第20話 ほんの少しでいいから、

 千円札を一枚チケット売り場で手放し、ゴンドラに乗り込む。

 膝と膝とがこすり合わせそうな広さの車内で、向かい合って座る。

「わぁ……すごい高いね……」

 窓にそっと手を付けて瞳を輝かせつつ景色を見下ろす梓。


 ゆっくりと景色は高くなっていき、レインボーブリッジや、スカイツリーなどが視界に映る。

 ……この瞬間は、たまらなく幸せなんだ。


 梓と過ごす、この時間はたまらなく幸せなのに、どうしても僕の思考は、これから起こるであろう悪いことに向かってしまう。

「ああ……いい景色……」

 数分経って、観覧車が最高到達点に差し掛かった。


 この眺めも、あと半分。

 そんなときだった。


「……凌佑ってさ……私のこと、どう思っているの……?」

 おもむろに、梓がそう尋ねる。気が付けば、梓は僕の方を見つめていた。

「……好きだよ」

 そこに関しては、もう嘘はつかないと決めたから、正直に答えていく。


 ……ただ一つ、を信じて。


「……どういうところが?」

「えっと……毎日僕のこと気にかけてくれる、優しいところ」

「……そ、それ以外は……?」

 窓ガラスに映る、彼女の顔が少し染まる。


「……ときどきドジやったり、皆の前では真面目だけど、僕といると子供っぽくなるところとか」

 それでも、僕は何も起きないことを祈って、答えていく。

「……そういうところも含めて、好きな、だよ」

 僕は視線を外に向けたまま、最後にそう言う。


「……幼馴染、なの?」

 ひとつ、言葉が落とされる。

 含みを持たせて言った最後の一言は、きっと梓の心を揺らした。膝の裏に感じるゴンドラの座席が冷たく思える。


「……私は、凌佑のこと、ただの幼馴染としてなんて見てない」

 ああ、やはり。

「私、ずっと前から、凌佑のこと……」

「待って」

 下がり始めた景色とともに、僕は梓を制止する。


「……僕じゃないと、駄目なの……?」

 過去十九回僕に告白してくれた幼馴染にこれを言うのは残酷かもしれない。でも、言わずにはいられなかった。


「……例えば、僕以外の誰かが僕のポジションにいたら、どうなっていたの?」

「……そんなの、わかんないよ……わかんないよ。凌佑と過ごしてなかったら、違う感性を私は持って、今と好きになるところも違うかもしれないし、そもそも凌佑と出会うかどうかなんて……」

 ……間違っては、いない。梓の言いたいことに、齟齬なんてない。


「だから、『僕じゃないと駄目なの』なんて、言わないでよ……」

 君はどこまでも真っすぐだった。

「私は、凌佑のこと、異性として好き、だから……っ」

 僕は何度、その真っすぐさを、純真さを、なかったことにしてきたんだ。

「…………」

 ゴンドラが回る音が、響き渡る。


「私、凌佑にたくさん、たくさん助けられてきたからっ。だからっ……少しでも、何か返してあげられたらって……」

 一瞬、ドキッとした。

 だって、その言葉は、下手をすれば僕のこれまでの行動を肯定してくれる意味を持ってしまうから。


 それは、とても優しくて、例えるなら、蜂蜜みたいな甘さで。その蜜に、飛びつきたくハチは、きっと僕で。

 それでも、この言葉に簡単に頷くことは、できなかった。


 言い淀む僕に、突然何か柔らかい感触が包み込まれた。

 揺れるゴンドラ。暗くなる景色。


「っ……あ、梓……?」

「……わ、私の好きは……こういうこともしてみたい、好きなの……」

 ……ほんと、真っすぐだよな……。梅雨明けすぐのときなんか、隣で寝ることの意味すら分からなかったのに……そういう文法は、知っているんかい……。


 つまりは、僕の顔が梓の胸元に抱き留められてしまった。

 至近距離で鼻に梓の香りが吸い込まれ、色々反応してしまいそうになる。香りだけでなく、速くなっている心臓の鼓動、少し荒くなっている息、女の子らしい少し膨らんだ胸の感触。


「……別に今すぐ返事が聞きたいわけじゃないから……凌佑の気持ちの整理がついてからでいいから……」

 耳元で囁かれるその声は、優しく包み込むような色で。


「……もう、降りないといけないみたいだから。そろそろ、離すね」

 視界がチカチカしたのち、背を曲げて、顔を真っ赤にした幼馴染の恥ずかしそうな表情が、僕の目に入った。

 ……胃痛は、しばらく収まりそうにない。


 結局回答を保留にしたまま、その日の夜を迎えた。晩ご飯をいつも通り一緒に食べた後梓を家に帰し、僕は自室のベッドにごろんと寝転がった。

「……どうしよう……」


 過去の経験上、振る、という選択はあり得ない。それだけは絶対にやらない。その先の未来に待っているのは、


 ──京都の公立大学、行くことにしたんだ

 ──じゃあね、凌佑。……凌佑の幼馴染でいられて、私、幸せだった


 梓が泣きながら、僕の隣から離れていくバッドエンドだ。二度と、あんな言葉を梓に言わせたくはない。

 なら、告白を受ける、という選択肢しか存在し得ない。返事をする前に時間遡行できたらいいんだろうけど、それはできた試しがないし、そもそも、タイムリープもできないかもしれない。


 逃げ道が、塞がれている。

 もし、告白を受けて梓に何か起こったら……? そのとき、僕は、梓を守り切ることができるのか?


「……でも、そうするしか、そうするしかないんだ」

 僕がするべきことは、幼馴染の笑顔を守ること。そのためだったら、どんな道のりだってもがくって、自分で決めたんだ。

 ……覚悟を、決めないと。


 思考回路にひとつの終着点を用意して、そこにたどり着くように僕は気持ちを整理する。


 ……大丈夫、大丈夫。やれる、やるしかない。それが僕の望んだ道。

 今までずっと、一度を除いて一回は受けてきた梓の告白。

 何も、ありませんように。切実に希う。その上で。

「……ほんの少しでいいから、僕に梓を守り切れる力をください」

 そう、呟かずにはいられなかった。


 翌日、お昼過ぎ。僕は家に来た梓をリビングに迎え入れて、昨日の告白の返事をした。

 答えは、もちろん「イエス」だ。僕が「よろしくお願いします」と掠れ気味の声で言うと、長年の想いを叶えたみたいに梓はポロポロと嬉し涙を流して、「ありがとう、凌佑」と僕の胸に身体を預け込んだ。


 愛しくてたまらないはずなのに、そんな梓のリアクションに素直に喜べない僕が、どんな存在よりも恨めしかったかもしれない。


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