横井翠庵という男
野口さんは事務員さんに「出かけてくる」と告げ、高井さんと僕を連れて出かけた。青のフィットの運転席に高井さんが、助手席に野口さんが乗り込み、僕は後部座席に座った。確かに、朝食を食べずに出てきてしまったのでお腹が空いていた。
「茂さんは何でも食べられますかね」
「特にアレルギーもありませんので」
「じゃあ、やっぱりあそこかね」
高井さんが僕たちを連れて行った店はとんかつ屋さんだったが、「味噌カツ」の文字に僕は驚いた。
「味噌がかかってるんですか」
「ええ。初めてですか?」
「はい…関東はソースカツなので」
「味噌カツは晴子さんがよく食べてたのよ。あの人はヒレカツが好きで」
そんな話も知らなかった。どうも僕は、親のことをよく知らないと見える。
とんかつを食べながら、野口さんが話してくれた話は、こんなふうだった。
横井豊氏は岐阜出身で、愛知県立芸術大学の美術学部を卒業し、岐阜市内にある、
「新任教師の時に担当したのが、横井先生の最初の奥さんの千早さんだったんです」
つまり、横井氏は母と結婚する前に既に結婚していたことになる。野口さんは続けた。
「二人が交際を始めたのは、千早さんが高校を卒業して、名古屋の短大に通っていた頃と聞いています」
教師と卒業生の交際、というのは、たまにある。
「千早さんの実家はお寺で、敷地内に幼稚園を経営していたので、千早さんも短大の幼児教育科で幼稚園の先生の資格を取っています」
横井氏は千早さんが短大を出る年に結婚を申し込み、千早さんは実家の幼稚園ではなく、岐阜市の採用試験を受けて公立幼稚園の先生になった。横井氏の勤務先に合わせた形になったのだ。教員と幼稚園教諭の結婚と言うのもさほど珍しいことではなく、幼稚園を継がせたかった千早さんの両親も公務員同士の結婚と言うことで認めた。横井氏の親戚は「やっと豊も落ち着いた」と安堵していた。
「だけどね、違ったんですよ」
注文した味噌カツに、行儀悪く箸を刺して野口さんは吐き捨てた。
それまで、穏やかな人だと思っていた僕の野口さんへの印象はまるで変った。
「ちょうど結婚の翌年に、『東濃陶芸展』と言う公募展に入選したことがきっかけで、横井先生は借金をしてアトリエを借りてしまったんです、古川に」
僕は味噌カツを口に運びながらその話を聞いていた。野口さんは親の仇のように、味噌カツをグサグサと箸で突き刺した。野口さんをなだめた高井さんが話を引き継いだ。
横井氏は陶芸展の「新人作家賞」というものに選出された。それで少し融通が利くようになり、美術部の顧問は続けたが担任を持つことはなくなった。作品も、少し売れるようになった。だが、よいことづくめではなかった。
陶芸展に横井氏が入選した年の暮れに、千早さんが身籠っていることがわかった。
その頃には、横井氏はしばしば窯を訪れ、古川のアトリエで作家活動を続け、自宅に戻る回数が減っていた。自分の仕事に熱中し、家庭を顧みなくなり、教員の給料も担任を持たないことで減った。
「千早さんが切迫流産で危なかったとき、横井先生は東京の公募展に出す作品をずっと窯にこもって焼いていたのです」
自宅で倒れていた千早さんを見つけたのは、横井氏の母ー僕から見たら祖母に当たる人だった。嫁姑のいざこざなどはなく、むしろ陶芸に打ち込むようになってしまった息子を不甲斐ないと祖母は感じていたらしい。
病院に入院し、出産まで千早さんは退院できなかった。生まれたのは女の子だったが、横井氏は娘の誕生を知らずにいた。
「そんな仕事バカだから離婚されたんですか」
「離婚じゃなくて死別なんだ。千早さんは亡くなったんだ。娘さんがまだ、1歳半の時に」
僕は息を呑んだ。
「娘さんはどうしたんですか」
「おばあちゃんが同居してたからほとんどおばあちゃんが育てたようなもんだね。古川のアトリエを建てるのに、千早さんの親から借金をしてどうも返してなかったらしくて、孫はかわいそうだが引き取れないということになったらしい。
「横井先生は今で言うとイケメンと言うやつで女の人にモテた。弟子の人とか、後で大学の先生になるんだけど、そこの学生とか、ホステスさんとか入れ替わり立ち代わり来て。最初は晴子さんもそういう人かと思ったんやよ、でも違った」
母は、美術雑誌の取材で横井氏のところへ来たのだという。最初は編集者と作家、という立場だったが、どこでどうなったのか、母は横井氏の子を身籠る。
祖母には反対されなかった。むしろ、妊娠きっかけでもう一度家族を作り落ち着いて欲しいという願いがあったようだ。だが、母はいろいろ考えて僕が産まれる時には籍は入れずに認知だけしてもらった。
「多分、颯乃ちゃんのことがあったんじゃないかって」
「その?」
「千早さんの産んだ娘。茂さんから見たら、腹違いのお姉さん、ということになるわね」
「ちょっと失礼」
それまで話を聞きながら、時に相槌を打ち、時に話に補足を加えていた高井さんがスマホの着信を見て席を立った。その電話が自分にかかわりがあるものだと僕は想像していなかった。
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