日傘

冬気

日傘

 赤色。この色を見ると僕は昔のことを思い出す。夕日の下、僕は波の音を聞きながら思い出に浸る。日傘を差した少女。日に当たっていない白い肌と、幸せを忘れてしまったような、血のように赤い目をしていた少女。僕はぽつりと呟く。

「君がいなくなってから三年が経ったよ」


 居酒屋のかきいれ時が過ぎた店内で、僕は一人、掃除をしていた。ほかの従業員は僕に、最年少の役目だと言って掃除を押し付けて足早に帰っていった。八月の夜。時折窓から入ってくる風が熱をもった体を冷やしてくれる。店の奥にいる店長に掃除が済んだことを伝えてから帰宅の準備をする。この店長は僕が掃除係を押し付けられていることなんて、露ほども知らないだろう。電車に乗るためいつものように駅まで歩く。中学を卒業してから二年間、変わり映えのない日々。毎日必死に働いて、腹の満たされないわずかな食事をとることの繰り返し。でも、今日は違った。駅に行く道の途中には空き家が一軒ある。西洋風の三階建てのその空き家はただでさえツタが伸びていて不気味なのに、夜になるとさらに不気味さが増す。キィ、と音がした。よく見るといつもは閉まっているはずの空き家の門が開いていた。風で動いたのだろう。そう思って足早に通り過ぎようとした。が、門の前で僕は動けなくなってしまった。門の向こうの広い庭に人影が見えたからだ。それはこちらをゆっくりと向き、血のように赤い目で僕を捉えた。恐怖が体を固めてしまった。マネキンのように動かない僕に赤い瞳は迷うことなく近づいてくる。やっと互いの距離が近づいた時には、僕の恐怖は消えた。だが体は動かなかった。代わりに、美しいものを見たときの気持ちが体を固定していた。赤い瞳の持ち主は、僕の目をじっと見つめてきた。どんな怪物に見つかったのだろうと怯えていたが、目の前にいるのは顔に幼さが残っている少女だった。ただ、身長から考えて、小学生や中学生ではないだろう。

「あなたは誰? ここは私が使っているのだけれど」

 数分の静を破ったのは少女のほうだった。僕はやっと体の自由を取り戻して、口を開いた。

「ここは君が所有しているのかい?」

 気が付いたら、僕は彼女に惹かれていた。

「違うけど……そんなこと、あなたには関係ないでしょう」

 それは、決して恋愛感情をもったという意味ではなく、

「なら、僕がここにいても問題ないよね?」

 夜の静けさに無性に惹かれるような、普段気にもしない道端の花を美しく思うような、そんな感じだ。

「……ん……」

 そう小さく呟き、僕に不満げな赤い目を向ける。もしかしたら彼女は精一杯、不満を表現しようとしたのかもしれないが、顔の幼さのせいで拗ねている子どものようにしか見えず僕は少し笑ってしまった。

 ここで疑問に思っていたことを訊いてみることにした。

「なぜ君は、こんな時間にこんな空き家の庭にいるんだ?」

 不満げな赤が、少し寂しげな赤に変わった。彼女は僕から目線を外して空の月を見た。それからもう一度僕に目線を戻した。

「日中は外に出られないんだよ」

 たった一言、彼女はぽつりと言った。日中は外に出られないとは、どういうことだろうか。

「もっとわかりやすく言ってくれ」

 僕がそう言うと彼女は、僕の常識をひっくり返すようなことを言った。

「私、吸血鬼なの」

「……そういう痛い人なのか?」

「……違う。厳密にいうと、吸血鬼と人間の子孫。つまり、吸血鬼と人間の混血ということ」

 信じることができなかった。吸血鬼なんて物語の中だけの存在だと思っていた。なのに、実在していたなんて話を聞かされたら簡単に信じられないだろう。

「吸血鬼ということは血を吸うのか?」

「試してみる?」

 僕が聞いたことに対して、彼女は悪戯っ子のような顔をしてこちらを見た。僕が動揺していると「別に血なんて吸わなくても生きていけるよ。何十世代前からか血を吸わなくてもいいような体質になっている」と言った。とりあえず血を吸われてしまう心配がなくなった僕は心を落ち着けた。

「でも、太陽の光を克服することはまだできていない。だから、日中は外に出られない」

「太陽の光を浴びたら灰になって消えてしまうのか?」

 吸血鬼の特性として太陽の光をを浴びると灰になってしまうと聞いたことがある。

「いや、灰にはならないけど軽い火傷のようになる」

 納得した。それならば日中は外に出られない。

「あとさ、に」

「ニンニクと十字架は迷信みたいなものだよ。そんなものでいちいち灰になっていたら、とっくに種族が途絶えているよ」

「何で言おうとしていることが分かったの?」

「思考が単純そうだから、予想した」

 何か言い返してやりたくなったが、単純な思考では何も思い浮かばなかった。僕は彼女の話を聞いて吸血鬼の子孫は大変なんだな、と他人事のように思った。

「日中に外に出たいとか思ったことはないの?」

 ――無いよ――

 そう答えた彼女の赤い瞳が、かすかに揺れたのを僕は見てしまった。

 ふと腕時計を見ると終電が来る時間になっていた。僕は電車に乗るため、もう行かなければならなかった。

「明日、またここで会える?」

 思わずそう訊いていた。自分でも驚いた。初対面の相手にそういうことを言うなんて、僕の人生の中で無かったことだったから。ましてや、吸血鬼の子孫などと言う、怪しげなヤツに。僕だって、彼女の話を信じたわけじゃない。だけど、彼女の揺れた瞳を無かったことにするのは僕にとって難しいことだった。

 僕は、家に帰ってからパソコンを開き、ある考えを実行するために必要な情報を、インターネットの海から漁った。

 翌日、昨日と同じように居酒屋で働き、先輩から押し付けられた掃除当番を手際よくこなした。そしていつも通り、何も気付いていない店長に掃除終了の報告をしてから居酒屋の裏口を出た。いつもと同じことの繰り返し。ただ、いつもと違うのはこれから。普段なら何気なく通り過ぎる西洋風の空き家の門を開ける。相変わらず、キィ、と鳴った。昨日より明るさを増した月光に照らされた吸血鬼が、こちらに振り向く。血のように赤い瞳が昨日と同じように僕を捉える。だが、昨日のように体が固まることは無かった。

「何ですか」

「ついてきてくれ」

「なぜ?」

「いいから」

 赤い瞳はしぶしぶといったように、僕の後ろに影のようについてきた。何をするかは昨日から決めていた。おせっかいだと思われるかもしれないが、昨日の彼女の瞳を見た僕が、心に感じたことをそのまま行動に移した結果だ。自己満足といわれてもいいや、と思えるほどには覚悟は決まっていた。

 僕の足は、街中のある店の前で止まる。昨日ネットで調べた所だ。アンティーク調の店のドアを開ける。カラリ、とドアベルが鳴った。吸血鬼の子孫を店内の、ある棚の前まで案内する。少女は疑問を含んだ赤い瞳で僕を見た。

「選んで」

 彼女はどういうことだ、という目で僕を見る。それに対して僕は答える。

「昨日、君の話を聞いて僕なりに考えてみた。僕の単純な思考で出せる答えはこれだった。最適解、とはいかないが……」

 彼女はとっくに僕の意図に気が付いているだろう。だけど、あえて訊き返してきた。

「なんで……」

「本当は、太陽の下に出てみたいんだろう?君の目がそう伝えていた。僕は単純な思考をするが、君は感情を隠しきることが下手なようだな」

『日傘』それが僕の出した答えだった。太陽の光に当たることはできないが、日中に外に出ることはできるだろうと考えた。ただ、これは僕からの一方的なおせっかいだ。彼女がこのおせっかいを受け取るかどうかは、もう任せるしかない。

「うぅ……」

 店内で突然、嗚咽が聞こえた。僕の脳裏に最悪のパターンがよぎる。嫌な思いをさせてしまったというパターンだ。良かれと思っておこなたことが、相手にとって、ただただ不快になることだった、なんてのは少なくない。僕も今までにそんな経験は何度もある。ましてや、昨日会ったばかりの人物だ。

 しかし、それは杞憂だった。なぜなら彼女の目には涙とともに、喜びの色が溢れていたから。

 何色かあるうちから、彼女は落ち着いた赤色の日傘を手に取った。まだ出会って二日しか経っておらず、名前も知らない少女に何かものを買ってあげるなんて、僕の人生で、今回が最初で最後だろうな、と思った。

 翌日から僕らは、僕の仕事を終えた時間に、あの空き家で会うようになっていた。約束なんて交わしてない。だけど、自然と、それこそ約束でもしたかのように、僕らは空き家で会うようになった。今までのつまらない同じことの繰り返しの日々に、少しの非日常が加わった。僕にとってはそれがとても楽しかった。幼稚な言葉になってしまうが、本当にそう思ったんだ。

 でも、大抵の映画や小説は、幸せなことなんて長続きしない。僕の人生もその例に漏れず。

 最初に出会ってからぴったり三週間後、彼女は唐突に空き家に来なくなった。仕事を終えて、浮足立って空き家の前に行ったら、そこにはあの赤い瞳は無く、冷たく朽ち果てている空き家と、キィ、と鳴っている錆びた門があるだけだった。次の日も、その次の日も、空き家には誰も訪れなかった。

 こんなことになるとは、全く予想していなかった僕だが、もう彼女が現れないと悟ると、以前のようにひたすら仕事に打ち込んだ。不思議と悲しさとか、そういう類いのものは感じなかった。

 彼女が現れなくなってから二週間が経ったある日の帰り道、ふと道端の花壇に見覚えのある色の花が咲いているのを見つけた。あの血のような瞳の色だ。

 家に帰ってから、ネットでその花の名を調べるとゼラニウムだと分かった。この花の花言葉も載っていたので見てみた。この瞬間に、僕に今まで全部の悲しさや、寂しさが流れ込んできた。涙が止まらなかった。

 いつの間にか泣き疲れて眠ってしまったのだろう。翌日僕は、床の上で目が覚めた。この時にはもう決意は固まっていた。その日に、次の給料日を過ぎたら辞めると店長に伝えた。予想通り店長はあっさりと承諾した。

 仕事を辞めて翌日、僕は銀行に行って貯金を全て引き出した。自分で思っていたよりも多く貯まっていた金を封筒に入れて家に戻る。買い取り業者に来てもらい、あらかじめまとめておいた本や家具などを全て売った。残ったのは、仕事に行くのに使っていたリュック。あと、冷蔵庫に入っていた食品たちと引き出した金、数十万。二つをリュックに詰めた。この家で寝るのも今日で最後。数日前にこのアパートの契約解除の手続きは済んでいる。明日になったら荷物を全て持ち、大家さんに鍵を返す。殺風景な部屋の真ん中で床の上に寝転がった。意識が途切れるまでにそう時間はいらなかった。

 眩しくなって目を覚ました。窓から赤い光が入り込んでいる。カーテンも全て処分したから朝焼けの光でも眩しく感じた。リュックの中から林檎を一つ取り出した。退去前に部屋を汚してはいけないので玄関前に出て、朝日を浴びながら林檎をかじった。朝日に照らされた林檎はより一層赤く見えた。

 荷物を全て持ち、手続きを済ませ家を出た。数十万なんかでこれからすることを出来るとは思わなかった。だけどやらずにはいられなかった。

 僕は、赤い目をした彼女を探しに行こうとしていた。見つからない可能性はいくらでもあった。でも、それらは僕の足を止める理由にはならなかった。

 まずは東に進んだ。静岡、山梨、長野、岐阜、と四県をヒッチハイク、野宿を繰り返して回ったが、それらしい情報は全く掴めなかった。時間だけが過ぎていく。何度、朝日を見ただろう。何度、夕日を見ただろう。何度、夢に彼女が出てきただろう。しかし、生きていくのに金は無条件にかかる。食料代に充てていた貯金も底をつきそうになっていた。三年もよくもったと思う。諦め時だと思って僕は、帰るためにヒッチハイクをしてくれる車を探した。

 新居を見つける前に、どうせなら海を見たいと思った。一度も見たことが無かったんだ。海まで行く車にヒッチハイクしてもらい、海に着いた。ドライバーに聞いたのだ。ここは人口ビーチで近くにある空港の夜景が綺麗だという。夕焼けの赤い光に包まれながら、砂浜まで下りてゆき腰をおろした。

 赤色。この色を見ると僕は昔のことを思い出す。夕日の下、僕は波の音を聞きながら思い出に浸る。日傘を差した少女。日に当たっていない白い肌と、幸せを忘れてしまったような、血のように赤い目をしていた少女。僕はぽつりと呟く。

「君がいなくなってから三年が経ったよ」

 結局見つからなかった。今は、目の前の赤い夕日が憎たらしく見えた。


 夕日を眺めていた目が何かを捉えた。それは、落ち着いた赤色をしていた。考えるより先に体が動いていた。見間違えようがなかった。だって、それは僕が買ってあげたものだから。だって、それは僕がずっと探していた人だから。

「あ、あの!」

 日傘を差したその人は僕の声に反応して、ゆっくりとこっちを見た。ずっと探していたあの赤色。僕は遂に出会うことができた。こんな時になってもかける言葉が見つからない。名前ぐらい聞いておけばよかったと思う。でも、そんな後悔はすぐに消えてなくなった。なぜなら、彼女の目には涙とともに、喜びの色が溢れていたから。そう、日傘を買ったあの日のように。それから、二人して泣きながら言ったんだ。

 君がいて幸福だ、と。

 ここからは後から知ったことだが、彼女は葵という名で、突然いなくなったのは、葵の住んでいたアパートの大家が彼女が吸血鬼の子孫だと勘づき、追い出したからだそうだ。ひどい話だ。そのあとは、あてもなく彷徨っていたらしい。

 そして今、僕らは再開したビーチ付近に住みで一日一日、幸福を噛み締めながら過ごしている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

日傘 冬気 @yukimahumizura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ