月詠の鏡

さきぱんだ

序章

 シングルマザーのひとりっ子として育った僕は、美術専門誌の編集者として働く母の収入と、大学医学部の教授をしていた祖父からの援助のおかげで経済的にはそこそこに恵まれていたと思う。

 本来なら国公立大学を受験しなければならないのを、僕の我儘もあって都内の私立音大を受験し、奨学金を受けることなく卒業できたのはつまり、そういうことだ。


  母がどういう理由でシングルマザーになったのか、ということは分からなかった。その話をしようとすると、母は巧妙に話題をそらした。それでなんとなく聞くのがためらわれたのだ。

 戸籍について、謄本を僕が確認したのは大学を出、24歳のときにイギリスに留学するときにパスポートを取った時が初めてだった。それまで、戸籍がどうなっているかなんて気にせずにいたのだ。

 

 その戸籍謄本の「父」の名前のところに

     「横井 豊」

という、割とありふれた名前を僕は見つけた。

会ったことがないその人のことは、父親という実感がなかった。とにかく母は横井さんと一度は結婚したらしい、ということが分かった。だが、結婚していた年代は僕の生年月日とかなりずれていた。だからどういう理由で横井さんが僕を認知し、のちに結婚し、結果的に離婚したのかは分からなかった。


 僕が26歳の時、祖父が大腸がんで亡くなった。イギリスに国費留学生として留学していた僕は、祖父ががんであることも、そのために早期に大学を退官していたことも母の呼びかけで一時帰国するまで知らなかった。そして、祖父の葬儀が終わるとまたイギリスに引き返し、残りの留学期間を終えて帰国した。

 帰国した年に、恩師のつてで母校ではない関東の音大に非常勤講師の口を得た。2年後、常勤となり、別の音楽スクールでの講師の職も得たことや、母が退職して自分の生家であった鎌倉の家に引っ込んでしまったことから、僕は一人暮らしを続けている。


 その2年後から、物語は始まる。


 

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