残星涯天壇坂寐殯ー開

 闇に染まった視界は、夜が更けるように明度を取り戻した。あらゆるものがはっきり見えるようになって気付く。階段口の時間が止まっていた。頭上の土壁の底も、中空のセスも、踊り場に腰まで引き上げられたルベラも、一瞬に閉じ込められたまま、微動だにしない。水音もない。足元にうごめいていた波と、赤く拡がった瘴気は、二度と再現のできないまだらを維持している。静止した全てのなかで――ひとり、自分だけが動く。奇妙さに足元がふらついた。ぐるんと視線を滑らせ、息を飲む。

 振り返った廊下の先は、灰色の布で隠されていた。

 布の横の壁に、文字が彫ってある。


 三つの過去を見てください。

 不必要な明かりを消してください。


 異常事態がヘロンの能力によるものだということが、確信に変わった。自分の息を飲む音だけが、静止した周防分区に木霊した。続いて、歯を食いしばり、足音を響かせる。こんなふざけた状況で何をするのも躊躇われるが、何もしないわけにはいかない。三歩で布の前に来ると、動作させろ、と言わんばかりに壁面に現れたレバーを倒す。蛍光塗料によるものだったはずの階段の手すりの光が薄れ、周囲が暗闇に染まる。文字列の内容が、男女数百人の声となって、耳に響く。


 残星涯天壇坂寐殯ざんせいがいあまひなさかゆめもがり 

 序 四〇年前ムルトエモーゼル県サントワ


 また世界が醒める。最初に火が見えた。一瞬、その火は瞬いた。轟音。夜の闇のなか、熱風が肌を伝い、眩しい光が目に染みる。自分の位置するそこは、周防分区すおうぶんくでも、知る限りの日本でさえもなかった。満天の星を冠した小高い丘の上から、眼下の街が炸裂した大規模な熱波に飲まれていくのが見える。 

 エッカーナが起こした廊下の火災の規模ではない。直ぐさま回れ右……した所で鼻先に何か当たった。黒く、柔らかい、何か。数十歩後退って、驚愕する。幕だ。振り返って、丘から向こう。天から夜空を縫い込んで降りた巨大な暗幕が、横一線に世界を閉ざしている。恐る恐る捲ってみると、深い闇を纏ったうろが顔を出した。


 ここから先は何もない。

 幕は言外に告げているようだった。


 ぐちゃぐちゃの思考のまま丘を下る。三つの過去を見て、不必要な明かりを消せ。ヘロンに状況を尋ねるには、街中に拡がった火災の光を消さなければならないというのか。月景帳げっけいちょう。無法にもほどがあるが、やるしかない。木々の間を抜け、背の高い草を飛び越えて走る。身体の疲れは何故かなくなっていた。

 防御常権ぼうぎょじょうけんを行使し、熱気に顔をしかめながら跨ぐ、倒壊した石造りの門。目抜き通りだったはずの長い石畳の道路は、へし折れた街灯と左右から倒壊した建物に塞がれていた。炭化した木片の奥から、潰れた石壁の下から、ヒトの腕が伸びている。腕は犠牲の概念のようなもので、触れることは出来なかったが、被害の大きい場所により多く生えていた。最も悲惨に崩れていたのは、通りの中央にある会館だ。唯一残った道路側の柱が、建物が二〇メートル相当の高さを誇っていたことを伺わせる以外は、全ての壁や仕切りや床面が爆撃で圧搾されている。

 街を焼く火は自然現象でなく、常権じょうけんだ。柱に引っ掛かった木片にはこうある。『県能力者協会は、サントワ市と共同し、現政権による要塞設営にかかる無補償の立ち退き要求を拒否する』。思い返される四〇年前、という言葉。看板にあるとおりのことをした能力者たちは、権力者の襲撃に遭った。結果、惨劇というには生ぬるい過去が、ここにある。

 壊された会館。足の踏み場もないほど咲いているヒトの腕の奥。目線と被るほど折り重なった瓦礫に刺さるように、布に覆われた扉が建っていた。布は熱波にたなびいて、表面に縫われた文字を揺らしている。


 地から絶たれたたかどのの孤独


 顔を上げると、焼き尽くされたサントワ市の上空に、巨石が浮いている。


「ごめん、選べないよ……ごめん……ごめんなさい」 


 直径一〇メートルはあろうかという白ぼけた塊。上面に独り倒れ伏した少年は、謝罪の言葉を繰り返していた。見る間に街の東部に位置する森の木々が、根元から赤黒い人の腕に変わっていく。風に煽られ、熱に爛れ、それでも彼の下に伸びる巨大な腕の群れ。少年こそが地獄の咎人だと、察するには余りある。そして、全く面識のないはずの彼が何者なのか、不思議なことに自分は気付いていた。


 一人しか乗せられぬのだ。


 ある言葉が頭を過る。大火に飲まれた街、能力によってそこから逃げられた彼は、しかし自身と共に救える他の一人を、選ぶことが出来なかった。――ここは、ジアの過去だ。

 ギィイイという音に目を降ろすと、会館の残骸に刺さった扉が開いている。文字も『破』と書き変わっている。この火災を鎮火するのではなく、まずは次に進めという指示だ。エッカーナや周防分区すおうぶんくのことを考えると、無駄にしている時間はない。天に座す独りきりの少年にもう一度だけ目を向けたあと、足を急がせた。


 残星涯天壇坂寐殯ざんせいがいあまひなさかゆめもがり

 破 八年前カンパーニャ州サレルノ


 今度は眼下に半島が見える。さっきのように何か災害が起きている様子はないが、穏やかな夜の波が寄せて返す浜辺には、一人の少女の姿があった。身長的に不相応な丈の長すぎる服をいくつも重ねて着込んだ彼女は、呆れた眼差しでこちらを見上げている


「……みんなが脆いのが、悪いんじゃないの」


 耳を劈く囁きに打たれて、大きく足下がぐらつく。彼女の正体を何となく悟ると同時、もう一つ、重大なことに気が付いた。浜辺の向かい側、海には丘などない。白い服の少女を見下ろす自分が立っていたのは、中空にある『破』の扉の細い庇だった。

 一歩踏み外し、視界が数転する。頭から突っ込んだ水面は、少女に気付かれない大きな波紋を刻む。距離がそこまでなかったのが助かって、浜辺までどうにか辿り着く。喉に入った水を吐き、立ち上がって海を向くと、思った通りの光景が目に入った。朝に傾いた夜半の月。広く照らされた穏やかな波間には、ぽつぽつと魚の死骸が浮かんでいる。


「――悉率ハルゴル


 死の傷を織る羽


 静かな声が響いた。数秒遅れて砂浜が激震する。ふらつきながら、離れた海辺に立つ少女に視線を向けて、驚愕した。墨に塗られた彼女の服を突き破って、虫の翅が伸びていく。コロコロと擦れあって音を鳴らす翅。四つん這いになって、海に歩みを進める黒い彼女の足下から、砂がゆっくりと引いていく。

 そこに現れたのは、延々重なり合った動物の骸の丘。音に当てられて、周囲の木々も葉先から腐っていく。注意を向けられれば、生きていられる自信がない。月明かりの晒す夜。雨のように降る渡り鳥。血走った藍の両眼に、何百万もの傷口を写して揺れる長い衣。天は彼女の背から伸びた幾条もの蒼白い瘴気になずむ。あまりに壮絶な死の予感を引き吊って、陸から海に侵攻する八年前のヴァータに、近づくことも、声をかけることもできない。

 『急』と彫られた分厚い金属の扉は、亡骸に刺さっていつの間にか眼前にあった。いまは先に進むしかない。息を吸うことが致命的にさえ思われる絶景のなか、心拍はどうにか落ち着いた。もはや災禍と言っていいヴァータから逃がれるように、足を速める。

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