痛みと銀河の底の丘

 時は流れて、夕食後。かこいが昼間に頼もうとしていた用事というのは、食事の配達らしい。台所で片づけを続ける彼は、届け先までの道のり、届け先の能力者の名前と能力、それから、この用事に役立つ基本的な常権じょうけんを教えてくれた。

 両手にそれぞれお盆を持ち、階段を下る。十八層と彫られた扉の前で、早速教わったばかりの力を使ってみる。


「常権、権限二、空接くうせつ、行使」


 一度、二度目は失敗した。三度目でようやく変化が起こり、四度目でそれがしっかり確認できるまでになった。ドアノブが勝手に回っていく。ささやかな念動力だ。栫が言うには、せいぜい小さな石を少し投げ飛ばす程度の力らしいが、両手の塞がった状態で少しずつ扉を開くことはできる。

 ゆっくりと三十秒使って、扉が開く。一度お盆を床に置いて自分でドアを開け閉めした方がどう考えても早いという事実は、常権を確かに行使できた喜びによって吹き飛んでしまった。良かった、と思わず口から漏れる。自分の正体が権力者けんりょくしゃであると、まず一つ、実感出来たことがありがたかった。

 扉は帰ってきた時に閉めるとして、先を急ごう。倉庫三号、倉庫四号、多目的室四号、南棟連絡口みなみれんれんらくぐち。この十八層は、今朝地震に遭った階層だ。階段と真逆の突き当りには、蹴破られた医務室の入口がある。

 突き当りの一歩手前、南棟連絡口の扉を常権で開け、奥に進む。一分くらい歩いたところで、丁字路ていじろに出た。右側には『ヴァータ』、左側には『ヘロン』の文字がある。この先に住む能力者二人の名前で、周防分区すおうぶんく南棟は彼らのために用意された区画らしい。たった二人のために、中央棟とほぼ同じだけの面積が別にあるのには、重い理由がある。一緒に食事すらできないほど、彼らの能力が強大で手に負えないのだ。少しだけ不憫に思う反面、いまからそんな二人に直接会うのだと思うと軽い震えがつく。丁字路は、右も左も暗闇のなかへと続いている。


「常権、権限二、宵門遊よいもんあそび、行使」

「常権、権限一、夢庇ゆめひさし、行使」


 足下に小さな火の玉が現れ、続いて骨格が広く拡張するような感覚があった。一つ目の常権は、照明代わり。光量の少ない火の玉は、足を避けながら、向かう先の床面を薄明るく映し出してくれる。二つ目の常権は、楯代わり。権力者には生まれながらに有害物を弾く薄い防壁が備わっているが、それを強化するものだ。ある権限段階から、後者は結界へと派生するらしい。

 指示どおり、まずは右、『ヴァ―タ』の方の暗闇に向かう。ひたすら真っ直ぐな下り坂を歩いていくと、数分進んだ所で、ふと眩暈がした。一歩ごとに、切り裂くような、あるいは引き千切るような痛みが、風に乗って全身の皮膚を撫でつける。何とか耐えながら辿り着いた、古めかしい監獄を思わせる深奥の扉。また常権を使おうとして、逆に内側からそれは開いた。

 現れたのは、あまりに長い黒髪で表情を隠した長身の女性だった。セスと見間違うくらい服を重ね着しながら、しかしネックレスや指輪などの装飾品を一切身に着けていない質素な様子の彼女は、とてももさっとしたままこちらに一礼すると、右手のお盆を受け取って引っ込んだ。

 彼女、ヴァータの能力は『死傷羽織ししょうばおり』。自分の表皮に複製した他人の外傷を羽織りながら、その痛みを周囲にばら撒くというものだ。髪の隙間からわずかに覗く、爛れた頬と、充血した藍の瞳。栫から直接触れるとショック死するかも知れないと聞かされていたが、どうも彼女の方が配慮をしてくれたらしい。


 丁字路まで戻り、そのまま真っ直ぐ『ヘロン』と書かれた方へと向かう。今度は、横道も、曲道も四つ辻もあった。階段や梯子を含んで、奇々怪々な迷路が続く。ある長い廊下の右側の横道に入ったら、その廊下の左側の横道から出たり、振り返ったらさっき上った階段が消えていたりするなど、構造的にあり得ないことも頻繁に起こり始める。湧き上がってくる得体の知れない恐怖を飲み込んで、光を探して――と栫の言葉だけを反芻する。

 光、光。どれほど移動しただろうか。何回目かの廊下にあって、まだ栫の言う光が見当たらない。足下を薄く照らす火の玉以外に、輝くものは何もない。これだけ探してまだかと思いながら、あることに気付いて首を振る。このままでは料理が冷める。食事の配達を今までしていたのが栫なら、そんな長い時間はかけないはずだ。ヘロンという人物はきっと遠くない場所にいる。考えた瞬間、ふと思った。栫の言う光は、ないのではなく、いま見えないだけなのではないか。

 自己阻却じこそきゃくと口を開き、足下の火の玉を消す。すると案の定、何処かから漏れ出たような限りなく薄い明かりが、廊下の右壁面を照らしていた。壁面に空いた片手を掛けると、壁一面が垂れた布のように軽く捲れて、その奥に尋ね人が姿を現した。

月景帳げっけいちょう』という能力を有するヘロンは、浮いて、しかも発光していた。音に気付き、彼は宙を蹴るようにしてこちらにやってくる。年齢というものを考えるなら、彼は食堂にいたエッカーナという少年と同じか、少し上くらいだ。ヘロンは全盲だから、食べるのを手伝ってあげて――との栫の指示に従い、お盆を両手で持ち上げる。

 浮遊している人間の食事の補助はとても難しく思われたが、そこはヘロンが上手かった。制止や、落下上昇をタイミング良く組み合わせて、差し出した料理を綺麗に平らげていく。食器の使い方も慣れていて、こちらがお盆を余計に動かさない限り、何かを零すということもなさそうだ。

 彼の能力は、光って浮く自身の周囲に、暗い幻想の世界を作るというものだ。彼の盲目自体は、ルベラという少女が喋らず食べないのと同じで能力とは関係ないらしい。

 食事が終わると、彼は指先から形を崩して淡い光の粒に変わった。粉は、明らかに建物内に収まりきるはずもない高度まで上昇すると、一息に数を増し、同心円状の渦となって回転し始める。床にはいつの間にか緑が敷かれていて、何処からか流れてきた風に草擦れの音を立てる。ただ、圧倒された。満天の輝きが自らの立つ大地に蓋をする夜。月景第二げっけいだいに、銀河の底の丘。これは、感謝を意味するのだと聞いている。

 ずっとここに留まっていてもいいとさえ思えたが、栫が待っている。お盆を片手で持ち上げ、頭上にどういたしましてと返すと、応えるように激しいブザー音が鳴って、世界が闇に染まった。跳ねる火の玉を呼び出せば、立っていたのは何の変哲もない廊下だ。帰りは一本道。明かりを使いながら暗闇を抜け、最初の丁字路に戻る。

 再び驚きがあった。丁字路の真んなかに、お盆が置いてある。料理は全て食べきられていて、食器は綺麗に皿の上に並べられている。取りに行くまでもなく、ヴァータが自分でここまで持ってきてくれたらしい。乾いた長い血の足跡を追っていた目を戻すと、お盆の横に一枚の紙が置いてある。ところどころ茶色に変色したそこに刻まれていたのは、丁寧な筆致の文字列だった。


 はじめまして、ヴァータと申します。

 新しく入ってこられた方と、栫さんから伺っています。

 痛くしてごめんなさい。それと、ありがとうございました。

 今日も美味しかったです。


 出来ることならいち早くこんなところから逃げ出したいという気持ちは、少し薄くなっていた。メーゼやルベラ。周防分区すおうぶんくにはめちゃくちゃなことを言ってきたり、直接襲い掛かってきたりするような相手もいるが、全員が全員そうだという訳ではないらしい。話せば分かり、または話さずとも察してくれる人も少なくない。

 夜になるには、それほど時間が必要なかった。二つのお盆を食堂の栫に返すと、流れで彼に二十二層へと案内される。

「周防分区は、メーゼ、僕、ジア、セス、ルベラ、ヴァ―タ、ヘロン、エッカーナの八人。これからは、君を入れて九人で運営していくことになる。他の分区は数百人単位から数万人単位の所まであるんだけど、うちは特別少ないんだ。突飛な能力者が多いからね」


 苦笑いしながら、階段口を開ける。

 奥には、横と突き当りに扉がある長い廊下が広がっていた。


「この二十二層が君の階層だ。倉庫や多目的室もあるけど、好きに使ってくれて良い。僕は基本的に九層にいて、メーゼは……まあ色々うろついていると思うから、何か困ったことがあったら遠慮なく頼って」

 栫の去った二十二層は、廊下沿いに広い多目的室八号と倉庫十号があり、突き当りに特に表記のない部屋が備え付けられている。多目的室には、医務室と同じような簡易型のベッドが一つ見られ、寝室にも代用できるようになっている。部屋の端に不自然に置かれているので、恐らく、用意してくれたものだろう。疲れた体で、ベッドに横たわる。眠たい目を擦って寝返りを打つと、真横に女性の顔があって驚いた。セスだ。

さむかったよね、大丈夫だいじょうぶだった?」

 彼女は抱き締めるように、こちらに手を伸ばす。

「大丈夫だった。ありがとう」

 潤んだ瞳の彼女に、少し前貰った感謝の言葉を返す。近付くにつれてネックレスや長いドレスが顔にかかるが、彼女がそんな服飾をしている理由が軽々しいものでないことはもう分かっていた。ヴァ―タ。身体に複製した他人の外傷を羽織りながら、その痛みを周囲にばら撒く能力者の女性は、丈の長い服を着こんでいた。刻まれた全身の傷を、見せないようにするためだ。対してセスは、逆。他人に見付けてもらわなくてはいけないから、こんなドレスの厚着をして、指輪のような目立つ装飾品を身に着けている。

「ごめん。もう、眠たくなってきた」

 視界に気を付けながらしばらく話して、しかし疲労が限界に来た。一瞬でも目を逸らせばセスは消えてしまう。会話の途中に寝落ちでもしたら、彼女に悪い。

かった。おやすみ」

 言って、セスは自ら扉へ向かった。こんな風に、彼女は夜を迎える度に一人になるのか。また明日、と言葉を残して目を瞑ると、意識は深い闇のなかへ落ちていった。

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