空の君
絵空こそら
空の君
あなたをお待ち申し上げる間、一晩に千の秋を越えたかのような心地がいたします。
こんな言葉で伝わるのかしら。料紙をたたみ、手折ってきてもらった藤の枝に結ぶ。私は歌が得意ではないから、家のまわりの、見事な藤の力を借りる。この花を見て、私を思い出して、会いに来てくれたら。そんな浅ましい考え。後ろめたくて力なく紙を引っ張ったら、結び目が曲がってしまった。溜息をつく。
夜空を見上げると月が出ている。円い月。欠けたところがひとつもなくて、羨ましい。私は欠けたところばかりなのに。今日もあの人はいらっしゃらない。きっと望月のような、教養のある、歌の上手な、美しい女性のもとにおられるのだわ。煌々とした光が眩しく、目を下へ向ける。
こんな拙い言葉に意味があるのかしら。こんな、少しの言葉で相手のことがわかるものかしら。もっとたくさんの言葉でお話しして、身体に触れて、初めて相手のことがわかるものではないのかしら。
そのくせあの人からいただいた消息を飽きもせず眺め、時折口に出してみる。私は頭を捻り、どうにか絞り出しましたという感じがにじみ出た筆運びで、お返事にうんと時間がかかってしまうのに、あの人ときたら流麗な筆致で、すぐにお返事を寄越すので焦る。時間が経つと彼に興味がないと思われてしまいそうだから、私だってすぐにでもお返事がしたい。できることなら。どれだけ必死に考えを巡らせても、いい歌は浮かばない。
ぐるぐると考えていたら、つい、紙を強く引っ張ってしまっていた。藤の花が「痛い」と悲鳴をあげたような気がして、手を放す。明るい床の間で、薄紫の花弁が跳ねた。
と、その先に人影が見えた。私は慌てて簾を下ろした。
「ここへ再び来るまでの三日間、千の秋を越えたような心地がいたしました」
あの人の低く透き通るような声が、夜の空気に響く。私の胸はどきどきと高鳴り、ついさっき書いた消息の内容すら、口にすることができなかった。新しい返歌を考えるうち、刻々と時が過ぎていく。あの人は私の返事を待っている。
「なぜ、お返事をくださらないのですか」
私は口を開けた。しばらくして、漏れてきたのは言葉ではなく、嗚咽だった。
「なぜ、お泣きになるのですか」
「わたくしは、望月ではありません」
私はやっとのことでそう言った。
「欠けたところばかりでございます。歌もろくろく書けません。あなた様には到底、似つかわしくない女でございます」
歌などではなかった。形式から外れた美しさの欠片もないような言葉を、あの人に聞かれるのは恥ずかしかったけど、これが嘘のない私の気持ちだった。どれだけ想っていても形にできないもどかしさに、歌にできない悔しさに、自分で自分が嫌になることに、疲れてしまった。ちゃんと幻滅して、終わらせてほしかった。
「あなたは十六夜月。あなたは更待月。あなたは奥ゆかしく、待ちに待ったころ、ちゃんとお返事をくださる。私はあなたの欠けを愛しく思います」
あの人は優しい声で言い、ばつが悪そうに、こう続けた。
「そして私は晦。何一つ持ってはおりません」
簾の下から、白い掌が差し入れられた。そっと触れてみると、固かった。
私ははっとして、簾を上げた。美しい、束帯の男と目が合う。月光を浴びていない肌の奥に白骨が透けて見えた。
「これまでの嘘偽りをお許しください」
彼は頭を垂れた。
ああそうか。彼は死人なのだ。
恐怖はなく、私はなぜか安堵した。その瑕瑾に、ようやく釣り合えたと思った。
白く冷たい手を包み、頬に寄せ、私は目を閉じた。
「あなたの空ろをお慕いいたしております」
私と彼の身体は透き通り、風に、光に、音になった。今まで胸につかえていた想いが、解け、言葉になり、自由な歌となって夜空に散った。私たちは藤棚を揺らして笑いあい、満月に向かって空高く昇った。
目が覚めると枕が濡れていた。
あの人は逝ってしまった。なぜ連れて行ってくれなかったのか。
そう思うほど涙は溢れ、たまらず料紙に消息をしたためる。これまでいくら書こうとしても生まれてはこなかった言葉たちがするすると、その紙面を滑っていく。それなのに、もうこの歌が届くことはないのだ。どうしようもなく悲しく、私は筆を走らせながらぼろぼろと泣いた。
それからというもの、私の歌の評判をききつけた男たちが、次々と尋ねてきた。やがて朝廷に女房として迎えられ、今では中宮さまの世話役を仰せつかっている。
今でも、新月の宵にはあの人に向けて歌を詠む。若い頃は、どれだけ詠んでも歌が届くことはもうないのだと思っていた。だけど、あの夜と同じように、彼が風であり、光であり、音であるならば、きっと私の歌は届く。
いつかこの身を捨てて形のないものとなったとき、あの人に一生分の返歌をいただけるように、私は今日も歌を詠む。
空の君 絵空こそら @hiidurutokorono
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