見知らぬ封書

 ある日突然、知らない土地の知らない名前から分厚い封書が送られてくる、というのはなかなかスリリングなことではある。僕は音楽スクールでの実技レッスンの仕事を終えて帰宅したときに、ポストからはみ出した封書を見つけた。


 差し出し人の住所は岐阜県各務原市。関東で育った僕には聞き覚えのない地名だ。生憎、僕にも身内にも縁のない地名から届いた封書に僕は戸惑った。

 

 おまけに、その封書の表書きはこうだった。



  「高井・野口 司法行政書士事務所」


 宛名は母の柿崎 晴子かきざき はるこ宛だ。


「柿崎 晴子様


  突然の封書でのご連絡、さぞ驚かれたことと思われます。

 私ども高井・野口司法行政書士事務所は、このたび別紙のとおり

横井 豊様の相続についてご連絡をさせていただきました。

何卒ご確認いただきますよう宜しくお願い申し上げます。


 この件につきまして質問・不服のある場合は同封住所へご連絡ください


      高井・野口 司法行政書士事務所


             行政書士  高井 正一たかい まさかず 」



 横井 豊さんという名前にはうっすら記憶がある。僕にとっては「血縁上の父」だ。母は父親とずいぶん前に離婚していて、僕もその人のことはほとんど覚えていない。今更なんだろうと思い、僕は母に電話をした。 

「もしもし母さん?うちに母さんあてで行政書士事務所から封書が届いたんだけども」

 受話器(おそらく母は携帯を持っていても”でない”と思って、固定電話にかけたのが正解だった)の向こうの母の息を呑む音が聞こえた。長い沈黙があった。

 「行政事務所?私に?」

その次に聞こえた母の言葉は、耳を疑うものだった。

「今更、何を…」

「母さん?」

母はまた沈黙した。僕が何か言おうとしたとき、母が言った。

「しげちゃん、その封筒、うちに持って来てくれない?」



 母は、僕がイギリス留学を終えて戻って来た頃に長らく勤務していた出版社を定年退職し、それまで住んでいた船橋の自宅ではなく、鎌倉の祖父の家に移り住んだ。僕がひとりで大丈夫かというと、

「もともとあそこは私の実家よ。ご近所さんは代替わりしたりしてるけど長く住んでいる人が多いし、友達も近くにいるから」

「そんなもんなの」

「そんなもんよ」

母はこともなげに言った。

「それに、私がいつまでもしげちゃんと一緒に住んでるといかにも母子分離が出来ていない、婚活で敬遠されるような悪条件になっちゃうじゃないの。お嫁さんだっていづらいでしょ」

と、別に結婚の予定も相手もない僕に言った。そう言う人だから、行政書士事務所からの封書の話に反応したのは驚きだったのだ。


 僕は結局、仕事が休みの日に鎌倉の母のもとへ封書を持って出向くことにした。

「駅から結構歩いたよ。あんなに時間かかったっけ」

さすがに坂が連続していてきつい、と思った。鎌倉は中学生以来来ていないから、こんな坂だったかどうか記憶になかったのだ。

母はお茶を入れながら

「しげちゃん、江ノ電の方からきたの?」

と訊ねた。

「昔よく江ノ電でおじいちゃんちにいったじゃない。終点の片瀬江ノ島まで乗っちゃって泣きながら戻ってきたりとか」

「そんなことあった?!その時の記憶然僕にはないよ」

母の話では、この家は湘南モノレールの片瀬山駅からの方が、江ノ電の腰越駅よりも近いというのだ。失敗した、と思った。何故か勝手に、鎌倉なら江ノ電だろうと思ったのだ。

「で。その封書って」

「これ」

僕はテーブルに封書を置いた。母はその封書を取り上げ、鋏で封を切った。

封書の中の書類をしばらくあらためていた母は大きくため息をついた。

「どうしたの」

「何から、聞きたい?」

「何からって…中の書類は横井さんのことなんでしょ。母さんから横井さんの話なんてちょっとしか聞いてないじゃないか」

母は封書をテーブルに戻した。そして、言った。

「横井先生が亡くなったの。遺産のことで…来てほしいって」

「行ってらっしゃい」

僕が手をひらひらさせると、母は首を振った。

「行かないわよ。何で今更…横井の家とはとっくに切れて」

「でもこうやって、行政事務所から連絡が来たんでしょ」

「だったら」

その次に母から出た言葉は、僕を唖然とさせた。

「しげちゃん、あんたに頼むわ」

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