第21話 ご、ごめん、私、手汗凄かった?

 晴れて十九度目の恋人関係になった僕と梓だったけど、長期休み中に付き合い始めるのは意外とケースが少ない。今までは学校があったので、すぐにデートとか、そういったことをする前に事件が起きていたものだけど、


 告白を受けたさらに次の日。梓は例によって僕の家にちょっとめかしこんでやって来ては、

「……あ、あのさ、凌佑。み、見たい映画があって、それ見に、行かない……?」

 おどおどと僕を誘い出す。


「……え、えっと……」

 一瞬、頭のなかで色々な予想が立てられては消えていき、なんて返事をするか頭を悩ませたけど、

 ……家のなかだからって、安全なわけでもなかったし。


 基本的に、梓に対する事故は学校や登下校中に起きることがほとんどだったけど、一度だけ家のなかで起きたこともあった。お風呂掃除中に足を滑らせて、頭を思い切り打ってしまう、っていう事案だ。


 つまるところ、家にいようが外に出歩こうが、僕が梓からの告白を受けた時点で、常に梓は危険にさらされている、という認識をしないといけないのに変わりはない。

「……いいよ。わかった」


 一応、簡単にだけど対策は考えている。今は保険がないんだ。絶対に梓を死なせるわけにはいかない。リセットボタンは、押せないかもしれないんだから。


「ちょっとだけ待ってて、すぐ着替えてくるから」

「う、うん。わかった」

 ジャージにシャツ、というぐうたらな格好だったので、慌てて僕は街に出かけられる格好に着替える。といっても、そんな格好いい服を持っているわけではないんだけどね。


 クローゼットにかかっていたシャツに適当なサマージャケットを羽織り、ジャージからアーミータイプのボトムスに履き替えてすぐに梓の待つ玄関に向かった。

 たった数分目を離したとはいえ、梓が何事もなく待っていたことに一抹の安心を覚え、僕は玄関脇に置いてある鍵を手に取った。


「……じゃ、行こうか。映画、新宿で見るんだよね?」

「そのつもりだよ?」

 クーラーを利かせていた屋内から、真夏の太陽差し込む外に出ると、僕は梓にそっと自分の右手を差し出す。


「……え? り、凌佑?」

「……手、繋いだほうがいいかなって。思って」

「えっ、あっ、そっ、それはっ……あぅ……」

 僕が言うと、梓はポンっ、と頭のてっぺんから何か湯気みたいなものを吹き出す。……観覧車ではあんな迫りかたしたのに、やっぱり自分がやられるのには免疫が足りないんだね。そういうところも、可愛いんだけど。


「……付き合っているなら、別に、いいよね?」

「……な、なんか、凌佑積極的だね」

「そう……かな」


 表向きは付き合っているから、だけど、裏向きには絶対に梓を僕の周りから離さない、という意味合いもある。十四回目の告白のとき、僕が手を離さなければ、梓は車に轢かれずに済んだわけだし。


 顔を真っ赤にした梓が、僕の差し出した右手に自分の左手を合わせる。瞬間、スベスベとした心地よくて柔らかい肌触りが感じられる。

「……なんか、こうして手繋いでいると、本当に、凌佑と恋人になったんだなあって……思えるね。えへへ……」


 駅までの道のりを歩いていると、僕の顔を見上げて、いじらしい様子で口にする梓。

「それは……そうだね」

 幸せそうに表情を緩ませている梓とは対照的に、心の片隅で糸を張りつめさせて警戒を絶やさない僕。


 いきなり、梓のこの笑顔が消し飛んでしまうことだって、あり得るんだ。

 一瞬だって、油断することはできない。


 信号待ちの交差点でも、歩道に突っ込んでくる車はないか、前方不注意の自転車は走ってこないか、思わず梓が飛び出してしまうようなアクシデントが起きないか、などといったことを常に考え、青信号に変わるのを待った。もちろん、青信号だってちゃんと気をつけないといけない。


 そんな緊張を続けていたせいだろうか、沼袋駅ホームに到着するころには、

「……ご、ごめん、私、手汗凄かった?」

 僕も梓もお互い、繋いでいた手が汗でびっしょりになってしまっていた。

「……ううん、多分、僕のほう」

 慌ててハンカチで汗をふいたけど、拭ったハンカチの染みがそれはそれはえげつないことに。


 ……いくらなんでも、手汗掻きすぎだよ、これは……。

 恥ずかしさでいっぱいになりかけた瞬間、一時的に乾いた僕の空いた右手に、すぐさまさっきまで感じていた感触が伝う。


「……梓?」

「凌佑も、こんなに緊張することあるんだね。なんか、可愛い一面あるんだなあって、思っちゃった」

「え、あ、ああ……う、うん」

 ……ごめん、それ、梓が思っている緊張も、多少はあると思うけど、半分以上、梓を守るための緊張だ、とは口が裂けても言えない。


「あ、電車来たよ、電車」

 ホームに僕らが並んでから少しして、黄色い車体の電車が軽やかにホームに入線。西武新宿行きの電車に、一緒に乗り込んだ。


 新宿の人混みもそこそこにドキドキしつつ、無事に映画館に到着する。

 ……梓と出かけるだけで、重労働した気分になってしまう。

 けど、それは僕が望んだことなので、とやかく言うつもりはないけども。平穏無事に過ごすのならば、梓のことを振ればいいだけのことだったんだから。


 券売機で横並びのチケットを購入し、コンセッションでポップコーンと飲み物を買うことに。

「凌佑はポップコーン、何味がいい?」

「うーん、別に何でもいいんだけど……強いていうなら、シンプルに塩?」


「私はキャラメルが食べたいんだよね」

「……なら、両方買えばいいんじゃ。そのためのハーフアンドハーフなんじゃ……」

「それもそうだね、えへへっ」


 舌をペロッと出しては、照れ隠しだろうか、繋いでいた僕の右手をぎゅっと強く握りしめる。そんな彼女の子供っぽい一面を垣間見た僕は、思わず零れそうになった笑みを表に出さないように、手を口元に当てた。


「あ、順番来たみたいだよ? えっと、ポップコーンのLサイズ、塩とキャラメルのハーフアンドハーフで──」

 こんな、こんな外から見れば、いや、内側から見ても幸せ以外の何物でもない時間だって言うのに、飴細工みたいに繊細なこの貴重な一瞬を、僕は心の底から楽しむことはできなかった。


 いつ、何が起きるかわからない恐怖で。

 あのときみたいに、いきなり誰かが梓のことを、僕の隣から奪っていくのではないか、そんな恐怖。


 そう思うだけで、心臓は常に早鐘を打つし、五感も研ぎ澄まされ過ぎて折れるんじゃないかって。

 そして、そんな僕を見て、少しだけ何か言いたげな表情を梓が浮かべたことにも、僕はちゃんと気づいていた。


「……ごめん」

 直接口にされたわけではないけど、長年の付き合いからか、ここは謝っておいたほうがいいと察したので、掠れ気味の声で一言呟き、財布から千円札を一枚取り出した。


 梓はほんの少しの間、薄暗い映画館の天井を見上げてから、視線を僕の顔に戻してはにっこり笑顔を作って、

「? なんのこと? さっ、もう入れるみたいだし、行こう? 凌佑」

 手を引いて、劇場のエントランスに向かっていった。


 映画は、梓が好きそうな青春もののアニメ映画だった。梓が好きそう、ってことは、感性が似ている僕もストライクゾーンに入っているっていうことで、内容そのものは楽しめるものだった。


 ただ、青春もののアニメって、タイムリープしたり他人の感情がわかってしまったり、はたまた嘘を見破れてしまったりすることが多いわけで。


 今回見た映画は、言ってしまえばそれらみっつの要素を合わせたフルコース作品で、現在進行形で過去を何度もやり直した僕にとっては、いささか胃に来るものがあった。


 ……現実も、そうやってうまくいってくれればいいのに。

 頭の片隅で、考えずにはいられなかった。


「すっごく面白かったねっ!」

 上映が終わって、映画館を後にすると、お約束と言うべきか西武新宿駅までの道のりのなか、興奮冷めやらぬといった様子で横を歩く梓がそう切り出す。


「特に、中盤あたりの友達を守るためにわざと嘘をつくところとかさ、もう胸に来ちゃったよ」

 売店で最後に買ったパンフレットが入ったビニール袋を胸に当てて、どこかうっとりとした様子を見せる梓。


「……あ、あそこのシーンは確かにね。設定上手くはめ込ませてたなあって思ったよ」

「今度、本屋さん行ったときに原作も買おうかな……小説だったよね、確か」

「う、うん」

「というか、映画館の隣にある本屋さんで買っていけばよかったね、失敗したなあ」

「……それは、そうかもね」


 やってしまった、と苦笑う梓を横に、僕らは大通りの横断歩道に差し掛かっていた。

 信号は青。車も完全に停まっている。よし、これなら安全、そう思って渡り始めたとき、


「──ちょ」

 視線の端から、猛スピードで突っ込んでくる自転車がこちらにやって来た。端的に言うなら、信号無視ってやつ。

 自転車はまだ歩行者の波が寄せきれていない車道の中央を突っ切ろうとしていて、そこには、


「あっ、梓っ!」

 先頭切って横断歩道を歩いていた、僕と梓が。

 咄嗟に危険を察知した僕は、繋いでいた梓に左手を強引に引いて、僕のもとに抱き寄せる。


「えっ、りょ、凌佑?」

 急な僕の行動に困惑する梓をよそに、自転車は、ついさっきまで梓がいた場所を高速で通過していった。


「きゃっ!」

 一メートルもない距離で目の前を通り過ぎていった自転車に、梓は悲鳴を軽くあげる。

「……だ、大丈夫?」

 胸元にぽっかり収まる位置に抱き留めた梓を見下ろし、僕は尋ねた。


「う、うん。平気だよ。……それにしても、無理に通ってきたね、あの自転車……びっくりして声出ちゃったよ……」

 自転車が走り去った方向を見やりつつ、梓は再び歩き始める。


「凌佑? どうしたの?」

 信号を渡り切り、駅まであと少しの道のりを進むなか、梓は僕の顔を覗き込む。

「顔色青いよ? 何かあった?」

 ……もし、僕が梓の手を引いてなかったら。


 梓は自転車に轢かれていた?

 ……いやいや、自転車の運転手だって馬鹿じゃない。梓の位置がそのままだったら走行するルートだって変えていたはず。


 でも、もしかしたら……。

「っっっ……」

「凌佑? 凌佑? ほんとにどうしたの? 酷い顔色だよ? 気分悪いの?」

「おわっ」


 考えることに夢中になっていたのか、梓の呼びかけで我に返ると、鼻と鼻が触れあいそうな距離に梓の小さな顔がいて、さっきとは別の意味でドキっとした。


「……凌佑こそ、大丈夫?」

「……だ、大丈夫。なんでもない、ちょっとボーっとしてただけだから」

 しかし、文字通り梓を襲う危険が数センチ先に訪れていたことに、僕は並々ならぬ恐れを抱いていた。


 やっぱり、ほんの僅かな時間さえ、油断できない。

 油断した瞬間、全部持っていかれてしまう。

 新宿から沼袋の自宅に戻るまでの間、改めて僕は、気を引き締め直していた。


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