東の春の心臓

 

 それは突然だった。ルベラ、セスと揃って食堂で遊んでいる最中、エッカーナが腹を抑えて泣き出した。抱き上げると、少年の柔らかな右頬には焼け焦げた線が浮かび、そこから黄色い液体が漏れ出している。以前、かこいに聞いた通りだ。どうやら、彼の能力が発現したらしい。

 『液呪えきじゅ』。エッカーナの能力は、自身の周囲で四つの災害を引き起こすというもの。少年の体力の関係で、いつも発動するのは最初の段階――火事だけだ。下層の階段壁面に焼けた跡があったのはこのためであり、月に一、二回の頻度で発作的に起動してしまうらしい。よりによって今日かと思うと、軽い眩暈がした。

 

 液呪えきじゅおう、南の夏の肝臓。――火。

「大丈夫。ここを動かないでね」


 泣いたままの少年をルベラに任せて、台所にある空のバケツを掴み、階段を駆け下りる。想定されうる危険に全く備えない周防分区ではない。エッカーナ自身は自分の能力がどこで発現しているかを認識できないが、かこいはこの少年の能力の発動時に、燃えている箇所を特定して警告を出す機能を分区に組み込んでいる。自分がするべきことは、そこまで走って水をかける――エッカーナの火は、水以外では消えない――だけだ。

 中央階段。鉄板越しに見える眼下に、火事が起きている様子はない。なら、何処かの部屋か廊下が燃えているということになる。走る足に力がこもり、心拍が早まる。丁度『十八層』の踊り場の看板が右の視界を掠めた瞬間、第一報が届いた。

 

 注意を向けよ

 緊急連絡・分区南棟大廻廊ぶんくみなみれんだいかいろうが延焼中

 消火作業を急げ、繰り返す……


 南棟、廊下。あそこは周防分区で一番長い。図書室や寝室と違って、何もないただ広いだけの空間。良かったと深く息を吐き、吐き切った所で二人の姿が頭を過った。ヴァータとヘロン。南棟に隔離された能力者たち。彼らは無事だろうか。廊下の一部が燃えている分には構わない。けれど、火災が彼らの至近距離で起こっていたらどうだ。考えるほど嫌な予感が脳裏を過る。心拍が早まる。そもそも台所に貯めてあるボトルを抱えてくればよかった。水を汲んでから戻るか、直ぐに駆け付けるか。二つの選択肢が頭に浮かび、より距離の近い方を手に取った。足を止め、引き返す。扉をこじ開け、南棟へ走る。

 南棟行きの連絡口に飛び込んで、自分の判断が正解だったと悟った。目の前の丁字路、その右方から神々しいほどの光と熱気を伴って、火炎が溢れ出している。波打つ彩度と逆巻く風。暗かったはずの廊下は奥側から白熱に焦がされ、紅蓮の地獄と化していた。想像していた規模ではない。遥かに長い火の橋が丁字路から先に架かっている。

 橋は延焼しながらさらに廊下を蝕んでいく。暴威が右廊下の突き当り、ヴァータの部屋へ至るまで、あまり時間があるとは思えない。当然バケツ一杯程度の水では消火し切れないだろう。食堂のボトルを全部持ってきても数が足りない。走って何往復も地下水を組んでくるしかないが、その間にあの女性がどうなるか。

 干上がる喉のまま頭を働かせていると、視界の中央に別の女性が現れた。あちっと声を出し、後ろを振り返って驚く五重掛けのドレスの女性。


「ど、どうしよう。え、えてる!」

「落ち着いて。ここは危ないから、戻っていて」


 慌てた様子の彼女を見て、反対にこちらが冷静になる。セスは『昼霞ひるがすみ』、簡単にいえば、他人の視界から消失した途端に、別の他人の目の前に瞬間移動する能力を持っている。間違って危ない場所に彼女を連れてきてしまった時には、視界から外すことで他の分区員の所へ追い返せる。……待てよ。


「ちょっと良いか。セス、頼みたいことがある」

「え、うん」


 ドレスの女性の能力を想起して、ふと、この火災を鎮める方法を思い付いた。セスにも少なくない危険が及ぶ無理やりなものだが、迷っている暇はない。警告の第二報。ヴァータの部屋に火が到達するまで、残された時間は僅かだ。いま浮かんでいるこれ以外に、現状を打開可能な術はない。


大丈夫だいじょうぶ、わたしやる!」


 説明をし、頷いてくれた彼女にバケツを渡す。

 そして、目を瞑る。


「常権、権限三、斥進殻せきしんかく、行使」

「常権、権限二、量端衣かさばごろも二津合ふたつあい、行使」

「常権、権限一、夢庇ゆめひさし八津合やつあい、行使」


 持てる余力で、セスに渡した半分以下の防御常権を展開し、息を整える。炎熱に混じって、遠くで音が聞こえた。ガガガ、と。とんでもない速度で中央階段を下る音。


 『目を閉じたエッカーナを食堂に置いたまま、ルベラと一緒に日本最下脈路にほんさいかみゃくろまで降り、バケツに水を汲んで、それから……』


 頼んだことを、セスはやってくれているようだ。こちらも準備に動かなければ。大きく息を吐いて、閉じた目蓋を赤く照らす火の海に飛び込む。思った以上に熱いが、気にして立ち止まれば焼け死ぬだけだ。南棟の構造は単純。目的地、ヴァータの部屋に着くには、丁字路を右に曲がってひたすら直進すれば良い。

 走れば走るほど、熱と関係のない様々な痛みが沸いてくる。ヴァータ、『死傷羽織ししょうばおり』という、他人の傷を全身に纏いながら、その痛みを周囲に撒き散らす能力を持つ彼女に、近付いている証拠だ。およそ一分の全速力を以て、灼熱の橋を渡り切った。途端、そのまま鉄の扉に正面衝突する。部屋の前に着いたらしい。熱と痛みにふらつく身体で振り向くと、相変わらず目蓋は明るく照らされる。皮膚感覚でも、もう少しでここまで到達するのが分かる。


「助けに来た。悪いけど、少し下がっていてくれ」


 声を飛ばす。返答の代わりに、肌を刺す痛みがある程度まで引いていく。気付けば、階段を下る音も聞こえなくなっている。これで、準備は完了した。壁際を向いて目を開く。そこには満杯のバケツを持ったセスが立っていた。地下の寒さにも負けず、いつも通り元気な様子で出てきた彼女だったが、流石に間近のこの熱と痛みは堪えるようで、見る見る泣きそうな顔になっていく。

 自分自身の倍以上。可能な限りの防御を施しても、権限三では熱いものは熱いし、痛いものは痛い。そう毎回長居をさせる訳にはいかない。彼女からバケツを受け取って迫る橋に浴びせる。何が燃えているのか良く分からないこの火災は、栫からの説明通り水で少し後退した。空になったバケツをセスに預け、目を瞑る。

 以下、地下と南棟の火災現場を延々ドレスの女性が往復する『セステレポート作戦』は自分とルベラを基点として二十分続いた。火がある程度後退して、温度と痛みの程度がどちらも収まってから、自分を護る防御を全てセスに渡す余裕が出来た。こうなると、バケツを一旦こちらにもらう必要もなくなる。鮮やかに舞う水のなかに、黒衣を揺らして踊る背中。うぉお! とりゃーっ! 目を開くたび、勢いの良い掛け声で火を押し返していくセスは、とても真剣で頼もしく思えた。


 注意を向けよ

 連絡・鎮火を確認――ご苦労様でした


 栫の声を模した機械的な音声が耳を打ち、平坦な労いの言葉をかけてくる。バケツを持って再び現れた女性は、もう第何報ともしれない通信でその場にへたり込んだ。着ているドレスと同じように煤と水に塗れた頬には安堵の色が浮かんでいて、こちらに優しい笑みを向けている。

 用済みのバケツを適当に軽くし、セスを背負う。通信のお陰でルベラにはもう情報が伝わっているので、地下に送り返す必要はなくなった。肩から回った彼女の腕を視界に収めながら、足を進める。態度には出さないようにしたが、自分も常権を使い過ぎたり熱に当たり過ぎたりで限界だ。取り合えず、食堂か何処かで休憩にしよう。

 丁字路を曲がる。眼前、開け放たれた本棟の扉から、一条の明かりが見えた。火災でなく、いまや懐かしい蛍光塗料の光だ。舞い込む涼しい風が、少し爛れた肌を撫でて通り過ぎていく。全身が軽くひりつく、一歩手前。それとは比べ物にならない、鈍器で思いっきり叩かれたような衝撃が、両耳を貫いた。


「……ごめんなさい」


 小さな涙声だった。遥か背後から飛んできた謝罪は、溢れんばかりの悲痛と実際の激痛を伴って、強く頭を揺さぶった。ヴァータだ。『死傷羽織ししょうばおり』に起因してか、いま初めて聞いた彼女の言葉は、酷い痛みを孕みながらここまで届くらしい。反射的に戻って何か声をかけようかと思ったが、走って一分の距離を加えて往復するほどには、体力と気力が続かない。

 帰りの階段で、ついセスを見失った。集中力もかなりガタが来ているようだ。蛍光塗料の塗られた手摺を伝いながら、食堂までの四階層はとても長く感じられた。

 先に戻っていたルベラに労いの言葉をかけて、手近な椅子に座る。怠さと眠気が尋常ではない。部屋の中央のテーブルの前に立って何故か困惑したような表情を浮かべている色の白い少女を横目に、まぶたを閉じる。

 思い返せば、前にもこんなことがあった。食堂にルベラが現れ、二人きりになって酷く恐怖したものだった。結局まだあの連日の襲撃の理由は彼女の口からは聞けていないが、もうそんなことは起こらないだろう。、驚いた顔をしているのはルベラの方だ。ははは、と、疲れた体に笑いがこみ上げる。

 今日を何とか出来たのは、分区員の協力のお陰だ。セスには本当に苦労を掛けたも彼女は南棟に行く機会などない。長い廊下とヴァータの部屋には彼女を捉えられるほどの照明が設置されておらず、加えて、もう一人の住人、ヘロンは周囲を暗闇に閉ざさないと見つけられない特性を持つ能力者で、全盲だ。食事を運びに行く際に間違って連れていってしまわない限り、見られなければ存在できない彼女は、南棟へ現れ得ない。

 息を吐いて薄く目を開ける。目の前には、未だ困ったような顔をしたルベラが立っていた。何か言いたそうな様子の彼女と視線が合う。この少女にも、寒い地下通路で頑張ってもらった。大急ぎで階段を下りてくれたのだろう、良く見れば、彼女の両手の指には新しい絆創膏が貼られている。


「今日はありがとう、改めて、お疲れ様」


 立ち上がり、声をかける。しかし、小柄な少女の表情は一向に明るくはならない。何か、気になることでもあるのか。首を捻っていると、ルベラの背後、テーブルの奥の方にセスが現れた。――え? ようやくそこで、自分の間抜けに気が付いた。

 

大変たいへん! 南棟みなみれんに!」


 ドレスの女性の慌てた声に、大体を悟る。セスが現れたということは、何処かに人がいて、その人が彼女を見失ったということ。その何処かとは、セスの言った南棟。彼女が見えなくなることを考えれば、消火が終わった丁字路を少し進んだ辺り。そして、誰かとは、、エッカーナだ。中央口で鉢合わせなかったので、恐らく外付けの階段を使って下の階層から入ったのだろう。ともかく、彼はこの二十分の間、食堂で待機しておらず、一人南棟へ向かった。


「ごめんなさいってってた、めたかったけど、ダメだった……どうしよう!」


 続く言葉を聞き、腰を上げる。警報で、自身の能力が他の分区員を危険な状況に陥れていることを知った彼は、言われた通り大人しくしていることが出来なかったのだろう。謝りに行った。放送ではどちらの部屋に火が迫っていたのかは明らかではないが、南棟に着けば、余熱と水で、丁字路を曲がって右、ヴァータの方だと分かるはずだ。そして、それは本当にまずい。

 消火したとはいえ、あの廊下はまだひどく熱せられている。加えて、向かう先、ヴァータは周囲に痛みをばら撒く能力者。彼女が悪い訳ではないが、その力が少なからず危険であるのは確かだ。

 組み合わさった状況は最悪に近い。すぐにエッカーナを連れ戻さなければ、間違いなく惨事になる。走り出そうとして、目を落とした食堂の床に、色の違う液体。


 液呪えきじゅこく、西の秋の脾臓ひぞう。――土。


 食堂の入り口を塞ぐように分厚い土壁が現れたのと、飛来したルベラが槍で突き崩したほぼ同時だった。激震。テーブルが吹き飛び、椅子が宙を舞う。ドレスの女性を抱きとめると同時に、疲れ切っていた頭に血が巡り、身体に無理やり動くだけの熱が灯る。ついてこい、と一瞬だけ振り向いた小柄な少女に頷く。セスを抱えて、走るルベラの後を追う。中央階段まできたところで、床に点々と散る液体にさらに別の色が混じった。


 液呪えきじゅそう、北の冬の脳。――水。

 

 弾けるような波音が下から迫る。視線を向ければ、いま立つ折り返し式の階段の数階層分下方に、どんどんとせり上がってくる水面が見えた。栫の声の警報が耳に入る。どういう原理か全く分からないが、周防分区が全体が水没しているらしい。バゴォンというくぐもった破壊音が立て続き、下層から順に各階層のドアが圧砕されていく。南棟への入り口がある十八層に、莫大な量の液体がなだれ込むまで時間はない。

 喉が干上がるより前に、頭上に飛びあがる小さな身体。獣のような雄たけびと共に、赤い軌跡を引いて、槍の群れが躍動した。右下と上に、閃光。五本が中央階段の北面を大きく抉り落として水を排出する。別の五本が、一層から鉄の足場を圧し潰して降ってくる数トンの土壁を粉砕する。セスから目を離さないようにしていても、崩れるように降り立ったルベラの息が荒いのは分かった。もう階段口は崖になっている。乱れた髪。少しふらついて、手すりを掴む汗まみれの少女。彼女の口から吐き出された血液が、かさを減らし始めた水面に混ざる。――その瞬間。


 液呪えきじゅしゅ、東の春の心臓。――空気。


 周囲を、真っ赤な瘴気が覆った。権力者けんりょくしゃであり、透明な膜を持つ自分は、意識を失って壊れた階段から転げ落ちそうになる二人に辛うじて手を伸ばせていた。それぞれの体重を支える両腕がジンジンと痛む。吊枷つりがせを唱えてみるが、疲れからか発動できない。他の常権もだ。息を整えようとしても、早鐘を打つ心臓が言うこと聞かない。胸が痛い。頭が空っぽだ。まずはルベラたちを助けなければ。

 声帯を焼く大声を張りながら、全力を振り絞り、引き上げる。身体を逸らし、天を仰ぐ視界。左手から消える重さ。一層から加速して五メートルの距離に迫る土壁の底。そして、降り注ぐ死と自分の間、眼前の中空に現れる、気絶したセス。

 

 月景第九げっけいだいく――残星涯ざんせいがい天壇坂寐殯あまひなさかゆめもがり


 一秒先に迫る惨劇を、底知れない闇が飲み込んだ。

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