「自分が音大受験を考えたのって、まさか」
思わず声が出てしまった。
僕はピアノを習い始めたのが、9歳だった。小学4年生。決して早い方ではない。
今も自分が住んでいる船橋の自宅は分譲マンションで、ピアノはわざわざ消音ユニットを後付けしてあった。母は音大を目指していたわけではなく、趣味でピアノを高校生まで習っていたと母方の祖母に聞いたことがある。そのピアノは、船橋のマンションを買うときに母の実家だった鎌倉から運び入れたものだそうだ。
なぜ僕がピアノを習うことになったのか。
おそらく、そのピアノで勝手に耳コピで仮面ライダーとかCMの曲を遊び弾きしていたのだと思う。ある時、頭の中に浮かんでくる題名を知らない曲を再現しようとして分からず、途方に暮れていた。
あの曲が、ドビュッシーの「雨の庭」だと知ったのは、驚くべきことに大学生になってからだったのだ。僕の周りではフランスものを弾く人間がおらず、最初に習った先生も、音大受験でお世話になった先生も、大学の担当教官も、ベートーヴェンやブラームスが得意だったり、留学先がドイツだったりしたこともある。
その中で、同期の弾く「雨の庭」は、とても懐かしいような感じがしたのだ。
あれを弾いていたのは…。
「つぅちゃん」
野崎つぐみ。大学3年生の時から交際し、僕が留学してからもしばらく文通やメールのやりとりが続いたが、つぐみが神奈川の教員採用試験に受かって多忙になり、いったん交際は終了、ということになった。今は友人としてSNSでつながっているが、彼女も結婚はしていないようだ。
ドイツ古典ものばかり弾いていた僕に、「柿崎君はバロックも合うんじゃない」と、テレマンやパーセルを勧めてくれたのがつぐみだった。
「名古屋まで来て、つぅちゃんのことを思いだすなんて」
彼女は僕と歩む将来を考えてくれていた。だが僕は、母を見ていて結婚することへの意義を掴めずにいた。宙ぶらりんな僕をつぐみが見限っても仕方がなかったが、彼女は僕を責めず「いったん、離れてみるのもいいかもよ」と言った。
繋がりはあるから、会おうと思えば会えるが、彼女と向かい合うのはまだ今の僕には怖い。名古屋まで来てそんなことを思いだすなんて。
その夜僕は、カップラーメンとおにぎりという夕食をとったあと、颯乃さんのLINEに連絡を取ることにした。
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