The Only Blue Prince
急 ――年前パリ
今度は屋内だった。巨大で豪奢な縁飾りを施された窓からは、星々の明かりが漏れている。また夜だ。足を踏み入れたのは、宮殿の書斎だった。両壁に金の壺や絵画などの調度品を備えた部屋の中央で、一人の小柄な青年が机に就いている。誰だろうか、と注視して驚いた。弓なりの天井から降ろされた照明のきらびやかさも、飾られた多くの価値あるものも、彼に比べて見劣りした。この部屋の主であるに足りる風格を纏った青年は、大黒柱の大時計を見つめている。
「兄上。お疲れ様です、いよいよ明日ですね」
何か気付いた様子の彼は、こちらを向き、優しく微笑んだ。一瞬で、穏やかな空気が場に広がる。振り返るが、後ろには誰も居ない。話しかけられているのはどうやら自分らしい。
彼は何者なのだろうか。勧められるまま、向かいの椅子に座って考える。と、言っても候補は一つに絞られていた。ここも恐らくは
「準備などは、もう済まされたのですか?」
紡がれた言葉は、不思議と深く心に染みていく。溢れる才気。権限九の
何の準備かさっぱり分からないのを取り合えず頷いて場を繋ぐ。ここは、三王国の一角を成す王家の宮殿だそうだ。彼はその第四王子で、つまり
「ここにいらっしゃいましたか。お二方、お飲み物でございます」
しばらくして、書斎に新たな人影が入って来た。執事長だ。細身に髭を生やした壮年の紳士は、机に二人分のカップを置いて透明な液体を注ぐ。何で湯気立つ飲み物を挟んで、執事長と目が合う。
「どうかされましたかな、――様」
途端に、説明のできない忌避感が全身を襲った。慌てて逃げ出して、入り口の大扉にぶつかる。鍵がかかっているのか、開かない。馬鹿な。イヴリーヌ宮殿
「――様」
後ろから、執事長の声がする。混乱する脳の思考に、危機感と吐き気が蓋をした。壁際の調度品を弾き飛ばしながら駆けると、宮殿のどの部屋にも設けられた緊急通報ボタンは目の前だった。押す。鳴る柱時計。顔を上げると同時に、天井の吊り照明が粉々に砕けた。自分の荒い呼吸音と共に、周囲を塗りつぶしていく破砕と闇。青年も執事も部屋も黒く染まり、何処からか声が響く。
夜明けまで少し。 ――わたしを、探してください。
世界がゆっくりと明けた。積み上げられた亡骸の丘に遠く広がった死の水平、低く浮き、最早沈みかけた扉の枠線の月は、夜明けが近いことを知らせている。先ほどと同じ破の空間。けれども、ヴァータの姿は丘にはなかった。少女は独り、水に落ちた虫のように、海面に翅の羽ばたきを刻んでいた。
「――っ!?」
ふとこちらを振り向いた少女の口から、驚きと悲しみを伴って漏れた言葉。
応えるように、水平の果てから音もなく彼女に飛翔する巨大な四面体。
知らないはずの、記憶が目覚める。
遠い灯台から、王国軍の
――胸騒ぎがする。
夜を晒す輝きに向かって、走り始めた。立て続く破砕音も、いつの間にか凍っていた海面も、目と耳に入らなかった。息を切らしながら足を動かし、しばらく。逃げ場のないなかで、凄まじい破壊を浴びたヴァータは、打ち上げられた魚のように目の前にあった。真っ赤な血を引きながら氷に乗り上げた彼女は、焼けただれた黒髪の奥から、こちらに涙をにじませた目を向ける。痛みはない。あるのは、小さく口を動かす彼女から伝わる、言葉だけ。
あなた、なんで、こんなところに、いるの。
はやく、にげて。
自分のせいだ。ヴァータ・
悲しみと、怒りが全身を駆け巡った。それは、敵に対してのものであり、同時に自分に対してのものだった。
権限五、
「重なりきたるものを
「貴様、何者だ。なぜその文言を知っている!」
いきなり秘匿回線に切り替わり、怒声が耳に響いた。何故も何も、お前と同じように教えられただけだ。フランス王族だけに代々伝わる、上古の
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