10(最終話)
玄関先の雪は完全に溶けてコンクリートにしみを残すだけであった。屋根から透明な水がだらだらと降ってきている。ケーキの箱を玄関の横に置き去りにした。
ただいまといって戸を開けると「どうだった。久しぶりの大学は」と髪を結んだ四穂が出迎えてくれた。
「大学の時計が壊れてたのよ」
なるほどと四穂はいった。
「今何時?」
「六時前じゃない」
「お父さんは?」
「居間でしょ」
四穂は家事の最中だったらしい。台所のほうから食事のにおいを嗅ぎとれた。今日という日に四穂は何を作ったのか。洗濯機の回る音が聞こえた。お父さんのラジオの音もすこし聞こえた。
居間に入っていくわたしの背に、四穂は「あわただしい」といった。
お父さんとの計画は、実際計画と呼べる程度のことでない。それはただ四穂の誕生日をわたしとお父さんで祝いたいという、どちらかといえばこちら本意の満足なのだった。お父さんは居間で昼のうちに折り紙の輪っかをつなげて飾りを作っていた。わたしが作り方を教えた。
「今日の夕ご飯は何をいったの」、わたしはきいた。
「なんていえばいいかよくわからなかった」とお父さんはいう。「だから鍋っていったんだ」
「ああ、鍋ね。いいんじゃない」
家の中がやけに静かだった。物音が一切しないというわけではないが、さっぱりとした不満足を感じる。四穂がいま家のどこにいるのかわからない。階段を上がっていないということは一階にいて、もしかしたら洗濯物を取り出しているのかもしれない。
「ケーキは、大丈夫だった?」とお父さん。彼はこたつの上を片付けようとしているのだが、なにも進んでいない。一度動かしたものをもとの場所に動かすというのを繰りかえしていた。
「ここはわたしが片づけるからお父さんは飾りを飾っていて」
「どうやって?」
「適当にやればいいの」とわたしはいう。「……やっぱりわたしがやるわ」
四穂の声が洗面所のほうからきこえてきた。鍋の火を見ろと彼女は命令した。
「いいよ、飾りはぼくがやるから」
吹き出しそうになっている鍋の火を止めたとき、わたしたちが飛んだ思いあがりに浸っていたことに気がついた。ふたを開けると、そこにはわたしとお父さんの好物しか入っていなかったのだ。春菊、鱈、鮭、舞茸、信じられないくらい大量の白菜。四穂の好きなものがいったい何だったかわからない。鍋の上で苦笑いを浮かべた。おそらくいい誕生日にはできないだろう。まあまあな誕生日にはできるかもしれないけれど。四穂の喜ぶことがわたしたちにはわからないのだった。
廊下につづくドアから四穂が台所に入ってきた。「なんだか今日、いやに忙しい気がするんだけど。授業はなかったし、朝からずっと動いているのにやるべきことがどんどん出てくるの」
「それはきっと、春になったからよ」、わたしは衒学的にいった。
「適当なこといわないで」
四穂は鍋の具を眺めていた。消えたコンロの火をつけて弱火にした。
居間につづく襖が開いてお父さんがゆっくりと入ってきた。這入ってきたといったほうがいいかもしれない。後ろ手で襖を閉めるとき、居間のほうに悲惨な状況になった紙飾りがみえた。腰を丸め、両手がどこかに触れていなければ一歩も進めないといった感じでわたしたちに近づいてきた。
お父さんはわたしだけに話しかけた。
「そういえば四穂ちゃんの誕生日プレゼントを買っていなかったよ」
どうしよう、とお父さんは換気扇のファンに情けない表情をしてみせる。
「そういえばわたしも買い忘れていたから、いっしょに謝りましょう」とわたしはいった。
四穂はコンロの火を止めて、廊下へ出て、戻ってきた。
「あら、鍋ができたみたい。さ、居間に運びましょう」
お父さんが両手を宙にぶらぶらさせて何かやろうとしている。自分の役割を探しているみたいだった。けれど、彼はもはや自分がどこに立っているのかもわからないのだった。彼はあまりにも無茶なことを言い出す。「ぼくもなにか手伝う」
「娘の存在もわからない人は手伝わなくていいの」と四穂はいった。「あっちいって座ってなさいよ。そこに立たれると邪魔なのよ」
いくらなんでも手厳しすぎやしないかとわたしは思った。これが父娘の普通だろうか。わたしはお父さんに盆を持たせ、その上に三人の湯飲み茶わんを置いた。そしてこれを運んでおくようにといった。すると彼はからくり人形みたいにだるそうに始動し、踵を返し、襖のむこうへ移動を始めた。
が、襖は自身の手によって閉じられていたのだ。それを忘れているらしい。お父さんはすり足で慣性的に進んでいって、襖にこつんと盆の先をぶつけた。
わたしにははっきりと見えていた。盆の揺れが湯飲み茶わんに伝わって三つとも一斉に倒れた。そのうちの二つはすぐに動きを止めたが、ガラスの茶わんだけは勢いが死なずに曲線的に転がっていく。茶わんは盆の縁をのりこえて放り出された。
嫌な音と同時に、動かないで、と四穂が声を張った。その瞬間三人が三人とも息を止めるように硬直した。台所の中でわたしたちは三角形である。お互いがお互いの出鼻をうかがうような、映画でヒットマンとヒットマンが対峙したときのような緊張感があった。居間のテレビから大きな笑い声がきこえてきた。誰も動き出す気配のないまま、むやみに時間が過ぎようとしていた。
そのときお父さんが勝手に屁をこいた。まるでエレキギターの高音みたいな音だった。それが何かを完全に破裂させたような気がするのだ。でもその屁は破裂音でない。長いあいだ連続的に鳴っていたのだ。余韻さえあった。
と、四穂は倒れそうなくらい笑いだした。体を仰け反らせ、甲高い声が一定の周期で繰り返された。何がそこまで楽しいのかわたしにはよくわからなかった。彼女は笑いながら半分泣いていた。人が屁をこいただけなのだった。
わたしの湯呑みの割れたことに気づいたお父さんは、大切なものを壊してしまったのかな、と謝った。それに対して、全然大丈夫ですよ、昔好きだった人からの貰い物なので、とわたしはいった。よくよく考えるとそれは意味不明な返答でしかないのだが、しかしわたしにとってはゼロから百までが通じているとしか思えないのだった。これだけは嘘でなかった。
(了)
湯呑み茶碗の印象 小原光将=mitsumasa obara @lalalaland
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