知らされなかった事実

 母の絶対的に有無を言わせぬ態度に折れ、僕は封書を送って来た行政書士事務所の高井さんに会うために、新幹線に乗っていた。

顔もほとんど覚えていない遺伝学上の父親の遺産管理について行政書士と会う役目、なんて、重荷だ。仕事の片手間にできることではないと主張したが、母は直接横井さんの遺産に関わりたくはないようだった。

 大学の授業がない土曜日に行政事務所へ行く、と先方に連絡をしたが、気分は晴れなかった。



 新幹線で名古屋まで出向き、JRに乗ればいいと思っていたら、高井さんから「うちは鵜沼うぬまなので名鉄で新鵜沼まで乗ってください」と言われて困惑した。「うぬま」とはどこだろう。岐阜県の地名について全く知識のない僕は戸惑った。

乗換案内で調べたところ、犬山線というのに乗れば良いのがわかったが、いざ新幹線を降りて「名鉄」の案内に従って名鉄名古屋駅に来てみて困った。乗り場がわからない。

 構内放送をよく聞いていると、「みどりの●番から●番」とか「青の●番から●番」という放送が聞こえた。幸い、新鵜沼行きが来たのでそれに乗り込んだ。

 新鵜沼の駅前で、高井さんは車で待っていた。青のフィットがロータリーにつけている。

「はじめまして。私、高井です」

高井正一さんは50歳位の男性だった。名前は「マサカズ」と読むそうだ。想像していた人と違い、背が高く頭はやや白いものが混じっているがなかなかのイケメンだと思った。

「柿崎 茂です」

「ああ、晴子さんの。…横井先生には少し目元が似ておられるかな」

高井さん(高井先生と呼ぼうとしたが、自分は行政書士で先生と呼ばれるほどじゃないからと固辞された)は、横井さんをよく知っているようだった。

「高井・野口」と連名になっているが、野口さんの方が司法書士で、高井さんの奥さんのいとこという親戚関係で共同事務所をやっているのだそうだ。横井さんのお母さんが亡くなったあとの遺産分与の時に野口さんが関わり、そのつながりで横井さんの遺産についても高井・野口司法行政事務所が扱うことになったと聞かされた。


 事務所につくと、野口さんがいて事務員さんがお茶を出してくれた。

野口さんは男性だと思っていたが、女性であることに驚いた。母と同年代くらいで、小柄な気のいいおばさん、という雰囲気だった。

「野口 梓です。高井と共に事務所をやっております。お忙しいところありがとうございます」

母とおそらく同年代であろう野口さんが、女性ながら司法書士として事務所を構えるのは苦労だっただろうと感じたが、同時にこの人ならやっていくだろうとも思った。

「こちら柿崎さんの息子さんです」

「茂です」

「…やっぱり晴子さん来なかったのね」

どうやら野口さんは母のことも、横井さんと母のいきさつも知っているらしい。首を捻っていると、母と横井さんの婚姻届けの保証人になったのは自分だと野口さんは言った。

「息子さんを寄越すだけ、あの人も豊さんのことを気にかけてはいるのかしらね」

「どうかね。晴子さんも随分、横井先生に振り回されただろうからね」

僕は先ほどから気がかりになっていたことを尋ねた。

「高井さん、先程から”横井先生”って言ってるのは」

すると、高井さんと野口さんは顔を見合わせた。

「あら、晴子さん本当に何も息子さんに知らせてないんだ」

「ああ、私から話すよ。

  茂さん、でしたね。横井豊さんはあなたの父親であり、陶芸家の横井 翠庵なんですよ」


 その名前を聞いても、僕にはぴんと来なかった。


横井 翠庵よこい すいあん

手元のスマホで検索すると、名古屋のギャラリーで開かれていた「横井翠庵展」の記事が出てきた。それによると、横井翠庵は岐阜県出身で高校の美術教師から公募展に応募して入選し、それをきっかけに作家活動を始めたらしい。岐阜市内の「東濃学院大学」の美術学部で陶芸を教えていたそうだ。

「知らなかったんですか」

「母は、横井さんのことはほとんど話してくれませんでした。結婚していたことを僕が知ったのも、戸籍謄本を見たからです。それも、成人してからの話です」

「戸籍謄本」

「留学するのに、パスポートと、あと手続きで必要で。それでも、書類の内容以上のことは母は話してくれなかったんです」

高井さんと野口さんは顔を合わせ、互いに肩をすくめたようだった。

「ほんっと、晴子さんらしいっていうか」

「母は横井さんのことを憎んでいたんですか」

僕の質問に、野口さんは首を振った。「そんなんじゃないわ」

「じゃあ」

高井さんが言った。

「お母さんから直接聞くのが一番いいんだが、話したがらないだろうからね。梓さん、あんたが話した方がいいんじゃないのか」

「ええっ?勝手に話して晴子さんに怒られないかしら」

野口さんは高井さんの言葉に驚いたようだった。

「怒るくらいなら自分で出向いてくるよ、晴子さんは。息子さんを寄越したってことは、別に隠す必要はないと思ったんじゃないのかな?だけど、晴子さんの立場上、自分の口からは言いたくない。そういうことでしょう」

野口さんはしばらく唸っていたが、やがて頭を上げていった。

「そうね。食事しながら話しましょう。長くなるし…高井さんもそれでいいわよね」



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