《下》 臙脂色のマフラー
『パトロール中です』という無慈悲な文字が並んでいる伝言板の前で、私は空っぽの交番を睨んでみるが、今頃近所のパチンコ屋でお札を何枚もスってしまっているんだろう巡査さんに、この怨念は届かなかさそうだ。
「あっ! 先輩ちゃんだ。こんにちは」
「フミちゃん。こんにちは」
機能していない伝言の隣に、『職務怠慢』とチョークで書き足し、鬱憤を晴らした直後に、後輩ちゃんのクラスメイトであるフミちゃんがぴょんぴょんと此方に駆け寄ってくる。
「かっこいいサングラス着けてるね!」
「落とし物なんだけど……。巡査さん相変わらず不真面目だから、届けられなくて」
「巡査さんなら、さっきパチンコ屋さんから出てきたと思ったら、宝くじで億万長者になるんだって泣きながら宝くじ売り場の方に向かったよ」
「びっくりするぐらいダメダメな大人だなぁ……」
それだけこの町が平和な証拠なんだろうが、もう少し真面目に仕事してほしいもんだ。もう今日は諦めた方が良さそうだとつい溜息を吐いてしまう。
「巡査さんより、魔法使いのおじさんの方がよっぽどそれらしい仕事してるもんねぇ。駄菓子屋さんで万引きしてた高校生捕まえたり。あ、この間のクマ出没の時なんて、猟友会の人達が出動する前にライフルで仕留めちゃったし」
フミちゃんの言う魔法使いのおじさんとは、山奥の洋館で一人暮らしをしているお兄さんの事だ。今にも動き始めそうな程に精巧な球体関節人形を作れる技術力の高さから、そんな渾名をつけたらしい。
お兄さんは人嫌いなので、偶に日用品などを買いに町に降りてくる時以外は洋館に籠って人形作りをしている。しかし、フミちゃんはそんなお兄さんと仲良く出来ている数少ない子だ。
「あ! おじさんちで友達とクリスマスパーティするんだけど、先輩ちゃん来ない? おじさん、鹿とアライグマ獲ったらしいからご馳走食べられるよ!」
何だかさっきから誘われてばかりだなぁと思いつつ、今回も辞退させてもらうと、フミちゃんは唇を尖らせる。
「先輩ちゃん、この間のハロウィンパーティも断ってるのにー」
「ごめんね。お祝い事ってなんか苦手で」
「……そういえば。おじさん、何故だか先輩ちゃんに会いたがってたよ」
「え? 私、あんまり話した事ないのに。知らない間に何か粗相してしまった?」
「うーん。なんか、先輩ちゃんのお父さんと京都でなんかあったとかなんとか……」
「父と京都で? ……そういえば、フミちゃん。京都で内戦があった事、知ってる?」
「んん? ……あー。お父さんお母さん世代の人達がまだ若い頃にあったんじゃなかったっけ。おじさん、その内戦で戦ったらしいよ。ライフルの扱い上手いのも、それのお陰なんだって」
「えっ。あの人、職人さんと同じぐらいの年齢かと思ってた」
「あはは、そりゃ若過ぎだよ先輩ちゃん。この町のおじいちゃんおばあちゃん、おじさんの事を『兵隊さん』って呼んでるでしょ。内戦の時は此処も酷い戦場だったらしくて、でもおじさんが守ってくれたから平和になったんだって。その功績から、おじいちゃんおばあちゃんに尊敬されてるんだよ。……もしかしたら、先輩ちゃんのお父さんも戦ってたのかもね」
父が戦っていた⁇ アルミホイルと卵をレンジで温めて爆発テロ起こすような姿しか知らないから、イマイチ想像がつかない……。
「あれ?」
……唐突に聞こえたその声は、小学校の頃に初めて弾いたピアノの音を思い出すものだった。
先生に見つかる前にこっそり鍵盤を押すと、ソの音が私の悪戯心を含ませながら、私以外に誰もいない音楽室で反響していた。そんな風に、やんちゃっぽいのに、グランドピアノみたいに上品な声。
頭の中で響いている『ソ』が心地良くて、ぼんやりとしていると、視界に見覚えのないお姉さんが現れた。臙脂色のマフラーが似合う、とても綺麗な人だ。
「やっぱり。僕の色眼鏡だ」
細い指が、私の顔からサングラスを外す。それによって、お姉さんの姿が色鮮やかにはっきりと見えた。同時に、彼女の周囲でパチパチと星屑が散ったような錯覚に陥る。
「何処に行っちゃったんだろうって思ってたのだけど、君が持っていたんだね」
「あ……バスの停留所のベンチに、あって……」
「うん? あぁ、そういえば朝にバスに乗って……。その前に地図を見る為に外したんだったっけ。成程、やはり僕の不注意か。届けてくれてありがとう。僕、太陽の光があまり得意ではなくて……。これがないと外で活動したくなくなっちゃうんだ」
藍染したみたいな青みがかった黒髪は、長くてつやつやしている。目はラピスラズリみたいに鮮やかな青で、不思議な事にチカチカと金色が見え隠れする。それを纏めるように白い肌は雪みたいだ。そんな、まるで冬の夜空が自我を持ったようなお姉さん。人間とは思えない風貌だ。
太陽の光が苦手なら、きっと吸血鬼なんだ。伯母より、余程それらしく見える。
「おや? ……おーい、どうしたの。魂抜かれたみたいな顔をして」
「……偶々、拾っただけ、だから……」
「そのお陰で、僕の手元に戻す事が出来たんだよ。本当にありがとう。そうだ、お礼がしたいな」
「え……」
「食事とか、どうかな」
「……わ、わかった。いく」
「決まりだね。じゃあ、行こうか。僕の滞在先に案内するよ」
微笑みを浮かべるお姉さんがぱっと方向変換した事で、インバネスコートの裾が翻る。黒いコートと、マフラーの深い赤のコントラストは、良く映えていた。
「うん……」
「先輩ちゃん、またねー! お正月は一緒におせち食べよう!」
「うん……、考えとく……」
はっと我に返ると、何時の間にか私は町の中心から離れたところにいた。多分、お兄さんの洋館がある山の近く。お姉さんの側にいると、自分が何をしているのか分からなくなってしまう。
「ねぇ、この先には泊まれる場所なんてないよ。どこ、いくの?」
「何処って。言っただろう? 僕の滞在先さ」
おかしい。この先には『お化け列車』しかない。何時どうやって山の中に捨てられたのか、この町のおじいちゃんおばあちゃん達でも分からないボロボロの蒸気機関車。それが、滞在先なはずない。
このままじゃ、大変な事になると感じた。きっと、私がお姉さんの食事になってしまうんだ。
白いテーブルクロスの上で、私は銀食器に飾られている。しかも、首から下が無い状態で、血が滴って――そんな妄想をしてしまい、背筋が震えた。
今ならまだ間に合う。適当な話をして、お姉さんの気を逸らし、走るんだ。此処の反対側にある洋館まで走れば、パーティをしているんだろうフミちゃん達に助けを求める事が出来る。
「す、素敵なコートだね」
「ん? ……これ、実はリメイクしたんだ。貰い物なんだけれどね。少し前に破れてしまって。先生……これをくれた人は、ボロなんだから捨ててしまえとは言うけれど、長年大切にしてきたからどうしても手放せなくて」
コートのケープ部分に付けられたファーが、北風によってふわふわ揺れる。それが逃げる合図なんだと確信した。
「ほら、着いたよ」
しかし踵を返す前に、私の手首は氷のように冷たいお姉さんの手に掴まれてしまった。もう駄目だ。退路は断たれた。絶妙な火加減で炙られ、レアステーキにされて美味しく頂かれちゃうんだ……。そんな恐怖を抱いた私は固く目を閉じて、この後の恐ろしい行為を待ち構えていた。
だけど、何時まで経っても、熱さも痛さも感じない。
「何してるの? 目を閉じて歩いていたら危ないよ」
恐る恐る、目を開けてみると、……目の前には、ピカピカに手入れされた汽車があった。
「お化け列車じゃない……」
「お化け列車? ……まぁ間違いでもないけれど」
お姉さんに手を引かれるがまま、中に入る。そこには豪奢な内装品と、緻密なガラス細工のランプが目に眩しい車内が存在していた。蜘蛛の巣だらけの荒れた様子は跡形も無い。
お姉さんは吸血鬼じゃなくて、狐だった……? と首を傾げている間に食堂車に連れて行かれた私は、フカフカの椅子に座らされた。
「おすすめはビーフステーキだけれど、小さな君じゃ食べ切れなさそうだし、ハンバーグにしてもらったよ」
何時の間にか、お姉さんはコートとマフラーを脱いでいた。代わりに、黒いロングワンピースの上に真っ白なエプロンを着けている。
メイドさんのような姿になった彼女によって、テーブルに置かれたのは、唾液が口の中でじゅわりと溢れそうな食事だった。
どうぞ。と微笑みかけてくるお姉さんに逆らえない私は、恐る恐るナイフでデミグラスソースがつやつやと輝くハンバーグを一口分に切り分け、フォークで口に運ぶ。もしもこれが人肉だったら? 毒が入っていたら? と最初は怯えていたものの、特に異常な点は無い。寧ろ、とても美味しい。
その後は夢中でカラトリーを動かし、風味の良いバターをこれでもかと塗ったバケットのトーストを齧り、目に鮮やかなサラダを頬張った。仕上げに、固形コンソメとは比べ物にならない旨味が閉じ込められたスープを飲み干して完食したところで、向かい側の席でクスクスと笑い声が上がる。
「良い食べっぷりだね」
ニコニコと此方を眺めているお姉さんに気付かぬ程に一心不乱に食べていた事が恥ずかしくなり俯いた。この人はご飯をご馳走してくれただけの、普通にいい人だ。とんだ失礼な勘違いをしてしまった。
自分の失態を深く反省していると、私とお姉さんしかいなかった筈の車内が騒がしくなり始めた。駄菓子屋のおばあちゃん。最近、肺と肝臓を悪くして安静に入院してる筈の八百屋のおじさんまでいる。
「今回の乗客は老人が多いね。この町が平和である証拠かな」
「何で皆、此処に来たの?」
「旅に出るためだよ」
「旅?」
「新天地で生きていく為、大切な人ともう一度出会う為……。理由は色々あるけれど、この汽車は少しでも安全な旅が出来るように、お手伝いしてあげるのさ」
「……私も行きたいな」
「えぇ? どうして」
「大切な人に会えるのなら、お父さんとお母さんに会いたい」
もう一度会えたら。洗濯機が直せなくても、魔法が使えなくても、全然ダメダメな大人でもいいから、また一緒に暮らそうって。そう言うんだ。
「……君の両親は今何処に?」
「分からない。伯母さんは死んだって言ってるけど、お葬式してないから」
「生死不明……。京都関連か。あそこは行きたくないって汽車が駄々こねるぐらい危険な場所だし」
「これに乗れば、二人のところ行ける?」
「……まぁ、行けない事もないけれど」
「じゃあ、連れてって」
「駄目だよ」
今までの穏やかな様子から一変し、お姉さんは冷ややかな声色で私の願いを拒否した。
「何で」
「……死んだ人は何処に向かうと思う?」
唐突な問いかけに狼狽えたものの、どうにか頭を働かせ、答えを作る。
「天国とか、地獄とか……?」
「うん。そういう考えもあるね。僕は、月の向こう側にあるお星様に向かうと思っているよ」
「お星様?」
「古い体を脱ぎ捨てて軽くなった魂がふわふわ浮かんで、遠いお星様に旅に行くんだ。時々星空が輝くのは、残された人達に大丈夫だよっていうメッセージを送っているのさ。……おかしい考えかな?」
「ううん。とても、素敵だよ」
「そう思うなら、態々会いに行く必要はないね。星空を見上げたら、君の両親がいるお星様が見えるのだから」
「やっぱり、もうお父さん達は……」
「……けれど、もしかしたら。まだ生きている可能性だってあるよ。もう少し待っていた方がいい。月の向こう側に行くには、まだ早い」
そう言うお姉さんが何処からともなく取り出したのは、シルクのハンカチだった。
受け取った私は、さっきから意思に反して目から零れ落ちる涙を拭う。しかし、どれだけ拭いても止まってはくれなかった。それと共に、ずっと昔に喉の奥に押し込めていた言葉もぼろぼろと零れていく。
「お母さんを探しに行かなくたってよかったのに。ただ、何時まで経っても元気にならないお父さんにしっかりしてほしかっただけ。いくらダメダメな大人でも、お母さんがいた頃は、冷静に修理業者を呼べるような人だった。お母さんがいなくなっちゃったから、ううん、私が我儘言えばよかったんだ。共働きなんてしないでって、毎日家にいて欲しいって言えば、お母さんは――」
「馬鹿だね。あいつらにそんな事言っても意味が無いぐらい、自分がよく分かってるだろうに。あんたはどうしてこう、優しいんだか」
「……伯母さん?」
何時の間にか、すぐ側に佇んでいた伯母は、溜息を吐きながら私の頭を撫でる。
「何時もそう。こんな貧乏暮らしの私に預けられる羽目になっても、私がどんなに爺さんにキレられても、へらへらして私を気遣って。しかも本気で心配してるんだから、とんだお節介焼きだよあんた」
「いや、だった?」
「……さあね。少なくとも、幸せだったかもね」
「伯母さん、どうして此処に」
「あんたこそ、何でこんなトコにいるんだか。お別れの挨拶に来たんだよ。長い間カビ臭い生活させて悪かったね。これからは爺さんの豪邸で自由に暮らしな」
「でも、お父さんが伯母さんちで待っててねって言ったし」
「少しは疑うってことを覚えな。もうあいつは帰って来ない」
「やだ」
「だから、あいつの言葉なんて気にしなくても――」
「家族ともう別れたくない」
「……馬鹿だね。そういうのは、義息と縁切ったくせにあんたの事気にかけてる爺さんに言ってあげな」
父とそっくりな笑顔を浮かべながら、じゃあねと軽い挨拶をした伯母さんは踵を返した。
「伯母さん、何処行くの」
「あんたの迷惑にならない所に」
「私、迷惑に思った事なんてないよ。伯母さん、伯母さん……ねえ」
どんどん遠ざかる伯母の背中に、手を伸ばそうとした。けれども、お姉さんの手に拒まれてしまう。
「これより先は、駄目だよ。それに、この汽車の出発準備が整っちゃったから、君はもう降りなきゃ」
お姉さんの方へ一瞬意識が逸れた間に、伯母さんの姿は消えていた。もう会えないのだと、何となく分かってしまった。
「伯母さんと会えたのは、お姉さんのお陰?」
「君に似ていたからね。もしかしたらと思って、彼女を食堂車に誘導したんだ。本当は、乗客になったら知り合いに会ったら駄目なのだけど。クリスマスだし、今回だけ特別」
「……ありがとう」
思わずお姉さんに抱き着くと、良い匂いがした。べちゃべちゃの顔を押し付けられてもお姉さんは嫌な顔一つしない。それどころか、私の所為でシワクチャなハンカチで丁寧に顔を拭き、寒そうだねと気遣いの言葉を呟く。すると、首元が温かくなった。
「うん、似合うね。……それでは、本日のご利用誠にありがとうございました。いずれ、君がこの汽車の乗客となった際には最高のサービスをお届けするよ」
「また会えるの?」
「君がまた会いたいと思えば、きっと会えるさ」
どこまでも優しいお姉さんの輪郭が、涙によるものではない何かによって歪み、そして――、
「行方不明者を発見しました! はい、今から合流します!」
お姉さんとは違う冷たい手に手首を掴まれ、ちょっとだけ悲鳴を上げながら視線を上にやると、強張った顔をした洋館のお兄さんがいた。
「お兄さん、フミちゃんとパーティしてる筈じゃ……?」
「とうにお開きになっている! 今何時だと思っているんだ‼」
「何時って…………え?」
お兄さんの左手首にあるデジタル腕時計を見れば、何と二十三時と表示されている。フミちゃんと別れてから五時間は経っていた。そんな馬鹿な。汽車の滞在時間なんてせいぜい二時間程だと辺りを見れば、錆びついた汽車が打ち捨てられている。
「お化け列車に戻ってる……」
「全く! 真夜中の山で一人なんて危険にも程があるぞ!」
「お兄さん、さっきから私と接触しているけど大丈夫?」
「…………アッ」
ぱっと手を離したお兄さんは、尋常じゃないぐらい呼吸がおかしくなる。人嫌いを何時の間にか克服したのかと思ったけど、違うみたいだ。
「と、兎に角、下山するぞ……。迎えの車が来ているから」
ハンバーグの味が残っている唇を舐めながら、大人しく山を下りていると、唐突にお兄さんが呟く。
「昔、君の父親と俺は戦友で……彼は勇敢な人だった」
「………………うん」
また涙が零れそうで、空を見上げてみた。
十日夜の月と、三つの星が瞬いている空。その美しさで更に涙が溢れそうなのを、どうにか堪えた。
「義父から縁を切られようと彼女の生存を信じていた事は、それだけは唯一、愚かだった。しかしそれ以外は誠実だ。彼は彼女が生まれ育ったこの町を愛していた。だからこそ、君を此処に遺した」
「うん」
「彼を恨んでいるか」
「全然」
「そうか。……そのマフラー、良く似合っている。彼女も、赤がよく似合う人だった」
「ありがとう」
それ以上、お兄さんとの間に会話は無かった。
静かな夜の中、私は首元のマフラーに顔を埋める。すると、白菊の香りに優しく包み込まれた。
直後、何処か遠くで、汽笛が鳴ったような気がした。
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