外出任務ー2 指趾十界犀槍
メーゼにせっつかれながら、再び踏みしめた
湖は雨と砂に相当量のルタアブという成分が混合したもの。ルタアブはまだ少しだけ生きているデイツの樹液だそうだ。揮発性が高く、しかも一つ所に留まるとすぐさま固形化するので、飲み込めば手早く吐き出さないと死ぬらしい。いまは湖自体の水分量もあってほとんどが液化しているが、覆日には約半分が砂に混ざって気体となるため、能力者にはマスクが必須だとか。火を近付け過ぎると爆発するから、気を付けなさいよ、と付け足してメーゼは説明してくれた。
分区の外付けの階段を下り、近くの根に飛び乗って二人で進む。
他の要員、少女と大男――ルベラとジア――は先に行ったらしい。
「この討伐任務、対象はどんな相手なんだ?」
「
それならわざわざ連れてくる必要があったのかと思ったが、
「湖の下にも空間はあって、盆地になっているの。そこは『
メーゼが指さす方向を見る。数百メートル先の根の上に、化け物がいた。人の顔を模した仮面を付けた、六本足の機械の獣だ。ここからでも聞こえる、ギギギギという唸り声。立った自分の二倍ほどの体高は、隙間なく金属質の甲殻に覆われている。口腔から舌の代わりに突き出ているのは蒼白い砲身で、頭を振り回すように捻っている長い首も不気味だ。
「あんたは相手しちゃダメ。見付からなければ襲って来ないから、そっと行くわよそっと」
メーゼは言って、化け物の死角となるように根の端まで移動すると、またそこからゆっくりと足を進める。しかし、倣って静かに彼女の後を付けている最中、炸裂音がした。見ると、遥か前方に赤い花火が上がっている。ジアが出かけるとき持っていた、緊急用の信号弾だ。途端にメーゼの顔色が変わった。
「ちょっと行ってくるから、ここでじっとしてて」
赤い髪の彼女は、根の端から足を踏み出す。瞬間、冷気が自分の体をなぞった。見下ろすと、足元の湖の水面を冷え固まらせて、わずかな高さでメーゼが浮いている。燃え立つ赤い髪が、彼女の纏う超高温で逆巻く。直後、急加速。近づいた途端凍結していく根の群れを掻い潜りながら空を縫う彼女の
周防分区長メーゼの能力は、
立ったままで待っていても見つかるだけだ。根の中央まで戻って腰を下ろす。機械の獣はさっきより遠くに移動している。寝転び、目を開けると、灰色に覆われた空が視界に広がった。あれがいつかの本にあった『
The constellation of our hope , "DAKTULOS"
一陣の風が吹いて、突然にそれは顔を出した。頭上にも張り巡らされた根の奥。裂けた厚い層の隙間に、白い巨大な鋼と、黒く刻まれた文字が見える。何が書いてあるのかは分からないが、自然と心が引かれる圧倒的な存在感があった。図書室で適当に読み漁った限りでは、これは『
怪物の姿がないのを確認して、立ち上がる。
思考を続ける頭に、ふと音がした。少し前に聞いたのと同じ、飛び降りる音が、真上から。笑いが出るほど分かりやすい殺気を伴って、事すれば三回目にもなる嫌な予感が全身を駆け巡る。確認の必要はなかった。手近な、数メートル下を行く別の根に全力で走る。
連続した爆轟は実に十回。粉々に砕けたのは直下の根だけではない。血の赤を伴った衝撃波は、砂塵の層と橙の湖を縦に貫いてから拡散し、周囲一帯を文字通り根こそぎ吹き飛ばした。被災半径は、およそ百メートル。当然ながら、直前に爆心地から走り逃げたくらいでは巻き込まれる。
気持ちの悪い浮遊感。直撃は上手くかわしたものの、余波が風の壁となって迫り来た。使える常権は変わらないが、わずかな日数でもそれらの練度は上がっている。いままでとは違い、相手の能力が詳細まできっちりと頭のなかだ。
「
薄い楯でも重ねればいくらか意味を持つ。遠く中空にまで吹き飛ばされて、全身打撲と切り傷で済んだのがその証。目眩も吐き気も出血もあるが、まだ動ける。グルグル回る視界で確認したところ、辿り着けそうな足場は直下を十字に区切る二本の根だけ。どちらも幅は一メートルほどと細く、着地を損ねれば、橙色の湖に真っ逆さまだ。
「常権、権限二、
対物の念動力。重ね掛けで、着地地点と速度を微調整する。しかし、結局目指していた場所へと降り立つことは叶わなかった。唐突に邪魔が入った。白い肌と髪に自身の血を飛び散らせ、半数が赤く染まった二十の槍を伴って、爆心地から突っ込んできたのは、襲撃者本人だった。
彼女、ルベラは、激高してはいなかった。かと言って、邪気を纏った笑いも見せない。淡々と作業をするときの無表情が、眼前数センチに止まっていた。一瞬、目線が交差する。暗く淀んだ彼女の目からは、やはり何も読み取れない。興味を持つ相手でもなく、憎悪するべき対象でもない。きっとルベラには、こちらはただの動く的に見えているのだろう。そんなことを考えていると、不意に頭を掴まれた。彼女はもう一方の腕を引き、背中に全ての槍を回して加速する。
『
ルベラの推進力は高い。景色が荒れ狂うように後退していき、最終的には背中に激烈な痛みを伴って止まった。口から血が垂れる。何処かの巨大な根の側面に叩き付けられたかと思ったが、違う。背後は灰色、壁だ。デイツを囲う広大な橙の湖。その淵に、自分の身体は半分めり込んでいた。ツーと、変な感覚がして、耳が聞こえなくなった。視界も狭まった上に彩度が識別出来なくなる。モノクロ世界で、眼前の少女は腕を引いていた。十連の次、戻って、出の早い一撃目。かわすことは叶わない。彼我の距離、僅か三十センチ。滞空する彼女は、淡々とこちらの腹に手を伸ばす。直撃すれば確実に命はない。そして、何もかもが間に合わない。――だが。
不意に、彼女の身体がぐらついた。それが何によるものなのかは考えない。改めて、数瞬の猶予が与えられた。なら、口は開く。
「常権、権限二、
噛まなかったのは奇跡だろう。小さな火弾が足元に発生する。ぼうっとした頭で考えていたのは、時間稼ぎだった。火弾は、元より照明用。人にぶつけるための動作制御が効くものでもなく、ただ規則的に、行使者の足を傷付けないように避けて回る。いま、自分の足は壁淵にぶら下がっていて、自然と火弾は眼前に躍り出る形になる。そうすれば、この距離だ。彼女にも幾らか熱い思いをさせることができる。
眼下前方数百メートルの先に見える、白い双塔、周防分区。そこまで辿り着き、栫でも何でもの助けを借りるための算段として自分に取れるのは、その場凌ぎの連続だけだ。
繋ぎの一手、火弾。申し訳程度の照明である小さな火球が、
不意な爆塵が身体を叩く。反動で壁淵から弾き出され、同時に右腕の肩から先の感覚が消失する。しかし、眼前の少女も無事では済まない。むしろ、炸裂はこちらよりあちらに近い所で起こった。指は霧消し、彼女の口から多量の血が吐き出される。今まで相当な無理をしていたのか、ふらっと、虚ろな目で改めてこちらを見た後、力の制御を失い、ルベラはゆっくりと崩れ落ちていく。
百メートル下。
橙の湖へ、二人揃っての墜落が始まった。
焼け付いた脳で考える。液体相手だろうがこの高さだ。張っている楯がどれほど機能するか分からないが、彼女の攻撃に対しての性能を鑑みると間違いなく期待は持てない。軽い念動力を加えた所で、まだ助かることは難しいだろう。
何かないか、思い返す。落下死。その危機、経験がある。
周防分区に来たときのことだ。栫が行使していた常権がある。権限三、
「ジ……がぁ……」
――出来なかった。
喉に強烈な痛みが走る。どうやら、爆発で声帯までやられたらしい。何処までも無音。赤く染まって風だけが頬を撫でる世界に一人。たった一歩目で、その場凌ぎは終わりを迎えた。八方を巡る視界のなか、ルベラの姿が目に付く。血塗れの彼女は、こちらに右腕を差し伸べてきていた。この痩せぎすの少女は、自分と違って楯を持っていない。水面に直撃した場合、彼女の方は確実に絶命するだろう。
思いながら、動く左腕で至近の彼女を抱き寄せる。襲撃者の細い小さな体は、とても痛々しく傷付いていた。呼吸も微弱で、目の焦点も合っていない。不思議と怒りや憎しみが沸いてきたりはしなかった。事すればお互いもう十秒もない生だ。熱量を伴った余計な情念は削ぎ落とされて、ただ穏やかな自己だけが中空に残る。
ルベラは、どういう人間だったのだろうか。抱えた微かな心拍に、意識を向ける。彼女には、狂気染みた所が多くあったが、それだけではなかったかもしれない。結局、彼女の本当について、自分には欠片ほども分からなかった。どうしてあんなに襲ってきたのか。その理由も見えないまま。
ルベラの血塗れた右腕が、こちらの首横を通り抜けていく。
不意に、脳の奥底が端を発して、全身に警告を上げた。助けなければ、と。この少女を救えと叫ぶ。動かない片腕。聞こえない耳。紡げない言葉と、空を映して暗く落ちていく視界の果てに、ようやく記憶を失った自身の本当の所が、ぼんやりと見えた気がした。
追って、背後に水面を叩く衝撃が奔る。
薄い白が意識を包み込み、世界は遠のいていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます