ごもく拾い
《上》 金魚のような少女
顔色を窺いながら生きるのは、結構きつい。
何気ない出来事ですぐ気力が奪われる自分は、毎日のようにそんな事を考えている。
今だってそうだ。小遣い稼ぎでやっている鴨川のごみ拾い。責任者のおじさんがゴミ袋と共に差し出してきた『今日も暑いね』という言葉に、自分は頷くだけ。がくがくと動く頭は酷い姿に違いない。赤べこの方がまだマシな反応をするだろう。
相手の間抜けな姿に、のっぺらぼうのおじさんの『色』は困惑を示している。あぁ、また反応を間違えてしまった。
自分が住む京都は、他とは少し違う場所だ。外界となるべく交流を断っている此処では、人間じゃない存在が普通に人間と共存していて、人間も偶に特殊な能力を持っている存在が生まれてくる。何故だか相手の何もかもが分かってしまう『色』が見える自分も、その特殊な部類の人間なのだろう。
その所為か、声を出すのが苦手だ。自分の言葉で相手の色がどう変化するのかを気にしてしまい、結局何も喋らずに金魚のように口を開閉するだけ。学校生活において致命的な悪癖。教師達に何か悩みでもあるのかと聞かれたことは数知れない。それにさえ答えられず、一言も喋らない不思議な男子生徒扱いされているが、中三の夏というもう残り少ない時間内で改善する気もなくなった。周りも進路の事で忙しいから、不思議なヤツに構っている暇はないのだ。
……進路、というワードなんてうっかり考えてしまったから、夏休み前にやった個人面談を思い出してしまった。自爆だ。と思いながらも、追憶を止められない。
学校の勉強は嫌いだ。机に座って授業を聞き、問題集を何度も解く意味が分からない。教科書を読んで、少し勉強すれば充分だ。だから進路は就職を希望した。それに担任は困惑していた。『君の成績なら大丈夫』とか、『学費なら奨学金を』とか、頭に入らない言葉を延々繰り返してくる。九年ほどやってきた学校に行き来する苦行をもうしたくないという理由は世間では通用しないらしい。
どうやって生きていく気なんだと聞いてきた担任に、『ごもく拾いの仕事』と書いた進路希望用紙を指差すと、『人がやる仕事じゃない』とますます困惑された。
それ以上は、担任の話は聞かなかった。自分が一番やりたい仕事を、人間がやる仕事じゃないと評価された事にかっとなって、何も聞かずに途中退室したからだ。
『ごもく拾い』は、まぁ大雑把に言えば、危険物回収業。この不思議な場所ならではのごみ拾いの仕事だ。街中に何が起こるか分からない『ごもく』がそこら中にゴロゴロ転がっているので、一般人がうっかり触る前に回収する仕事。基本は人間ではない存在がやっているが、人間がやってはいけないという決まりはない。そもそも、害のあるものなんてほとんど無い。あったとしても、一時的にくしゃみが止まらなくなるなんて、何て事ないものばかりだというのに。
担任の強張った顔と濁った色が忘れられなくて、本来なら出席しないといけない夏休みの補講をサボっている自分は、教師陣からますます不思議なヤツ扱いされているんだろう。
嫌な記憶を思い出してしまった所為で、重い溜息が止まらない。自分が一番気が楽になるごみ拾いをしているというのに。
担任の言葉にもやもやしながら、膝まで川に浸かり、すくい網で川底をさらう。そうしているうちに、網の中にごみではない七色のキラキラしたものが入った。鱗だ。しかも、掌よりも大きな鱗。間違いなく『ごもく』。
本当ならごもく拾いをやってる人に届けるべきなんだろうが、気に入った『ごもく』を見つけると、つい収集してしまう。今回も、虹色のそれに惹かれた自分はついウエストポーチに入れた。
そして改めて網を握り直すと、今度は水面に赤いものを見つけた。水彩絵の具を垂らしたようなそれは、川の流れに逆らうように蠢いている。
そっと、取りこぼさないようにバケツですくってみると、それはくるくると渦を巻き、やがて一匹の金魚に変化した。赤いチュールを身に纏っているような見事な尾ひれを揺らしながら、優雅に泳ぐ土佐錦。しかし口はパクパクと動いている。
話そうとしている時の自分もこんな感じなのだろうかと自嘲していると、ふわりと土佐錦はバケツから抜け出した。
「わ、綺麗な子だね」
土佐錦が向かっていった、優しい声の主へ目を遣ると、岸に一人の女子生徒がいた。
『あ、金魚だ』と心の中で阿呆みたいな感想が零れた。
銅色の校章バックルが輝くベルトでウエストを絞めた、真っ白なワンピースセーラー制服。プリーツの裾と胸元の真っ赤なスカーフを、ひらひら揺らしながら佇むその様は、隣で揺蕩う土佐錦に劣らぬ可憐な姿だ。
「こんにちは、きよちゃん」
ふわりとなびく艶やかな黒髪を手で押さえながら、律儀に挨拶をしてくれた彼女に、自分はかくんと首を振る。もはや会釈でさえない。しかし、丹頂金魚のような彼女は此方の失礼な態度など気にしていないらしく、いつも通り穏やかな心情だった。
「今日もごみ拾いお疲れ様。眉間にしわ寄っているけど、大丈夫? 暑いから、無茶しちゃダメだよ」
公立中学に通う自分と、私立高校に通う一つ上の彼女。本来なら関わりが無い者同士だ。だけど、毎日のように河川敷の遊歩道で真っ赤な自転車を漕いでいる彼女の色が何となく気になって、ごみ拾いの合間に目で追っていた。すると彼女から話しかけてきたのだ。
赤べこに劣る反応ぐらいしか出来ない自分といて楽しいのだろうかと常々思ってはいるが、彼女の心情は一度も不快の色合いを見せたことがない。きっと、彼女はお人好しなのだ。けれども有難迷惑とは思わず、むしろごみ拾いの次ぐらいに心が楽になるのは、彼女の人徳故なのだろう。
彼女につつかれている土佐錦を眺めているうちに、ぽつりと独り言が零れた。
「俺みたい」
「え? この子が?」
色を見なくても、彼女が驚いているのは分かった。お陰で自分までパクパクと口が動く。情けなくて、喉の辺りで言い訳が燻ぶる。
「じゃあ、楽しいんだ」
けれども、彼女の言葉に虚を突かれた自分の口はピタリと閉じた。……楽しい? 苦しそうだが。
「あくびしてるから、すごくリラックスしてるんだよ」
……確かに、筋肉をほぐすようにもごもごと動いているように見えないこともない。
「うれしいな。今のきよちゃんは楽しいんだね」
その言葉に同意せず、ただ俯く。やっぱり自分は情けない。尚且つ、阿呆だ。
熱い頬を無視して、ぷかぷか流れるペットボトルをゴミ袋に入れていると、自分ではない誰かによる水音が聞こえた。
「わっ、結構冷たい」
小さな悲鳴が上がった方へ慌てて目を遣ると、いつの間にかメリージェーンと靴下を脱いだ彼女が川に入っている。
おいおいマジかよ。なんて陳腐な言葉が自分の頭の中でぐるぐる回って、何も出来ずに硬直してしまった。その間に、彼女は川面に着きそうになっている膝丈のスカートを掴み、裾を結ぼうとする。
柳のような脚の、日焼けなんて知らなさそうな肌が露わになり……、背の辺りに焦燥が走った自分は衝動のままに抑えていた声を喉から吐き出した。
「危ないから‼」
ぱしゃりと、土佐錦が水に還る。同時に、ぱっと真っ白な尾ひれが川面に広がり、大嫌いな自分の眼が、見たことのない色を認識した。
まただ。また間違えた。もう今度こそおしまいだ。
何時も微笑んでいる彼女の硬直した表情にジリジリとよく分からない感情が湧き上がり、口が勝手に動き出す。
「だから、その、……藻で、滑りやすいから」
「大丈夫だよ。川遊びで慣れてるから」
「そういう問題じゃ、……川遊び?」
「うん。京都に引っ越す前に住んでたところにも川があって、小学校の頃は毎日遊んでたな。……それにしても、あぁ驚いた。きよちゃんがそんな大声出すの初めて聞いたから、心臓が変にびっくりしてる」
「先輩、なんというか、昔から此処に住んでる人かと……」
「違うよ、生まれは大阪。お父さんのお姉さんが亡くなったから、お母さんのお兄さんのお家に引き取ってもらったの。あっ、伯父さんの家、すごいんだよ。外国のお屋敷みたいなんだ。この前まで木造の安アパートで暮らしてた私が見たらびっくりするだろうなぁ」
彼女の見え隠れする色の所為で、両親は? なんて無粋なことを聞く勇気は無かった。しかし、時々感じる彼女の無邪気さというか天然さのルーツが何となく分かった気がする。
「きよちゃん見に来てみて。重文だから一部が一般公開されてるんだって。あ、住所……なんだっけ、京都の住所、大阪のとは勝手が違うからこんがらがるんだよね。えーと、下立売通、新町……西入る? 薮ノ内町、だっけ?」
京都府庁の住所を教えてくるのは、本気なのか冗談なのか。彼女の天然さの所為で真偽が分からん。
……いつの間にか元の色に戻っている彼女を見ているうちに、何だか焦っている自分がちっぽけに思えてきた。
「先輩、服濡れてるから」
ぱっと、唐突に色が変わった。怒り? 不満? 少なくとも、良い感情ではない。
どうして? と混乱している間に、彼女は眉をきゅっと吊り上げた。
「まただね、また言った。私はきよちゃんの先輩じゃないのに、先輩って呼ばれてもうれしくないよ。同じ学校でもないのに、そういう改まった態度やだな。名前教えたのに。ほら、言ってみて?」
「……す、
「名字じゃなくて、下の名前」
下の名前⁈ 勘弁してくれ、普段からロクに人と喋らない自分が名字じゃない名前を呼ぶなんて、恐らく人生で一度もない。
しかし、黙っていても彼女は諦める人ではない。じっと此方を見て、口を動かすのを待っている。
「む……」
「もう一息!」
応援の仕方が独特なんだよと拍子抜けた自分は、ええいままよと口を開く。
「麦…………さん」
「んーまだよそよそしい。今日から練習だね」
練習。学校で聞くと吐き気さえ覚えるのに、彼女から聞くと何故だか希望を抱ける言葉だった。
全く、変だ。彼女といると思考の何もかもが勝手に変わってしまう。
「素足で入るのは……その、破傷風とか、危ないから。頼むから、戻ってって」
「あぁ、じゃあ明日から長靴持ってきて手伝うね」
そういう問題じゃない。と言いたいが、そこまでの気力はもう残っていない。明日の自分に説得を頑張ってもらおう。
「きよちゃんはルールをちゃんと守る人なんだね、偉いや。あのお姉さんも素足で入ってるのに」
……お姉さん?
彼女の視線を追うと、確かに妙齢の女性が浅瀬にいる。深窓という言葉がよく似合う彼女とは違う小麦色の肌は、健康的な印象を受けた。
ただ、とても危険な色を持っていると本能的に感じた。あれは人間じゃない。しかも、のっぺらぼうのおじさんとも全く違うタイプ。
耳朶に飾られた青や緑の石が太陽の光で輝くさまが、どうしてだか恐ろしくて、彼女に見ないようにと警告しようとした。
「あっ、危ない」
しかしその前に、深い方へ向かおうとした耳飾りの女性を止めようとした彼女が、動いてしまった。
ぱしゃりと水に還る音が聞こえた瞬間、咄嗟に手に持っていたものを岸へと放り投げ、そして彼女の華奢な手首を掴む。自分達の身体が、水に――、
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