指先
くぐもった悪夢を見る。あの列車のなか、自分の手には血にまみれた一振りの剣がある。身体が重い。一歩進むごとに、肉と血の匂いが鼻をつき、生暖かい空気が全身を撫でた。日本到着まで残り一時間。右手側の壁に映った文字列を確認して背中を預けたのは、停車時に第二区画へとつながる扉だ。視界はひどくぼやけている。ぼやけているが、床にも、壁にも、天井にも、グロテスクな光景が拡がっていることは分かる。死の
「焼いた方が早かったでしょこれ」
言葉に驚く間もなく、耳鳴りがあった。夢の情景に不釣り合いな甲高い警告音。それは徐々に音量を増しながら脳内へ響き渡り、覚醒を強制させられる。
まぶたが開くと、鈍色の何かが首元に降ってきた。反射的に避けるが、少し間に合わない。下顎から頬までを冷たい感覚が貫き、浅く裂けた血の線が浮かぶ。自身の枕に突き刺さっていたのは、刃渡りの長いナイフだった。そして、その柄を片手で握り、仰向けの自分に馬乗りになっているのは、あの痩せぎすの少女だ。
ルベラが、凶器を持ってやってきた。
眼前に、ひどい現実がある。ひりつく傷の痛みと、彼女の邪悪な笑顔が相まって、夢の記憶が急激に薄れていく。もう襲われないって話だっただろ、メーゼ。愚痴を吐き捨てる隙はない。もう片方の腕を引き絞る少女の身体を跳ねのけ、ベッドから降りる。
目の前には部屋のドアノブがあるが、手を伸ばしている余裕はなさそうだ。振り向き様に両手で、首裏を狙う彼女のナイフを受け止める。もう一方の腕で二発目かと思ったが、違う。彼女は空いた手を伸ばして、こちらの喉を潰しに来た。
強く床を蹴る。わざと腕を取ったまま前方に飛び、壁際のベッドに押し倒す。ベッドの上、馬乗りになってなお、少女の白い指は首に食い込んでいる。展開的には、この前とあまり変わらない。早まる心拍を押さえて、呼吸を整える。
目と鼻の先、浅く裂かれた自分の首元から相手の頬へと、血が垂れていく。真近で再三見た彼女の顔は、やはり病的な笑いに彩られていた。足からの二発目を警戒し、彼女の腕を振り払いながらベッドから飛び退く。握力はこちらが上だったらしく、持っていたナイフは右手に奪い取れた。跳躍で詰められる程度の距離を空け、立ち止まる。記憶に新しい彼女の二発目は、容易に壁面を砕いて見せた。いま、部屋の外に走り出るべきではない。
「何が気に食わないんだ」
ナイフを正面に構え、尋ねる。その答えに至るまでの経緯は、既にメーゼから聞いている。加えて、少女が喋らないことも知っている。……けれど、改めて聞きたくなってしまった。こんな理不尽ばかりしやがって、と直接問い詰めたい気持ちもあったが、そこではない。彼女からナイフを奪って、思い出した。
――褒めてくれてありがとう。でも、今朝は忙しくて大体ルベラに任せたんだよ。勝てないね。
このナイフが、台所にあったものだということを。
今日の朝食を作ったのが、恐らくは目の前の痩せぎすの少女だということを。
小さな身体は、口を開かず一歩一歩と近付いてくる。次、彼女が腕を振りかぶったら、何としても背後を取らなければならない。覚えたばかりの初級の常権など、気休めにもならない。壁を砕く一撃を真正面から貰えば、何はともあれ確実に死ぬ。
跳躍に備えて、両足に力を込める。
その直後だった。
ゴン、と。唐突な衝撃が頭に響く。視界が明滅し、ふらつきながら数歩後ずさる。眼前には、硬く握られた白い拳。壁を砕くほどではないが、それは間違う事のない、ルベラの一撃だった。素早く、真っ直ぐ、それでいて重く。能力など捨てて、彼女は直接殴りかかってきた。
咆哮が、放たれる。言葉にならない声が部屋に満ち、彼女の暴力は加速した。十、二十。獣のようにその四肢が振るわれ、痣や傷を増やしていく。もう少女は笑ってはいなかった。目に涙すら貯めて、ただただ怒り狂っていた。
何の地雷を踏んだのかは分からない。あるいは、権力者に対する憎しみが、元々不安定に
呼吸が落ち着いていくのが分かる。極端に感情的になっている人間を相手にすると、逆にこちらが冷静になるというものだ。しかし、全く以って余裕はない。相手の拳は血に塗れているが、当然殴る方より殴られる方が痛いし傷も負う。散々な暴力を受けるいまの自分の見てくれがどうなっているか、想像したくない。
もっと食べて喋った方がいいよって説得してほしいのよ。ぽんっと脳に浮かんだメーゼの無責任笑顔を振り払って、考える。ともかく、彼女を宥めるのは不可能だ。かと言って、いま奪ったナイフで刺し殺すつもりもないし、能力のことを考えると戦闘で最終的に勝てる気がしない。
判断は一つ。
何とかして逃げる。『九層』、
「常権、権限二、
彼女の攻撃をいなしながら、背後のドアノブを回す。扉は内開きな上に、少し前の衝撃波で微妙にひしゃげているが、そんなことは問題ではない。栫は好きに使ってと言っていた。なら、開かない扉は壊すだけだ。
顔面を貫くように繰り出される拳をかわしながら、後ろ蹴りを放つ。薄い鋼を弾き飛ばして、廊下に出る。階段口に走り出そうとしたが、そこで小さな影が追って来ないことに気付いた。踵を返し、廊下の逆方向の突き当りの部屋に転がり込む。
瞬間、天地を揺るがすほどの激震が走った。
烈風を伴った爆音が止み、振り向くと、自分は切り立った崖の淵に立っていた。ベッドのあった多目的室も、その隣の倉庫も、廊下も、階段も消し飛んで、上下数階層、幅二十メートルに及ぶ大空洞が形成されている。左手に見える巨壁には五つの
未だ激高は続いている。血走ったその目にこちらの存在を認めると、ゆっくり、槍を伴った左腕を伸ばしてくる。彼我の距離は二十数メートルほど。あの指による攻撃を貰えば、塵も残らないだろう。
息を吐きながら後方を確認する。部屋名表記のなかったそこには、三列、天井に届きそうな高さの金属棚が備え付けられていた。さっきので基部に罅が入ったのか、大きく横にしなっているそれらを見て、一つ、思いついた。
もう要らないナイフを投げ捨て、中央列の棚の裏に回る。そして、揺れにタイミングを合わせ、体当たりで前方にへし折る。崖から飛び出た棚の幅は、約半分。足して部屋端からの距離は、およそ十メートル。全力で走って飛べば、何とか対岸の彼女に届く。
正面。血の孤を描いて、指がこちらに旋回を始めるのと同時、両足を床から離す。飛び乗った棚は重力に従って前方に傾ぎ始めるが、こちらの方が早い。蹴り落とす勢いで、架けた橋を踏み切る。巻き上がる髪。血まみれの喉に流れ込む空気。跳躍は高く、赤い稲光を放つ槍はまだこちらを向ききっていない。間に合いそうだ。浮遊感のなか、ひとまず安堵の声を漏らした。直後。
――注意を向けよ。これより
突き上げる衝撃が、甲高い振動となって大空洞を貫いた。爆轟は一瞬で壁面に無数の罅を刻み、着地するはずだった対岸の崖を、彼女ごと崩落させていく。
声を張り上げ、手を伸ばす。
以降のことは、ほとんど覚えていない。
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