日本最下脈路

 運ばれてきた食事を摂って、寝て、目が覚めても、夢ではなかった。見知らぬ列車から降りて、空飛ぶトロッコに乗って、殺されかけて、いまここだ。改めて思い返しても本当に訳が分からない。それどころか、考えれば考えるほど頭が痛くなってくる。

 自分がいた車両で起きたという大量殺人。状況が揃い過ぎていて、それに関わっていなかったと考えるのは、不可能に思えた。誰かの事件に巻き込まれたのか。それとも、最悪なことに、本当は何らかの方法で自分がやったのか――。分からない。何も分からないまま、時間が過ぎていく。

 常権じょうけんの発動には練度が必要である。練度は記憶に依拠し、行き当たりばったりな一回目で成功するのは、簡単な権限一や二のものだけ。どこから観察していたのだろうか、真似して使ったテレポートの常権が機能しなかった理由を説明して、これからよろしくね、と去っていた栫のことを思い出していると、彼の声が脳内に響いた。


 ――注意を向けよ。

 これより明震めいしんが発生します。


 隣のベッドが、ロッカーが、治療台が、小さく震え出した。揺れだ。部屋全体が揺れている。気付いた瞬間、爆轟を伴った衝撃が真下から医務室を突き上げた。勢いそのままベッドごと投げ飛ばされたかと思うと、重力に従って床に叩き付けられる。間を置かず、こちらに倒れてくるロッカーを、這いながら壁付けの椅子と床の間に入り込んで避け、その椅子の脚がベキっと折れると、今度は飛び出し、押し潰されるのを防ぐ。向かいの壁に弾かれてスライドしてきた治療台を飛び越え、隣のベッドに着地する。あとはもう頭を押さえて丸くなるくらいしかできることがない。歩けもしないような怪我が一日で完治していて、痛みもないことに疑問を抱く暇はなかった。


 ――注意を向けよ。明震は終了しました。

 被害がある場合は僕に報告してください。

 おはようございます。本日は八月十日、覆日中節ふくじつちゅうせつです。

 特に外出任務はありませんので、ゆっくりとお過ごしください。


 あまりに日常という感じで終わった放送に呆然としていると、歪んだ医務室のドアが外側から蹴り破られた。微妙な冷気を伴って現れたのは、睡眠不足な様子のメーゼだ。


「あー、ここ今日ちょっと揺れたみたいね。ごめん」


 ま、元気そうでよかったわ、朝飯よ。髪をくしゃくしゃ掻いた彼女は歩き出した。部屋から出て、階段を進む。倉庫三号、倉庫四号、多目的室四号、南棟連絡口。驚いたことに、廊下の分室のプレートや、廊下、階段にも大きな罅や歪みはない。主だって被害があったのは、自分のいた場所だけらしい。日本にほん。落ち着く暇もない場所だ。建物の外の砂のなかに光る魚の怪物がいなくて、本にあったとおり権力者の自分が半日で餓死するような身体でなければ、行くあてがなくとも逃げ出しただろう。

 十四層、食堂二号。階段から扉を開くと、廊下はなく、代わりに広い空間が現れた。十層の図書室と同じ構造だ。主に蛍光塗料が使われていた他と違って、天井に浮いた四つの照明球が部屋全体を明るく照らしている。


「はい、皆おはよう。新入り連れてきたわよ、新入り」


 メーゼに背中を押されてなかに入る。丸テーブルを何台か備えた広間にいたのは、見知らぬ顔が二人ほど。一人は、食器を運んでいる壮年の男性だ。蓄えた銀の口髭と凛とした目元に加えてがっちりとした大柄な体格。溢れる気品に思わず近寄り難さまで感じたが、それは彼の周りをうろちょろしている小さな影にいくらか軽減された。少年だ。両手に食器を持ってあたふたと歩き回っている様子から、男性の手伝いをしているのだろう。


「あら、かこいは?」

「結界の改修だろうな。苦労をかける」


 メーゼの言葉に、男性が返す。


「分かったわ。そろそろセスが起きて飛んでくるから、床に危ないもの転がってないか確認しておいて。あと、ほら、これ新入り、ブレ」

「ああ、私はジアだ。戦闘班のかしらをしている。ブレと言ったか。よろしく頼む」

「あ、え、は、はい、よろしくお願いいたします」

「はじめまして、お兄さん。ぼくはエッカーナっていうんだ。これからよろしくね」

「あ、うん。よろしくね」


 あまりに雑な紹介だった。ドスンと腰かけたメーゼの向かいの席に立つと、二人が挨拶してくる。剛健な男性と固く握手を交わしたあと、彼の太い腕に抱き上げられた少年が手を握ってくる。どちらもの指先に、ふと昨日の少女を思い出す。彼らにも何か特別な力があるということだろうか。能力者と権力者。その二つの間の隔たりは、経験を抜きにしても、とても大きく見える。

 座ってしばらく。最近別の分区の管理者が変わっただとか、何処の異種が取れ時だとか、覆天代ふくてんだいの書物で面白いものを見付けただとか、全く理解できない内容がメーゼとジアの間に飛び交う。食器を運び終えたエッカーナを膝に乗せて一緒に首を傾げていると、階段口からかこいが顔を出した。瞬間、全員の視線が交差する広間の中央に、重装甲なドレスの女性、 セスが現れる。

 もう情報が伝わっているらしい。紐に結び付けて首から降ろした『熱烈歓迎』という板を揺らしてこちらに手を振るセスを中央のテーブルにつかせると、栫は周囲に会釈をして、喰祷しょくとうの開始を告げた。両手で印号を結び、常権を発動する。少し離れた所に立っているはずの彼の声は、今朝と同様に脳内に響く。


「ああ大丈夫。今日の汁物は熱いから気を付けて」

「食器の持ち方は、こう。マナーだし、この方が楽だからね」

「褒めてくれてありがとう。でも、今朝は忙しくて大体ルベラに任せたんだよ。勝てないね」


 驚いたことに、まぶたを閉じると、栫が一人で話しているようにしか聞こえない。食事をしているはずなのに、セスの気配がない。咀嚼音も、食器を持つ音も、声もしない。

 能力、その本質の片鱗を理解した気がする。初めて会ったときは、すぐに名前すら危うくなった。ドレスの女性は、他人の目の前以外に存在できない。彼女を視界から外せば、彼女の全ては知覚出来なくなり、最後には、彼女に関する記憶も消えてしまう。

 明るさが戻る。食堂には、もう既にセスの姿がなくなっていた。少し置いて、メーゼの合掌があり、朝食が始まった。昨日ほどグロテスクでもなく、加えて昨日より味の良い料理の数々は、食べれば食べるほど幸せを感じさせた。

 結局盛られた大皿のほとんどを栫と二人で食べてしまったが、他の全員は文句の一つも言わなかった。彼ら能力者は小食で、権力者は大食い。食事一つとっても両者の違いをまざまざと見せつけられる思いがして、何だか複雑だ。


「君に用事があるから、ここでしばらく待っていてくれ」


 席を立とうとしたところを、栫に止められる。男性が少年を肩車して出ていき、続いてメーゼも部屋を後にする。少し経って、入れ替わりに少女が現れ、栫と一緒に食器を片付け始めた。名前は聞いている、ルベラだ。思わず立ち上がって距離を取りかけたが、露骨な態度を表に出すわけにもいかず、中腰からゆっくりと席に着く。彼女も彼女で皿を洗いながら、時々こちらに獣のような目線を飛ばしている。狩るものと狩られるもの。意識しているのはお互いさまらしい。


「あー、最下層に水脈があるから、ちょっと水くんできてくれない?」


 栫が机を拭きながら大きなバケツを手渡してきた。元々の用事とは関係ない様子で、完全に気を遣われている。頷いて受け取り、部屋から出る。蛍光塗料の折り返し階段を下りることしばらく。二十層を過ぎた頃から、周囲が徐々に肌寒くなり始めた。

 三十層、四十層、五十層。ここ周防分区すおうぶんくというのは、思ったより縦に長いらしい。足を進めるにつれて、壁面に謎の焼け焦げた跡が現れ、寒さも格段に増していく。息も白く、金属の手摺すら握っていられなくなる。こうだと知っていたなら伝えてくれれば良かったのに。片手で持ったバケツを眺めて、栫を恨めしく思う。

 足を速める。あの少女もそれほど居座ってはいないだろうから、さっさと行って帰るに限る。最早所々凍り付いてしまっている階段を三段飛ばしに駆け下り、次の踊り場で思い切り滑って転んだ。六十九層。良くもここまで来たものだと見上げる扉の横で、華美なドレス端が視界に映る。


「ブレ、だったよね。だいじょうぶ?」


 凍り付いた床面に跳び降りるように現れたのは、過剰な服飾に凛とした表情、加えて子どものような爛漫さを備えた女性だった。大きく振りあがった『熱烈歓迎』の札を顔面に食らった彼女は、しかしめげずにこちらの腕を掴む。


「どうして、こんなところにいるの。さむいよ」


 真剣に心配する眼差しに理由を説明しそうになったが、いくら厚着と言ってもこんなところに長く居させるべきではない。危ないから、あとで。目を瞑って追い返す。さらに下ると、終着点は案外近かった。七十九層から下が階段だけを垂らした巨大な地下洞窟になっていて、その奥半分くらいを結構な幅の川が占めている。

 洞窟は端々が氷に覆われ、天井を覆う氷柱からは水が滴る。肩に冷たい雫を浴びて、吐く息も白い。足元に茂る苔の草原が発光する胞子を放って、周囲の空間を淡く色付けている。


 壁に掘られた古い文字には、こうある。

 日本最下脈路にほんさいかみゃくろ周防座すおうざ


「ごめん、君は記憶喪失だったね。常権じょうけんも多く知らないのに、地下へ行かせるべきではなかった」


 水を汲んで引き返す。満杯のバケツと一緒に戻ると、申し訳なさそうな様子の栫が出迎えてくれた。彼はバケツを受け取って台所の端まで持っていくと、テーブル奥の椅子に腰を下ろす。今日任せられる予定の仕事は、いろいろあってもう終わってしまったとのことだった。

 考える。現時点での当面の目標は、便利な力である常権とやらをある程度身に着けながら、記憶を取り戻す手段を探ることだ。試しに少し聞いてみると、栫は「君の記憶の復元については、もうやっているから心配要らない」と簡単に言ってのけた。彼の口調や態度をみるに、どうやら自分の記憶喪失は、思ったほど深刻な問題ではないらしい。


「メーゼが話があるそうで、ここにいてほしい。僕は上階を修理しにいくよ」


 自分を待っていただけらしい青年は、忙しそうな様子で広間から消えた。修理という言葉で、昨日の戦いがふと頭を過る。考えてみれば、昨日は食後、一人にされた所を襲われたんだったと嫌な思い返しをしていると、間もなく、扉が開く音がした。

 悪寒が走った。引き絞るような痩躯に、病的な笑み。腕を振り、足を上げるだけで会議室と周囲数階層を粉微塵にしたあの少女は、散々脳裏を駆け回ったあと、獣のような荒い息遣いと共に、自分が座ったテーブル席の真横を通過した。

 二人きり、状況的には昨日と全く同じだ。テーブル上に置いた両手の震えを抑えながら、どの一瞬からでも駆けだせるように足に力を込める。心臓が高鳴りを止めない。静寂が支配する広間に、彼女の足音だけが響く。視界の端で追う。向かった先は台所だ。結果から言えば、乾いた食器類を分別して棚に戻した少女は、そのままさっさと部屋を去った。ただ、一瞬だけこちらに視線を向け、今は見逃しておいてやる、と言わんばかりの邪悪な笑顔を残して。

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