平安の国
チクタクケイ
月の向こう側に行くにはまだ早い
《上》 スエードの手袋
洗濯機が壊れた。
『入』のスイッチを押した途端、ご近所迷惑待ったなしの轟音を上げながらガタガタ震える。震える程洗濯物に会いたかったのかと入れ忘れていたハンカチを入れてやるものの、残念ながら大人しくなってはくれなかった。
長年アパートのベランダに野晒しにされて黄ばんでいるボディと『National』のロゴが哀愁を漂わせている洗濯機の絶叫をどう黙らせるか考えているうちに、そういえば昔もこんな事あったなと思い出す。ボロボロの縦型洗濯機ではなく、スタイリッシュなダークブラウン色の最新ドラム型洗濯乾燥機で、だが。
今のようにスイッチを入れた途端に悲鳴を上げた洗濯乾燥機によって、当時小学生の私はパニックを起こし、父に泣きついた。しかし、仕事ぶりは優秀なのに家庭の事になるとダメダメな父は、泣きじゃくる私によってあたふたし、現場は混乱を極めていた。
何時までもどうしようどうしようと困り果てている父にとうとう我慢できなくなった私は、言ってしまったのだ。
「お母さんなら、魔法使いみたいに何とかしてくれるのに。お母さんどこに行っちゃったの?」
優柔不断な父を引っ張ってくれて、家で困った事が起きても魔法のようにすぐさま解決してくれた母。けれどもある日、何時も通り父と仕事に出かけたはずなのに、真っ青な顔をした父しか帰ってこなかった。今でも母が何処に行ったのかは分からないが、幼い私は悲痛に浸っている父を気遣い、母の事を言及するのを避けていた。しかし、とうとうその時尋ねてしまった。
何となく予想していた通り、父はその言葉によって泣きそうな顔になった。だけど、その後すぐに微笑み、迎えに行ってくるよと言った。
その後、私を伯母に預けた父は、私が中学二年生になった今でも帰って来ない。嫁と同じように化け物の巣窟で惨めに死んだんだと伯母はよく分からない事を言っているけれど、もし両親が亡くなっている可能性があるのなら、どうして遺体に対面したりお葬式をする事が出来ないのだろう。
「……何をしている」
ぽかんと口を開けながら洗濯機の前に突っ立っていた私は、多分間抜け面を晒していたんだろう。隣に住むおじいさんが、ベランダから呆れ顔で此方を見ている。
「洗濯機の様子がおかしい」
「コンセントを抜きなさい」
おじいさんのアドバイスに従ってコンセントを抜くと、洗濯機は沈黙した。
真っ白に燃え尽きたボクサーのような虚しさを纏うコイツのお陰で予定が狂ったと溜息を吐きつつ、これからやるべき事を脳内で整理する。
「修理出さないと……」
「とうの昔に生産終了しているのだから部品が無いだろう。買い替え時だ。まぁどちらにせよ、しばらくは無理だろうが」
「え?」
「この辺りで唯一電化製品を取り扱っている電気屋の家族は、年末年始に纏まった休みを取ってグアムに行った」
「えぇ⁈」
道を挟んだ斜向かいにある小さな電気屋さん。確かに、もうすぐお昼時なのに、朝と同じように灰色のシャッターが下りたままだ。シャッターに見覚えのない張り紙が見えるが、多分あれに休業のお知らせが記されているんだろう。
なんてこった。まだ一週間以上ある年末年始を、今着ているヨレヨレの寝間着や、洗濯していない服で過ごさないといけないのか。いや、学校のブレザー制服もある。しかし、私は新聞紙と揶揄されている灰色タータンチェックのプリーツスカートが苦手なのだ。冬休みにわざわざ履きたくない。……なんて、うだうだそんな事を考えていると、また溜息を吐いた。今度はおじいさんの口からだけど。
「……娘が遺した服を貸してやろう」
「あ……、ありがとう、ございます」
私が中学進学した頃に隣に越してきたおじいさんは、本来は京都に大きなお屋敷を持っており、政治家や社長さんから頭を下げられるほどに偉い人らしい。同級生は、こんな近畿の片隅にある田舎のボロアパートに住む物好きな偏屈爺さんだから気を付けろ、些細な事で怒りそうな人だからと忠告してくる。しかし、私からしたらおじいさんは甘過ぎる。些細な事で怒るどころかお小遣いを渡してくるし、今みたいに何かしらの贈り物をしてきたり、定期的にご飯をご馳走してこようとする。申し訳ないから何時もは丁重に断っているが。
きっと、おじいさんは私を孫扱いしている。前のお正月に、お父さんが忙しいからと代わりに挨拶をしにアパートを訪れた本当の孫娘ちゃんは、可愛い子だったが……。……何というか、クールな雰囲気だった。あの子じゃ『おじいちゃん』と甘えてこなさそうだ。事実、『お爺様旧年中はお世話になりました。本年も宜しくお願い致します』と簡潔な挨拶をすると、立ち去ってしまったし。流石のおじいさんでも、『こういうところで愚息と似やがって』と涙目になっていた。
……年明けしたらまた挨拶に来るのかな。おじいさんの年始がまたしょっぱい日々にならないといいのだが。
「よく似合っている」
「ありがとうございます……?」
お隣にお邪魔させてもらい、おじいさんから渡された服に着替えた。娘さんの高校時代のセーラー制服らしいが、そこまでダブダブでもない。娘さんは小柄だったんだろう。
ワンピース型という独創的なデザインに物珍しさを覚え、くるくると姿見で自分の姿を確認してみるが、おじいさんが言うように似合ってるのかはよく分からない。しかし、私に甘々なおじいさんは間抜けに確認している姿さえも絶賛してくる。更には、『学生時代の娘にそっくりだ。当時はこの町のマドンナでな……』と追憶し始め、鼻を啜る。
娘さんが現在どうなっているのかぐらいは、伯母さんからどうしようもない天然だと呆れられる私でも察していた。このままではおじいさんの年始がまた湿っぽくなってしまう。
「私がそっくりな筈ないよ」
「……そうだな。お前は父親似だ」
「え? ……あ、服。本当にありがとう。今度クリーニング出してから返すね……」
「お前が持っているべきだ」
ん⁇ 何か、今日はおじいさんと会話が噛み合わないな……。
「今日はクリスマスだ。プレゼントにやろう」
「は、はぁ……」
「折角の祝い事だ。食事に行かないか。……あまり誘いたくはないが、あの抜け殻も」
おじいさんは、伯母さんの事を抜け殻と言う。中々酷い呼び方なのでやめた方がいいと言ってはいるが、あんな役立たずにはそれぐらいが丁度良いと主張するばかりだ。
「いい。伯母さん、今日も寝てるし」
「……またか。あの騒々しさで何故あれは起きないんだ」
「耳栓着けてるから、ちょっとやそっとじゃ起きないよ」
「どれだけ役に立たなければ気が済むんだ……」
「夜はずっと外にいるから、寝かせてあげたい。お昼は動かなくていいよ」
「夜もふらふらしてるだけで、役に立っていないだろう」
「自由でいいよね。ああいう大人になってみたい」
「ならんでいい!」
こめかみを押さえて唸るおじいさんに、じゃあまたねと声をかけて、私は自宅に戻る事にした。お腹が減ったからお金を取りにいかないと。
「伯母さんただいま。お腹減ったし出かけるね」
太陽を嫌うように夜に活動して、昼は布団に包まっている伯母の姿は、まるで吸血鬼だ。この土地自体も本当は嫌がっているみたいで、『此処から出たい』、『やっと気味の悪い地元から出られたのに、此処に居たって同じ』、『あの愚弟の所為で』が口癖。最近では私と顔を合わせると泣いてしまう。一体何に怯えているんだろう。黄色い救急車の呼び出し方を調べたら良いのだろうか。
それにしても、今日は何時も以上に静かだ。せめて寝返りしないと、体に悪そうだけれど大丈夫かな。
ピクリとも動かない伯母の枕元に、洗濯機は壊れているので使えませんと記した書置きを残してから外に出る。すると、年末の寒風が熱を奪おうとしてきた。高級そうな肌触りの良い生地を使っている服のお陰で、ペラペラのブレザーで登校している時よりはマシだが。
既に冷え始めている指先を擦り合わせつつ、向かったのは駅の近くにある駄菓子屋さん。石油ストーブの側でうとうとしているおばあちゃんに百円玉を二枚渡し、かにぱんを購入する。
そして自動販売機でカイロ替わりのココアの缶を買い、改札出口の側にあるバス停留所に向かうと、見覚えのない物がベンチに置いてあった。サングラスだ。
手に取ってみるものの、青いレンズが珍しいだとか、丸眼鏡のフレームだという特徴しか分からない。持ち主の特定は難しそう。後で交番に届けるか。
持っていくのを忘れないようにサングラスを身に着けてから、ベンチに座ってパンを齧る。カニからトンボになり、セミになる。この間までこの神秘は、進化しているのか退化しているのかと疑問に思っていたが、伯母曰く変身しているらしい。目から鱗だったが、伯母には呑気な奴だと呆れられた。あの人には呆れられるか泣かれるかの二択しかされていないような気がする。
「何してるんだ?」
少し前にも同じ事を言われたようなと首を傾げつつ、目の前にやってきた人物を見上げる。
「……職人さん。こんにちは」
細身のスキニージーンズが映える、ひょろりと背が高いお姉さん。小学校から仲良くしている後輩ちゃんの縁で知り合った人だ。
一度、彼女の職場であるガラス工房を見学する機会があったが、線香花火のように輝いている蕩けた硝子を綺麗な作品へと変貌させる技術は、とても格好良かった。なので尊敬の意を込めて職人さんと呼んでいる。しかし彼女にはその呼称を苦笑されてしまう。
「そんな大層なモンじゃないって言ってるだろ。で、こんな寒空の中何してる?」
「ランチタイム中」
「は? ……てっきり、おやつにかにぱん貪ってるのかとばかり……」
「あまり自宅で騒がしくしたくないから。休日のお昼は何時も此処にいる」
「……その恰好は?」
「服は貰い物。サングラスは後で交番に届けるのを忘れないように掛けた」
「落とし物かよ。…………お前そういうヤツだったな、そういや」
「え? ……そういうあなたは、何をしてるの?」
話し方は粗野だけど、あまり仲良くしようとする意志が感じられない敬語で話していた初対面の頃よりは親しみを持てる彼女は、私の隣に座るとクマのイラストが描かれた紙袋を見せてくる。
「電車で都市部に行って、クリスマスプレゼントを買ってきた。で、これからお前の後輩とクリスマスパーティをするから待ち合わせ中。お前も来る?」
「やめておく。賑やかなのは、苦手」
「そうか」
「あなたも、賑やかなのは苦手なのかと思ってた」
「……まぁ、アイツに絆されたって事だ」
そばかすの散った顔にシワを寄せるぐらいの反応しか見せなかった筈の職人さんは、最近は穏やかな表情を見せてくれる。成程、確かにあの子……後輩ちゃんに絆されている。
「後輩ちゃんの事、好きなんだ」
「……そうかもな」
「後輩ちゃんと離れない為に、この町で就職したの?」
「それは……。私がただ、地元に戻りたくないからだよ」
「地元は嫌いなの? うちの伯母さんと同じ」
「そうだな……って、この町嫌ってるのか。あのおばさんは」
「伯母さんは京都の人だよ。この町も嫌ってるみたいだけど」
「あぁ、京都か。あそこは先の内戦の激戦区だったからな……」
「え。内戦なんて、あったっけ? 応仁の乱?」
「何でそんなしょーもないジョークは知ってて内戦の事知らないんだよ。授業で習……わないか。この□□国の汚点みたいなものだし。お前、スマホ持ってないのか?」
「ない」
「テレビのニュース観ないのか」
「うちにテレビない」
「お前、マジモンの世間知らずなんだな……。あぁ、そうだ。隣に住む爺さんに内戦の事聞いてみると良い。あの人の息子は内戦の英雄だから、詳しい話知ってるだろ」
「英雄? おじいさんは愚息だって言ってるけど……」
「……内戦じゃ英雄でも、今は違うからな。大昔は観光客で溢れてた京都は今じゃ見る影も、ぐふッ⁉」
突然、何かが職人さんの片腹へとミサイルのように突っ込んできた事で、会話は強制的に打ち切られてしまう。
「やっと見つけた! バス停でずっと待ってたのに何で来ないんだ‼」
「ゲホッ、また東口側のバス停にいただろお前……。西口側だって何度も言ったのに」
「え? そ、そういえば、そんなこと言われたような……⁇」
「馬鹿」
「あいったぁ⁈」
強烈なデコピンによってその場に蹲るのは小型ミサイル――ではなく、件の後輩ちゃんである。今日もふわふわきらきらとした服でバッチリ決まっている。
「こいつも来たことだし、じゃあな」
「え⁈ 先輩は一緒にクリスマスパーティしないのか」
「さっき断られたよ。自分中心に世界を回すなジャイアニズムチビ」
「チビじゃなーい‼ お前がのっぽなんだ!」
「ジャイアニズム振りかざしてるのは否定しないんだ」
若干傍若無人なところがある後輩ちゃんについ苦笑いが零れそうだ。
ココアを飲み干してしまった事で、再び悴み始めてる指先に息を吹きかけていると、職人さんとぱちりと目が合う。と同時に、空き缶を回収され、代わりとばかりに大きな手が私の手を包み込んだ。
そして、チラホラと火傷の痕がある温かい手によって体温を取り戻した手は、柔らかいスエードの手袋を纏う。
「パーティ来ないなら、せめてプレゼントとして受け取ってくれ。今さっきまで私が使ってた安物で申し訳ないけど」
「あー! ずるい‼」
「あ? お前この間新調してただろ」
「そういう事じゃなくて! 私もお前からプレゼント欲しい!」
「アーうるさい。後でくれてやるから、さっさとお前んち行くぞ。じゃあな」
「うん、またね」
「あっ、正月! お正月はうちに遊びに来いよ先輩‼」
「あなたのお兄さんがいないのなら、考えとく」
「よし! 来年のお正月は、兄さんは出禁にする! だから絶対来いよ! 絶対だぞ‼」
立ち去る二人に手を振ると、何時もと違う私の手が目に入る。安物なんて言っていたけれど、結構な値段がするだろうダークブラウンの手袋。職人さんみたいな、このぶかぶかの手袋がぴったり似合う格好いい大人になりたいものだ。
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